ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(63:鳥居本) 滋賀県彦根市 6km 2016.4.18


(写真は、胃腸薬「赤玉神教丸」で有名だった「有川家」)

早朝に新横浜から新幹線に乗り、前回のゴールである近江鉄道の鳥居本駅へ向かいます。

新横浜(6:46)→(新幹線)→(8:48)米原(9:01)→(近江鉄道)→(9:07)鳥居本

鳥居本(とりいもと)駅で降りて、駅のホームの構造を確認します。


近江鉄道は単線で、鳥居本駅は、駅のホームを挟んで上下の
線路が両側にある”島方式”でした。

上の写真の鳥居本の可愛い無人駅舎を出て、いったん宿場の
入口まで引き返します。


鳥居本宿から1里(4キロ)の所に、井伊直弼の居城・彦根城
があり、鳥居本宿は中山道の旅人だけでなく、彦根城下を行き
交う人々でも賑わいました。

また、次の宿場町の高宮宿には、古くから信仰を集めていた
多賀大社があり、鳥居本宿は大社詣での人々でも賑わいました。

「鳥居本」の地名は、昔は多賀大社の大鳥居がここにあり、
鳥居本宿が多賀大社の参道の入口だった事に由来するそうです。


鳥居本宿に入ると、街道は直ぐに左に鉤型に折れますが、その角に「有川家」があります。

上の写真は有川家の正面で、冒頭の写真は有川家を側面から
撮影したものです。

有川家は、江戸時代から「赤玉神教丸」という胃腸薬を製造
販売(1658年創業)しており、現在もそのままの姿で薬の
営業をしています。
江戸時代に於ける「赤玉神教丸」の人気は凄く、ここを通る
旅人は必ず買い求めたそうです。

ちなみに、富山の薬「赤玉」も、ここが元祖だそうです。

江戸時代には、「有栖川宮家」からも出入りを許されており、
「有川家」も「有栖川」から名前をもらったという由緒ある
家柄です。

従って、皇女和宮や明治天皇も立ち寄って休息されました。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)でも、弥次さん喜多さんが、ここに立ち寄って一句、

”もろもろの 病(やまい)の毒を消すとかや この赤玉の 珊瑚珠(さんごじゅ)の色”

(珊瑚の珠と同じ色のこの赤玉も、もろもろの病の毒を消す
 そうな。珊瑚珠には毒を消す力があるとされていました。)



この有川家の左手の細い道を入って行くと、国道8号の向い側
に、上の写真の様に、右手に「上品寺」、左手に歌舞伎で
有名な「法界坊の鐘」が見えます。

この「法界坊の鐘」には、資金集めに協力した遊女らの名前が
刻まれていることから、歌舞伎の世界では、法界坊が”遊女
との恋に溺れる破戒僧”として登場します。
(歌舞伎「隅田川 続俤(ごにちのおもかげ)」)

しかし、この寺の7代目住職である法界坊は、実際は、江戸で
苦労して資金を集め、上品寺の釣鐘を作り、大八車でその釣鐘
をここまで運んだ真面目な僧だったそうです。




宿場町を少し進むと、軒下に「合羽」(かっぱ)の看板が
下がる上の写真の「木綿屋」があります。

当時、鳥居本宿には、15軒もの合羽屋があり、防水性の高い
鳥居本の合羽は、中山道の人気商品だったそうです。



上の写真は、当時のままの合羽の看板を屋根の上に残した建物です。


(本陣跡)

以下は、江戸時代の雰囲気を残す鳥居本宿の町並みです。


















上の写真は、街道歩きの人のために新しくできた「鳥居本宿
交流館・さんあか」で、ここでトイレを拝借します。

この交流館の「さんあか」という名称は、多分、鳥居本の
「三つの赤の名産」(赤玉神教丸、柿渋に紅ガラの合羽、
スイカ)を指しているのでしょう。

鳥居本宿の町並みを抜けると、直ぐ右手に、下の写真の
「左 中山道 右 彦根道」の道標があります。

「彦根道」は、中山道と彦根の城下町を結ぶ脇街道として整備
されたそうです。

道標の裏側を覗いてみると、上の写真の様に「文政十丁亥秋
建之」とあり、文政十年(1827年)に立てられた道標です。

この「彦根道」は、彦根の城下町に向かう道としての役割の
他に、「朝鮮通信使」が通る道でもあったので、「朝鮮人
街道」とも呼ばれていたそうです。

鎖国時代に正式な外交があったのは朝鮮だけだったので、徳川
幕府は「朝鮮通信使」を丁重に処遇しました。

ここの「朝鮮人街道」は、徳川家康が、関ケ原合戦に勝利して
京に凱旋したときに使用した縁起の良い街道だったので、
「朝鮮通信使」だけに利用させ、大名の参勤交代にも利用
させませんでした。


ここから先は、街道の左右が田畑の長閑な田舎道になります。
やがて『小野』の集落に入ると、新幹線の高架が近くなります。





寄り道をして、その高架をくぐって進んでみると八幡神社が
ありました。


街道に戻ると、間もなく、『小野』の集落の左手の高速道路の脇に「小野小町塚」があります。

絶世の美女と言われた「小野小町」は、下記の百人一首を
詠んだことでも有名です。

”花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身世にふる 
ながめせし間に”

案内板によると、出羽郡の郡司をしていた小野好美は、ここに
立ち寄った際に、ここの娘を養女に貰い受けて連れて帰ります。
この娘が「小野小町」だったそうです。
(もっとも、小野小町伝説は日本各地にあるらしいですが。)


小町塚のすぐ後には、上の写真の様な小さな地蔵堂があり、
中を覗いてみると、下の写真の「小町地蔵」がありました。


案内板によると、自然石を利用して、十五世紀後半に造られた
阿弥陀如来坐像だそうですが、ガラス越しなので、写真の様に
阿弥陀様か否かよく分かりません・・・



小町塚から、街道は、新幹線の高架をくぐり、原の集落に入ります。


集落の右手に「原八幡神社」の鳥居があり、鳥居の脇に
「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」の石碑が建っていました。



奥へ進むと、社殿の脇に次の2枚の写真の句碑がありました。

”ひるかおに ひるねせうもの とこのやま” (芭蕉)

(この芭蕉の句は、彦根・明照寺の住職に宛てたもので、
明照寺には昼顔が咲き誇っているだろうから、そこで
昼寝をしたいのだが、残念ながら立ち寄れない。
 昼寝の「床」とこの近くの「鳥籠山(とこやま)」を掛けて
います。)

”恥ながら 残す白髪や 秋の風”(祇川居士:芭蕉の門人)

(説明板によると、聖徳太子と守屋との戦いの将士たちを
憐れみ、芭蕉の夏の句に対し秋を詠んだものだそうです。)



原八幡神社を出て、高速道路の出入口の高架下をくぐると、
「中山道 原町」の石碑があり、 その横に「五百らかん 
七丁余」の石碑がありました。



これは、この奥にある天寧寺の五百羅漢を指しているのだそうです。

「五百らかん」碑の先の高架道路をくぐると、大きな「常夜灯」
と「是より多賀みち」などの道標群がありました。



「是より多賀みち」碑の脇の説明が彫られた石碑によると、
当時、ここも「多賀大社」へ向かう参道の入口だった
そうです。

更に街道を進み、芹川を渡ると、「石清水神社」があり、階段
の途中に、写真の「扇塚」があります。






江戸時代、「能楽」の「喜多流」は、彦根藩の手厚い保護を
受けていましたが、この家元が、彦根を去り江戸に帰るとき
に、門人達に愛用の「扇」を与えました。

門人達は、ここに扇を埋めて「扇塚」碑を立てたのだそう
です。



この扇塚の先には、上の写真の「鳥籠山(ちょうろうざん)
唯称寺」があり、その先で、近江鉄道の踏切を渡ると、もう
高宮宿です。





「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、
鳥居本宿に長逗留した旅人が、お供を従えて宿場町の
外れの辺りを歩いています。

そこへ、この二人の旅人とは馴染みの鳥居本宿の飯盛女が
追いかけて来ます。
弥次さん喜多さんは、話を聞きながらついて行きます。
旅人「やあ、こんなところ迄、見送りは要らないよ。」
飯盛女「あんたは、私を女房にすると、伊勢神宮の証文に書き
    込んだよね。」
旅人「ああ、俺は心変わりしないから心配するな。」
飯盛女「だったら伏見宿の山田屋の馴染の飯盛女と別れて。」
旅人「いやあ~、あれはただの友達付き合いだよ。」
飯盛女「ねえ、四百文あげるから、鳥居本宿へ戻ってもう一晩
    泊まってよ。」
旅人「いや、無理、また来るよ。」
飯盛女「また来るといっても、いつのことやら、戻ってよ。」
と、旅人の手にすがりつきます。
お供の男「若旦那、これ以上の長逗留はダメです!」と、
無理やり引き離して行こうとします。
飯盛女「ダメだというなら、勝手にして!、私はこの荷物を
    持って鳥居本宿へ戻るから!」
飯盛女は、7貫もある荷物を軽々と担いで、鳥居本宿へ戻って
行きます。
旅人・お供の男「待ってくれえ~!」
弥次さん喜多さんは面白がって見ていました。

鳥居本宿から高宮宿までは、約6キロです。


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コメント一覧

更家
鳥居本宿の交流館
そう、薬屋や雨合羽の看板は印象深いですよね。

鳥居本宿交流館は、真新しく、駅にあった観光マップにも載っていなかったので、多分最近出来たのだと思いますよ。

ええ、街道は、ここからは、駅の間隔が短い近江鉄道沿いなので、疲れたらいつでも切り上げてホテルに戻れるので気が楽です。
Komoyo Mikomoti
鳥居本宿
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
前に丸ポストがある薬屋さん、雨合羽の看板は、印象に残っています。
懐かしいです。
ただ「鳥居本宿交流館」は記憶にないので、昔はなかった施設かな。
ここからしばらく近江鉄道沿線ですね。
更家
有川家
私も、あとになってから、有川家で薬を買って、建物の中で休息して見学すればよかったなあ、と思いました。
私は未だ北陸新幹線に乗ったことがありません、、、
仰る通り、地震で余り自粛してしまうのもよくないかも知れませんね。
もののはじめのiina
旅人よ
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/e4076932899ff4d818d5959c8bba0300
iinaも皇女和宮や明治天皇も立ち寄って休息された「有川家」で、休憩したいiina~。(^^ゞ

最近は東海道新幹線にはご無沙汰しています。東北新幹線を乗り、北陸新幹線は初乗車でした。^^

やはり、旅して気分一心するのは心身に善いです。
気兼ねなく、お金を使えばお金がめぐり巡って熊本もとどき、景気もよくなるというものです。

白川郷は、五箇山より規模が大きいです。合掌造り民家園内を見学して満足していたら、まだ広域に合掌造り民家の集落が
あるようです。俯瞰する場所からのショットを見逃しました。(^^ゞ

更家
鳥居本駅の駅舎
そう、無人の鳥居本駅の駅舎、何となく夢があって楽しいです。

確かに、初めての駅では、ホームの案内板に記載されている上りの次の駅名も、下りの次の駅名も知らない駅なので、どちらに乗れば目的地なのか戸惑います。

米原駅でお昼を食べようと思ったら、新幹線の駅なのに気の利いた食堂も何もなく、仕方なく、私も缶ビールを買って待合室で飲みました。
hide-san
鳥居本駅
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
無人の鳥居本駅の駅舎全然変わっていませんね。

懐かしいです。
鳥居本駅に着いて東京に帰ろうとしたら、電車が左の方へ行ってしまいました。
どっちへ行く電車に乗ればよいのかも知らず、
一足遅かったかと残念に思ったことを思い出しました。

米原駅で駅員さんに新幹線乗り場はどこですかと訊いた記憶です。

新幹線の駅が上の方にあったように思いますが、
キオスクで缶ビールを買って待合室で飲んだ記憶です。
更家
丹波の国さんへ
お見舞い、ありがとうございます。

そう、近江路は都会に近いので何も残っていないと思っていましたが、鳥居本はその予想に反して良かったです。

テントを背負って19日で踏破とは、世の中には凄い豪傑の女性がいるものですね、驚きましたU+203C

そうでね、確かに、東京側からの碓氷峠の上りはキツかったですね。
丹波の國から
再開待っていました
熊本地震お見舞い申し上げます。好きな処なので(知りあいに三角出身の方もいるので)、心が痛みます。

中山道ウォーク再開待っていました。近江路もいいですね。
この前碓氷峠で出会った女性の方は、テント持参で日本橋~三条大橋間を19日で、走破されました。楽しみ方はそれぞれ違いますね。

和田峠、碓氷峠では、更家さんのブログが参考になりました。個人的感想としては、京方面からだと最大の難関は和田峠、江戸方面からだと碓氷峠が、難関だと思いました。
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