ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(64:高宮) 滋賀県彦根市 8km 2016.4.19


(写真は「一の鳥居常夜灯」の灯をともす小窓への長い石段)

高宮宿は、彦根城下の商業都市として繁栄するとともに、
「多賀大社」の入口として大社詣での人々で賑わいました。

更に、高宮の周辺で生産されていた”高級品の麻布”である
「高宮布」の集散地としても有名でした。


「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんも、高宮宿の商人に「高宮布」を薦められます。
商人「私共は高宮のえびす屋でございます。名物の高宮の
縞(しま)に晒し(さらし)の布を安くしますよ。」

弥次「いや、そんな物は要らないよ。」

商人「買わなくても結構ですので、まあ、腰掛けてお茶でも
   召し上がって下さい。」

弥次「いや、もう金がないので無理だよ。何なら俺の布を
   売りたいくらいだよ。」

商人「はあ?、あなた様は晒し布を持っていらっしゃるんで?」
弥次「うん、”恥さらし”という晒し布を持っているよ。」
”買いもせず 名物の名のみ高宮に 恥をさらして 
 通る憂き旅”

(金が無くて、高宮名物の晒しも買えない憂鬱な旅だよ。
 「名物の名のみ高い」と「高宮」、「晒し」に「恥を
  さらし」を掛けています。)





近江鉄道の踏切を渡り高宮宿に入ると、最初の信号の角に、
眼病にご利益のあるという「木之本分身地蔵尊」があります。

説明板によると、お地蔵様は石造りが一般的ですが、この
お地蔵様は木彫りに彩色された珍しいもので、滋賀県長浜市
にある浄信寺の木之本地蔵の分身だそうです。
(残念ながら、お堂の中が暗くて写真は撮れませんでした。)

高宮宿の家並みは、卯建(うだつ)を上げた立派な家が多い
のが目立ちます。
直ぐ右手に「高宮神社」の鳥居が見えます。



「高宮神社」の道路を隔てた正面には、上の写真の「布惣」(ぬのそう)の建物が残っています。


その「布惣」の軒下には、江戸時代の「布惣」の建物と5つの蔵を描いた絵が掛けてあります。

その絵の説明文によると、
「布惣」では、七つの蔵にいっぱいに、高宮布が集荷されて
いたそうです。
現在は、建物の横に一つ、建物の裏側に四つの蔵が残って
ます。

「布惣」の前の高宮神社に入って行きます。

高宮神社の参道の脇の柵の中の繁みに、下の写真の芭蕉句碑が
ありました。

”をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り”  はせお(芭蕉)

(芭蕉が、雪の多い伊吹山麓に住む門人の千川を訪ねたときの
 句で、 ”雪が舞う伊吹山を眺めながら、独り静かに冬籠り
 して過ごすとは、誠に羨ましいものだなあ。”)




高宮神社を出て、江戸時代の風情が多く残る宿場町を歩いて
ゆくと、左手の郵便局の先に、「多賀大社」の巨大な
「一の鳥居」と「常夜灯」がありました。

「一の鳥居」は、1635年の建立で、高さが11メートルも
あります!

そして、驚いたのは、この大鳥居の脇にある高さ6メートル
もの「常夜灯」です。
余りにも巨大な常夜灯なので、写真の様に、灯明をともす小窓
の位置まで、石造りの長い階段が付いています!

そして、この「多賀大社」の「一の鳥居」から、「多賀大社」
の本殿迄は、何と!参道が3キロもあります!

えぇ~?、この入口の「一の鳥居」から本殿迄は、往復6キロもあるのかあ~!

今回は多賀大社詣では見送りだなあ~・・・


「一の鳥居」の先にある上の写真の小林家の前に、「俳聖
芭蕉翁旧跡 紙子塚」の碑が立っていました。

説明板によると、1684年の冬、小林家に1泊した芭蕉は、
みすぼらしい着物(紙子)を着ていました。
泊めてもらった部屋の寒さを我慢している気持ちを芭蕉が
詠んだのが、”たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子”
寒い思いをさせて申し訳なかったと、小林家では、新しい着物
を芭蕉に送るとともに、芭蕉が着ていた古い着物(古紙子)を
頂戴しました。

芭蕉の没後に、庭に形見の紙子を埋め、「紙小塚」の碑を
立てて代々大切に守ってきたそうです。


「紙子塚」の先に、本陣の表門のみが残っている上の写真の「本陣跡」があります。


「本陣跡」の前は「円照寺」です。

境内に入ると、下の写真の石垣に囲まれた「家康腰掛石」と
「止鑾松」(しらんのまつ)という腐りかかった木の株が
ありました。

説明板によると、「腰掛石」は、家康が大阪夏の陣の帰りに
腰掛けた石だそうです。

また、「止鑾松」は、明治天皇の乗り物をこの寺に乗り着ける
ために、この松を切ろうとしたところ、天皇は松を切らない
様にと、松の手前で乗り物を止めて歩かれたそうです。

「円照寺」を出ると、もう、高宮宿の外れで、「高宮橋」が
掛かる「犬上川」が流れています。



「続膝栗毛(第二部)」(静岡出版)(1,500円)では、弥次
さん喜多さんが、旅の途中で道連れになった伊五右衛門の
おごりで、高宮宿の茶屋に入ります。

茶屋では、伊五右衛門の知り合いの和尚が食事をしています。

伊五右衛門「和尚、ご無沙汰しております。」
和尚「これは、畑村の伊五右衛門さんではないか。」
伊五右衛門「和尚、一杯いかがですか。旅のお二人も、一緒にお酒はいかがですか。」
弥次・喜多「ありがとうございます。」

伊五右衛門「酒がここにあるので、皆さんに振る舞い
      ましょう。」
と言って、真鍮の輪の付いた黒塗りの水筒を取り出し、皆に酒を注いで飲み始めます。

そして、皆食事もほぼ終わり、酒も回ってきたところで、
和尚「先程からとんと気付かなかったが、その水筒はどこで
   買った?」
伊五右衛門「これは、昨年京都へ行ったときに、四条の
      古道具店で求めました。」
和尚「わかった。それは下地が黒塗りで環が付いていたろう?」
伊五右衛門「その通りですが?、何か?」
和尚「その水筒の酒をうっかり飲んでしまったので、胸が
   ムカつく。」

弥次「なぜですか?」
和尚「その水筒は”完筒”というもので、公家が葬儀で急に
   もよおした時に、これに小便をするためのものじゃ。」

弥次「さあ大変!、何故、完筒に酒を入れて飲ませたんだ?、
   胸が悪くなった。吐いてしまう。ゲェ、ゲェ~。」

喜多「ゲェ、ゲェ~。」

伊五右衛門「気の毒に。とんと知らなかったのじゃ。堪忍
    してくれ。口直しに他の酒を振る舞いましょう。」

伊五右衛門が、酒と肴をいろいろと出させて詫びたので、弥次
さん喜多さんは、仕方なく、そのまま御馳走になって、一句。

”胸悪るや 公家衆のしたる小便と うってかわった 
 酒は水筒(すいづつ)”

(酒と思って飲んだ水筒の中身が、公家衆の小便に代わった
 とは、何と胸の悪いことか。)




高宮宿の外れの「犬上川」に掛かる「高宮橋」(無賃橋)を
渡ります。



江戸時代には、犬上川は水量が少なかったので、仮橋が設置
されていたそうです。

当時、大きな橋の多くは、”橋銭”を徴収するのが普通だった
ので、”橋銭”を徴収しなかったこの橋は「むちんばし」と
呼ばれました。

現在、橋の脇には、「むちんばし」と彫られた大きな道標が残っています。

その「むちんばし」碑の後に、橋を架け替えたときに橋脚から
発見されたという御地蔵様を祀ってある「地蔵堂」があります。




広重の「木曽街道69次の内 高宮」は、犬上川の南岸から、
高宮宿の家並みを望んで描いています。
絵では、川の水が少ないので、無賃橋の仮橋の橋板が取り
外されて、橋脚だけが残っています。
中央の二人の農夫は、高宮布の原料の麻の外皮を剥ぎ取った
残りのオガラと呼ばれる茎を、縦長の俵に入れて背負って
います。



無賃橋を渡り、法士(ほうぜ)町という珍しい読み方の町を
抜けると、松とケヤキの並木が見えて来て、葛籠(つづら)町
に入ります。








上の写真は、街道沿いに立てられた「つづらマップ」です。

当時は、ここは立場で、地名の通りに「葛籠(つづら)」や
「行李(こうり)」を売る店が多かったそうです。
「葛籠」(つづら)は、「舌切り雀」で、おばあさんが雀から
貰ったお礼の宝を入れて背負って帰るあの籠(かご)のことです。
葛籠町を抜けると松並木があり、下の写真の大きな3本の
モニュメントの「おいでやす彦根市へ」があります。



歩いてきた米原市と、これから歩く彦根市の境のモニュメントです。
モニュメントの上には、商人風の男、旅姿の女、麻布の原料を
入れた円筒形の長い俵を担いだ女の像が乗っています。


街道は、彦根市の「出町」の松とケヤキの並木を抜けて、次の
集落の「豊郷」(とよさと)に入ります。

「豊郷」は、江戸時代、高宮宿と愛知川宿の「間の宿」
(あいのしゅく)として立場茶屋が設けられ栄えました。

豊郷に入ると直ぐに、豊郷生まれの偉人を紹介している下の
写真の「先人を偲ぶ館」がありました。


館内を見学して、この町から、大手総合商社の「伊藤忠商事」
と「丸紅」の2社もの創始者を輩出している事を知り驚き
ました!


更に歩いて行くと、下の写真の「豊郷小学校」がありました。  

小学校の前は広大なスペースの前庭と駐車場です。

「丸紅」の番頭だった「古川鉄治郎」は、ここ豊郷町の出身で、
私財の大半を寄付して、この小学校を昭和初期に建てたのだ
そうです。

当時、この白亜の校舎は、“東洋一の教育の殿堂”と言われたそうです。

鉄筋三階建ての校舎とその前庭は、どう見ても広々とした大学
のキャンバスで、小学校には見えません! 

前庭には、大型観光バスが3台も止まっています。


この小学校は、そんなに有名な観光スポットなのかなあ~?
豊郷町には、トイレや休憩所が至る所に完備しており、街道
歩きには有難い町です!

豊郷小学校の先に、豊郷町役場があり、その左手の「くれない
園」に下の写真の「伊藤忠兵衛翁」碑がありました。



その碑には、伊藤忠兵衛の肖像が刻まれています。

「伊藤忠兵衛」は、高宮麻布の行商から身を起こし、「伊藤忠
商事」と「丸紅」を創設しました。
この辺りの豊郷は、当時、麻の一大産地だったので、 ここの
商人の多くが麻の販売で身を起こしましたが、伊藤忠兵衛も
その一人でした。


この公園の先に、前頁と下の写真の「伊藤忠兵衛の生家」が
”忠兵衛記念館”として公開されていたので入ってみます。


邸内は、忠兵衛が暮らしていた当時のままで残っていました。


(店の間)


(箱階段)

(女中部屋)

(佛間)


(奥の間)


(庭)

親切なおばさんが、丁寧に邸内を案内してくれます。

そのおばさんの話だと、伊藤忠商事に今年入社した”新入社員
150名全員”が、社員研修の一環として、ここ”伊藤忠の
発祥の地”に、間もなく到着するそうです!

”えぇ~?、おばさん、大変だ!、のんびりと私の案内なんか
している場合では ないですよ!、早く研修受け入れの準備
しないと!”

”ええ、でも、先程、全部の部屋の掃除を終わったところ
だから大丈夫!”

間もなく、大勢の新入社員が来るとあって、準備に大忙し
だったであろう案内のおばさんは、普段は非公開の「伊藤
忠兵衛の母の隠居部屋」や「離れの茶室」の室内まで
親切に案内してくれました。


(隠居部屋)


(離れの茶室)

いや~、良いタイミングで見学出来ました。

ついでに、おばさんに聞いてみました。
”「豊郷小学校」に、大型観光バスが3台も止まっていました
が、あれは何ですか?”

”あの3台の大型観光バスに乗っているのは「丸紅」の新入
社員全員なんですよ。”

”?”

”毎年、「丸紅」の新入社員研修は「豊郷小学校」、「伊藤
忠商事」の新入社員研修は「伊藤忠兵衛の生家」と決まって
いるんですよ。”

”へ~!、そうだったんだあ~。”


伊藤忠兵衛の生家を出て、更に進むと、右手に石で囲った
上の写真の「金田池」の井戸がありますが、江戸時代には、
ここの名水が旅人の喉を潤したそうです。


金田池の先に、上の写真の「又十屋敷」がありますが、ここは
豪商・藤野喜兵衛の屋敷跡です。

藤野喜兵衛は、「又十」の商号で、江戸時代から明治時代に
かけて、北海道で漁業や廻船業を経営した大豪商で、
「あけぼの印の缶詰」の創始者です。

また、又十屋敷の入口には、上の写真の「中山道一里塚跡」
の碑がありますが、これは、豊郷町石畑にあった石碑を移設
したのだそうです。



又十屋敷の先には、上の写真の「江州音頭発祥の地」という
碑が見えて来ます。
この碑の奥にある千樹禅寺のお経に節を付けて踊ったのが
江州音頭の始まりだそうです。

その先に歌詰橋があり、歌詰橋を渡ると、もう愛知川宿です。

高宮宿から愛知川宿までは、約8キロです。


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コメント一覧

iina
神は存在するか?
http://blog.goo.ne.jp/iinna/
>シンドバットの七つの蔵の話、空の蔵を1つ造るというアイデアは思い付かないですよね。
この例のように、 存在しないものが、あたかもあるかのような存在感を示すことから、「神は存在するか?」について考えてみました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/0c34a1319fcb3a86165a525a9b4a463c

> ”をりをりに 伊吹を見てや 冬篭り”  (芭蕉)
芭蕉ならずとも、旅して見聞を広めたいです。^^

更家
サラリーマンの給料では
私も、高宮駅から1駅、近江鉄道に乗って多賀大社へ行こうか迷いましたが、電車の本数が少なく諦めました。

江戸時代の脇本陣は常に宿泊収入があり経済的に豊かだったそうです。
一方、本陣は名誉職で大名等の宿泊も持ち出しが多かったので経済的に厳しかった様です。
そのせいか、本陣跡に建つ新しい家は、質素な家が多かった様に思います。

確かに、サラリーマンの給料で、昔の立派な造りの本陣を維持するのは無理ですよね。
本陣の当主の方の仰る事、ご尤もな話だと思い、同情しました。
Komoyo Mikomoti
高宮宿
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
高宮駅から近江鉄道の支線に乗れば、多賀大社まで簡単に往復できますが、歩きだとかなりきついですね。

今はもうないのかもしれませんが「中山道高宮宿ふれあいの館」という休憩所のようなところがあって、そこでかつての本陣の当主の方とお話することができました。
そのときの旅行メモを紹介します。

建物が老築化して、大規模な補修工事をしなければ住めない状態となったが、一般のサラリーマンの給料では保存工事などはとても不可能。まだ、それを保存しようという時代でもなかった。それで門だけを残して建て替えてしまった。一時は人に貸してあったこともあって、本陣当時の資料も散逸してしまった。

この話を聞いてから、古い建物を残すというのは、とても大変なことなんだ、とつくづく思うようになりました。
更家
シンドバットの七つの蔵
ええ、長い石段の付いた立派な常夜灯は、初めて見ました。

そう、弥次さん喜多さんの句は愉快ですよね。

シンドバットの七つの蔵の話、空の蔵を1つ造るというアイデアは思い付かないですよね。
よい頭の体操になりました。
もののはじめのiina
七っの蔵
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3b223ef3960be5ba748b5c9b49260609
階段までついた常夜灯を、はじめて見ました。立派なものです。^^

>”買いもせず 名物の名のみ高宮に 恥をさらして 通る憂き旅”
さらに、弥次さん喜多さんの愉快な問答でした。^^

その布惣屋が、七つの蔵を建てたとは儲かったのですね。
シンドバットも七つの海を制覇したからと、世界中で集めた財宝を七つの蔵に納めたそうです。
物持ちは、その遺産贈与にも頓智を利かせて難しいことを考えるものです。

長男に蔵の半分を、次男には残りの半分を、三男にはその残りの半分を相続するとしました。
さて、どのように分ければよいでしょうか ?
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/3ecfa1648d80143fca9941108df80da7

>佐渡の和太鼓制作をスペインの人が見に行くというTV番組をやっていましたが、この大きさだと作るのも大変でしょうね。
iinaも「世界 ニッポン行きたい人応援団」を見ました。更家さんと同じことを考えてました。

更家
高宮小学校
そうですか、私の案内書にも、高宮小学校の近くに高宮城址があると書いてあったのですが、道がよく分からなかったので行くのを止めました。
hide-san
紙子塚
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
紙子塚の小林家の前の通りを入ったところに小学校があって、
そこへ何かあると聞いて見に行ったのですが、
空振りで腹立たしく戻った記憶があります。
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