ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(51-1:太田・宿場町) 岐阜県美濃加茂市 2015.10.16


(写真は、往時の面影を残す太田宿の町並み)
太田宿は、飛騨へ向かう「飛騨街道」と、郡上へ向かう「郡上
街道」の分岐点として、また、宿場の横を流れる木曽川の水運
の要衝として栄えました。

現在も、飛騨へ向かうJR高山本線、多治見へ向かうJR太多
線、郡上(ぐじょう)へ向かう長良川鉄道などが集まるこの
地方の交通の要所です。
また、太田宿には、中山道の”三大難所”と言われた「碓氷
峠」、「木曽のかけはし」、「太田の渡し」の一つである
「太田の渡し」があり、木曽川の増水時には、旅人で溢れ、
宿場町が潤ったそうです。

浅田次郎の小説『一路』では、一路の一行が太田宿にさし
かかったときの様子を以下の様に書いています。

一路 (上)  (中公文庫)
 
 


”江戸より五十一番目の太田宿は、師走の寒中とはいえ多く
の旅人で賑わっていた。中山道に飛騨街道と郡上街道が
合わさる、大きな宿場である。
 旅籠は二十四軒、尾張家の代官屋敷も設けられ、太田の
渡しと木曽川の水運に目を光らせる川並(かわなみ)番所
も置かれていた。”

「太田の渡し」跡がある河川敷から、木曽川の堤防沿いの
旧中山道に上がり、歩いてゆきます。
右手に文化会館を見ながら、木曽川の土手沿いに歩いてゆく
と、右下に石碑が並んでいました。
近づいてみると、写真の左から、山神、神明神社、秋葉神社、
御嶽神社、水神と彫られています。


この石碑群の先から、木曽川の土手沿いの道を下りて、太田宿
に入って行きます。


宿場町に入ると、街道沿いの左手に祐泉寺があります。



その祐泉寺に入ってみると上の写真の芭蕉句碑がありました。

”春なれや 名も無き山の 朝かすみ”
(ゆとりを持って旅を続けていると、何でもない様な山の
 姿にも心を惹かれるものだなあ。)

また、下の写真の坪内逍遥(写真右)と北原白秋(写真左)の
歌碑もありました。


祐泉寺を出ると、古い町並みは枡形に曲がり、その先に、下の
写真の「十六銀行太田支店」跡があります。


また、十六銀行の前には、下の写真の「旧小松屋」(吉田家
住宅)がありました。

旧小松屋(旅籠)は、当時の建物が現存しており、現在は、
お休み所として一般開放されているので、休憩を兼ねて見学
します。






旧小松屋を出ると、右手に下の写真の造り酒屋の酒蔵(御代桜
醸造)がありました。

そして、その酒蔵の先に、下の写真の「太田脇本陣・林家
住宅」(国指定重要文化財)がありました。

この脇本陣は、上の写真の様に、立派な卯建(うだつ)がある
建物ですが、残念ながら、今でも、子孫の方がお住まいなので
非公開です。
太田脇本陣は、中山道随一の脇本陣遺構と言われているので、
何とか見学したかったのですが・・・
その「脇本陣」の玄関の前を通り過ぎるときに、ちょうど、
上品な老人の方が、下の写真の玄関から出てこられたので、
軽く会釈をしました。

そして、その玄関の隣が、下の写真の「隠居所」なのですが、
こちらは公開されているので入ってみます。








親切なボランティアのおばさんが、隠居所の各部屋について、
丁寧に説明してくれました。

庭に出て、下の写真の水琴窟も、実際にやらせて貰って、水音
を楽しむことが出来ました。

おばさんの解説によると、自由民権運動の推進者だった板垣
退助は、明治15年に岐阜市で遊説の際に暴漢に襲われると
いう暗殺未遂事件がありましたが、その前日に、ここに宿泊
したそうです。

隣の脇本陣の玄関の前で、私が会釈を交わした上品で
カクシャクとしたご老人について、ボランティアのおばさん
に聞いてみます。
”あ~あ、その方が、御年96才の当主ですよ。
 私達も、なかなかお会い出来ないんですげどね。”

”品格のあるお年寄りだったからなあ~、やっぱりねえ~。”

更に、ボランティアのおばさんから、”明後日のお祭りの日に
ここに来れば、「太田宿中山道祭り」の「姫道中」が見られますよ。”、

”また、太田脇本陣もこの日だけ一般公開されますよ。”と、
明後日にもう一度来る様に勧められました。

姫道中と、脇本陣一般公開に、心が揺れます・・・


ボランティアのおばさんに別れを告げて、脇本陣の隠居所を
出ると、道路向かいに、皇女和宮の降嫁の際に新築された
という「旧太田宿本陣の門」がありました。

幕府大老・井伊直弼、水戸の天狗党・武田耕雲斎なども、この
本陣に宿泊したそうです。


更に、少し先には、上の写真の「太田宿中山道会館」があり、
地域交流イベントの開催、太田宿の企画展示などが行われる
そうです。

以下は、往時の面影を残す太田宿の町並みです。










宿場町を更に進むと、 「高札場と郡上街道追分」の説明板と、
「右 関上有知道 左 西京伊勢道」の石標がありました。






ここが宿場町の西の入口の「枡形」で、道を枡形に進み、国道
41号をくぐったところに、次の写真の「承久の乱 古戦場の
跡」の石碑がありました。

承久の乱(1221年)の木曽川合戦では、後鳥羽上皇率いる
朝廷軍と鎌倉幕府軍が木曽川を挟んでこの辺りで戦ったそうです。


更に進むと、右手に太田小学校があり、その前に下の写真の
「尾張藩 太田代官所跡」の説明板があります。

それによると、明治の文学者・坪内逍遥の父がこの代官所に
勤めていたそうですが、代官所の跡は太田小学校になった
そうです。

この代官所跡辺りが、太田宿の外れで、これから、うとう峠を
越えて、鵜沼宿へ向かいます。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

更家
犬山城
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
太田宿のあとで、実は、犬山城にも寄り道したので、このときの様子は、後程、ブログでご報告いたします。

モンキーパーク、リトルワールト゛は知りませんが、明治村は押しも押されもせぬ全国有数の観光地だと思いますよ。

いや~、堅実な県民性の影響もあるのでしょうか、トヨタをはじめ、今、日本で一番景気が良いのは愛知県ではないでしょうかね。
コスモタイガー
更家様
日本ライン下りで犬山に出ると、国宝犬山城が近いです。
さらに周辺には、明治村・リトルワールド・モンキーパークなど、愛知県が誇る?一大行楽地になってるのですが、全国的な知名度はいかがなのでしょうか?

地味に、堅実に、が美徳の県民性なんです。
愛知県に本社のある会社は、無借金経営が多いそうですし。

基本、ド派手に「ボン!」とPRするのは、県民性として、苦手なんですよね。
更家
太田宿はあまり変わらない
そうなんですか、太田宿は、昔とあまり変わらないんですね。
木曽川は、川幅も広く水量も多いので、時期によっては大変だったんでしょうね、
Komoyo Mikomoti
太田宿
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
昔に行ったときの記憶が薄れているので、
自分が撮った写真と較べながら拝見しました。

本陣の門が何か違うと思ったら、
前は開けた状態での保存でした。

小松屋は昔も公開していました。

大きな川を渡ることの少ない中山道ですが、
木曽川だけは特別ですね。
更家
ブラタモリ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
「ブラタモリ」軽井沢・碓氷峠の情報、ありがとうございます。
大変、興味深いテーマです。
さっそく、ビデオ録画をセットしました。
丹波の國から
ご助言ありがとう御座います
明日のNHK「ブラタモリ」軽井沢への道のり・・・・碓氷峠の難所を人はどうやって越えてきたのか?中山道の跡を歩きながら解き明かします。
碓氷峠で見つけた日本列島を真っ二つに分ける「本当の県境」とは?
麓の宿場町の長い町割りに隠された秘密とは?

更家さんのご助言を参考に明日の「ブラタモリ」を見ます。
更家
難所の碓氷峠と和田峠
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、太田の渡しの青い橋と、木曽の桟の桟温泉前の橋は、私も同じでした。

脅かす訳ではありませんが、「十三峠」よりも厳しい「和田峠」は、危険な所もあり、ホントに大変なので、事前の十分なルート調査をお薦めします。

仰るように、いざという時に、旧国道の車道へ逃げるルートも考えておいた方がよいかもしれません。

碓氷峠は京方面からだと、下り坂が中心になるので、心配するほどのことはないと思います。

どちらも、熊除けの鈴を忘れない様に!

それから、和田峠は、熊笹をかき分けるための軍手が必要です。
丹波の國から
三大難所
「太田の渡し」は青い橋で渡り、「木曽の桟」も対岸から石垣を見て桟温泉前の橋を渡りました。まだ歩いていない「碓氷峠」「和田峠」、どちらも大変なのでしょうか?ちなみに両峠共、車で旧国道を走ったり一部歩いた事はあります。
更家
本陣の門以外にも色々あり
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、本陣は、残念ながら門だけが、ぽつんとありました。
でも、太田宿は、当時を彷彿とさせる建物がいろいろとあり、雰囲気があって好きな場所です。

太田小学校、日曜日なのに見学させてくれたとは驚きです。
きっと、先生が、hide-sanさんの探求心に好感を持たれたからなのでしょうね。

ええ、間もなくロマンチック街道ですが、ここではちょっとした反省点がありました。
(それはロマンチック街道のブログで)

hide-san
本陣の門
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
本陣の門だけぽつんとありましたね。

太田宿は宿場のいろいろな建物がありますね。
思い出深い所です。
坪内逍遥の太田小学校、日曜日なのに見学させてくれました。
間もなくロマンチック街道でしょうか?
更家
太田宿は素敵な雰囲気
そう、御嵩~今渡間は退屈で、ブログのネタ探しに苦労しました。

太田宿は、期待以上に昔の町並みが残されていて好きになりました。

なるほどね、太田の渡しの廃止で失業した船頭さんを、「日本ライン川下り」で吸収しようとは、上手く考えましたね。

この先の中山道関連情報、ありがとうございます。
コスモタイガー
大田宿
http://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
会うた、は、名古屋弁丸出しの私には思いつかないネタですね~(拍手)

ついに太田宿に参上ですか!
御嵩~今渡間、さぞかし退屈だったでしょう。

太田宿に着けば、昔の町並みが結構残されていますよね。
林家住宅も印象的でした。
そして静かでした!

難所の1つ、太田の渡し。
明治になって交通網の発達とともに、渡しは廃止になりました。

職を失った船頭さん。
彼らの再雇用先?として、現在の「日本ライン川下り」があるわけです。
(屈ブログ参照)

うとう峠を越えてからの国道runも、結構単調ですから、頑張ってください。
途中にある、各務原市民公園内の図書館には、中山道関連の書籍が意外に多く、情報収集も可能ですよ。

更家
太田で”会おた”
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、快晴の秋空の下、中山道歩きが順調過ぎて、どんどん写真が溜まってゆくので、現在、必死に写真整理しながら、連続ブログアップしてます・・・

「飛騨街道」と「郡上街道」が、太田で「会おた」!、座布団2枚です!

そう、板垣退助は、多分、暴漢に襲われた前日に水琴窟の音を楽しんだんでしょうね。
iina
太田宿
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/30c26847b12f2699993097aa3d86d36c
きのうにつづいて太田宿を、きょうもアップな連日ブログでした。意外と思うほどな更家さんでした。(^^ゞ

未投稿を「負うた」のを避けたのでしょうか。
さらには、「飛騨街道」と「郡上街道」が、ここ太田で「会おた」のでこの名にしたのでしょうネ。   マタマタ (^^ゞ

ここの本陣に、歴史上の方たちが泊っているのですね。板垣退助が暴漢に襲われた前日に、水琴窟の音を楽しんだかと思うと、
その静と動が意味深です。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事