日常一般

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谷崎純一郎作『少将滋幹の母』様々な愛

2012年02月11日 | Weblog
谷崎潤一郎作『少将滋幹の母』
  解説
 平安時代中期、後醍醐天皇朝の昌泰の頃、高齢の大納言・藤原国経は、絶世の美女と言われた、その年若い妻・北の方を、若輩の甥・左大臣藤原時平に略奪される。この作品はこの史実に基づいて描かれている。
 この国経と北の方の間に生まれたのが左近衛少将藤原滋幹であり、この作品の主人公である。彼の幼いころから成人になるまでが描かれ、40年近く生き別れになっていた年老い、時平、その3男敦盛の死後、世をはかなみ、出家して尼になった母との再会で終わっている。
 ここには様々な愛の形態が描かれている。北の方を奪った時平の愛、奪われた時常の狂おしく、痛ましい愛、北の方、侍従の君の情人・平中のユーモラスではあっても、翻弄される切ない愛、母を慕う滋幹の愛がある。そして北の方自身の愛もある。愛によって、人は傷つき、愛によって人は傷つけられる。愛による悲しさ、寂しさ、切なさはあっても、楽しさや喜びもある。それだからこそ愛は素晴らしい。究極の愛とは何なのであろうか?小説、映画、ドラマ、舞台、絵画で様々な愛の形態が描かれ、追及される。愛ほど表現芸術で取り上げられるものは少ないであろう。しかし、何と平安時代のセックス・ライフの自由奔放な事よ。
 この作品は谷崎潤一郎が昭和24(1949)年11月から昭和25年3月まで「毎日新聞」に連載した王朝物の時代小説であり、昭和25年、毎日新聞社より単行本として出版された。新聞連載中の挿絵は小倉遊亀氏が担当した。
 作者が参考にしたと言われる古典は「今昔物語」「宇治拾遺物語」「十訓抄」であり、更に作者が勝手に創作したとされる古典として遒古閣文庫所蔵の写本「滋幹の日記」がある。この部分で作者は母を恋する滋幹が40年ぶりに母に再会すべく歩んだ道のりを叙情豊かに描いている。史実と創作が混然と溶け合った素晴らしい作品である。
 これからこの作品の紹介に入るわけであるが、解説者の河盛好蔵氏は、この作品の大要を次のようにまとめている。「平中の好色ばなしで始まった物語が、時平の凄まじい恋愛になり、他人に奪われた妻に対する盲執から逃れようとあがく国経の不浄観の修業に転じ、最後は『花を空かしてくる月明かりに暈されて、可愛く、小さく円光を背負っているように見える』老いたる母に40年ぶりに会って、母の袂で涙をあまたたび押し拭う滋幹の姿を描くことによって終わっている」と。
  好色の男・平中と時平の出会い
 平中の本名は兵衛佐・平の定文(貞文とも)と言い、字(あざな)を平中と言った。御子(親王)の孫で身分は卑しからず、形、有様は美しく、立ち居振る舞い、話術も魅力的で、教養高く、歌人としても秀でており、後六々選に選ばれたほどの達人であった。人の妻、娘、宮廷に伺候する宮使人は、皆、彼にあこがれ、彼と関係を持つことを喜びとしていた。そんなことから色好みとして同じく歌人の在原の業平と並び称されていた。その彼が特にうつつを抜かしていたのが藤原時平の館に宮使いしていた女房であった。時平のことを本院の左大臣と呼ぶことから、本院の侍従と呼ばれていた。
 平中は身分こそ兵衛佐と、その官職は低く、当時、左大臣として時めいていた時平とは比ぶべきもなかったが、血統や、家柄などは時平と比べて遜色はなかったし、趣味や教養でも同等であった。それ故二人は身分を超えて仲は良かった。平中は趣味人にありがちな怠け者で、官職に生きるより、自分の好き勝手に生きることを選んでいた。それ故、免官になったこともあったが、周囲の者の助けで復帰している。
 平中は時平のもとに、しばしば訪れている。それは猟官のためと言うよりも、その目的は、時平に使える本院の侍従にあった。しかし、この女性は、これまで付き合った数ある女性と違って、一筋縄でいかず、いろいろと手を尽くすものの、翻弄される。
 時平の伯父、大納言・藤原国経は、すでに、齢い70歳を超える翁でありながら絶世の美女と言われる若い女性(20代)を北の方とし、幸せな生活を送っていた。平中はこの女性とも関係があった。北の方にとって年老いた、時経との間のセックス・ライフは必ずしも、満足いくものではなかったのであろう。
 時平はこの女性に興味を持ち、関係のある平中に色々と尋ねる。そこに下心があったことは確かである。調子に乗って平中は彼女について話をする。後にこれが北の方略奪につながったことを思い後悔する。
 国経の妻・北の方は、歌人として有名な在原業平の孫娘である。業平は容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手であり、当時色好みの典型的な美男として、平中と並び称せられていた。その孫娘が絶世の美女であっても不思議はない。滋幹は国経の70を超えてからの子供である。国経と北の方の年齢差は50歳ほどであったと言われている。北の方は国経をそれほど愛してはいなかったものの、その優しい愛情にはほだされていたようである。

  時平が国経の妻・北の方を奪うまで
 平中から北の方の情報を知った色好みで有名な時平が、北の方を年老いた伯父・国経に任して置くのは勿体ない、我が物にしたい、と考えたとしても、それは当然のことであった。「将を射んと欲すれば、まずその馬を射よ」。時平はまず国経に近づいていく。時平は贈り物攻勢を始める。金銀財宝、あらゆる貴重な品物を国経に送りつける。時平は、当時左大臣であり、政敵の右大臣菅原道真公を讒言によって退けた後は、権力を我が物として時めいていた。国経に取って時平は甥ではあったが、身分的にみて比べるべきもない。国経は感動する。時平の下心など知る由もない。どのようにしてこの恩に報いるべきかと思案する。そんなある日、時平は従者を引き連れて国経宅を訪問する。感動した国経は贅を尽くした歓迎をする。座は盛り上がり、酔うほどに国経の感覚は麻痺し、「私の一番大切なものをあなたに捧げよう」と時平に言う。時平はこの言葉を待っていた。「あなたの一番大切なもの、あなたの妻・北の方を貰いうけたい」と言い、唖然としている国経を尻目、北の方を拉致し去る。
 勿論、国経は、自分の年若い妻が、自分のような老人に仕え、奉仕してくれていることには感謝しており、その恩には報いたいという気持ちは十分にあった。それ故、浮気である限り平中との仲も目をつむっていた。しかし、今回は単なる浮気ではない。自分の手の届かないところに拉致され、第三の夫人にされてしまったのである。時平はこの妻を本院の奥の一間である寝殿に住まわせ、ことのほか寵愛したと言われている。その為、世人は、彼女を敬って「本院の北の方」と呼んだのである。もはや国経にとっては如何ともしがたい存在となってしまったのである。これ以後国経の苦悩の生活が始まる。この時、北の方は敦忠を妊娠しており、拉致された後に生まれたので、時平の3男として育てられる。北の方はこの敦忠をことのほか愛したと言う。敦忠は後に中納言まで出世するが、38歳の若さで没している。
 時平は、拉致事件の後4,5年で39歳の若さで卒去している。菅原道真公の怨霊に殺されたと噂された。
 夫の時平と、最愛の息子、敦忠にも夭逝され、北の方は世をはかなんで出家し尼となり、敦忠の別荘近くに庵を組み、住んだと言う。後年成人した滋幹はこの母を訪れている。 
 このように時平による国経の妻・北の方の略奪事件をもって、この作品の前半を終える。この後、妻を奪われた国経、奪った時平、情人であった平中、そして滋幹の母に対する愛情が描かれる。

  平中のその後の恋の人生
 かつて、北の方の情人であった平中は、自分の情報が、時平の略奪事件に繋がったことに心を痛めながらも、時平の妻となった北の方への再接近を図る。勿論時平は警戒を怠らない。屋敷のまわりを堅固にする。そこで利用されたのが、まだ4,5歳と幼かった滋幹であった。幼い滋幹は母に会うために、本院の時平のもとを訪れることは許されていた。勿論一人で訪れるわけではない。讃岐と言う国経の女房(位の高い女官)と一緒である。平中と讃岐は気脈を通じていたのであろう。平中は幼い滋幹を恋の仲介者として利用した。滋幹の腕に恋歌をしたため、北の方の下に送り出したのである。北の方も、同じく返歌を腕にしたため平中の下に送り返している。しかし会うことの許されないこんな関係が長続きするわけがなく、また北の方自身も興味を無くしたのか、間もなくこの関係は終わっている。そこで平中はその恋の先を、北の方から、本院の侍従の君にと移し替える。これも再接近である。北の方も侍従の君も共に身分は違うものの同じ屋敷内に住む女性である。平中の北の方に対する幼い滋幹を使った画策を、侍従の君が知らない訳はなく、不快に感じていても不思議はあるまい。かつては自分に好意をもっていた男である。北の方への恋が不首尾に終わったからと言って、自分に再接近することに、へそを曲げたとしても不思議ではない。色事師であり数々の女性を泣かしてきた平中も今度は上手くいかず、侍従の君に散々翻弄されたあげく病に侵され、亡くなっている。侍従の君の後ろには時平がいたといわれている。おそらく時平は侍従の君にも手をつけていたのであろう。充分に考えられることである。
 次の逸話は、今昔物語や、宇治拾遺物語に出てくる余りにも有名な物語なので紹介する。次に述べる不浄観とも多いに関係するので述べてみる
 侍従の君に翻弄されながらもあきらめきれない平中は、一計を案じて彼女を諦めようとする。彼女の排泄物(糞)を見れば、その醜悪さ、悪臭に耐えかね、諦めることが可能と考える。しかし、彼が見た彼女の排泄物は、汚物と言うにはあまりに美しく、香しい匂いを放ち、彼を魅了してしまったのである。侍従の君は平中の計画を事前に察知し、細工をしたのである。このように侍従の君は、平中を上回っていたのである。
 この後谷崎潤一郎は妻を奪われた大納言藤原の国経の人生を滋幹の述懐と言う形で述べて行く。その中心に不浄観の思想がある。

  藤原時平一族のその後の運命
 その前に谷崎潤一郎は藤原時平とその係累のその後の人生について一章を儲けて述べているが、この作品の筋とは直接には関係が無いのでごく簡単に述べる。
 左大臣藤原時平は、政敵でもあった右大臣菅原道真公を讒言によって太宰権師(だざいのごんのそち)に左遷する。道真公は、その地で没する。この恨みを受けて、時平は39歳の若さで亡くなっている。その一族郎党も、ほとんどが道真公の怨霊にたたられて、若くして亡くなっている。具体的には、この作品に詳しく述べられているのでそれを読んでほしい。

  妻を奪われた国経のその後の人生。不浄観の思想とは何か?
 「・・・昨夜は一時の興奮に駆られて、孤独なんか恐くはないような気がしたけれども、今朝覚めてからの数時間でさえこんなに辛いのに、これからずっとこの淋しさがつづくとしたら、何として堪えて行けるだろうか」。国経はそう思った途端に、涙がぽろぽろとこぼれて来た。老いれば小児に返る、と云うが、八十翁の大納言は、子供が母を呼ぶように大きな声で泣き喚いた。あの事件は時平の冗談であって、時を経れば妻は戻されてくるのではないかと思ってみても、日が経つにつれて、それが現実と確認され、今や妻は、自分の手の届かないところに行ってしまったのだと絶望する。
 国経は酒におぼれ、その酔い方がだんだん凶暴になり、常軌を逸するようになっていく。乳人が案じ厳しく諌めるが、その時は素直に詫び、云うことを聞くが、その日のうちに正体もなく酔いつぶれてしまう。ボケ老人のように、ふらふらと家を飛び出し、私は誰?ここは何処?になる。やっと見つけだされた時は乞食坊主のように髪は乱れ、衣服は破れ、手足は泥にまみれていた。周囲はこの老人に振り回される。「このままでは、気違いになるか、身体を壊してしまう」と、乳人は案じる。滋幹も子供なりに胸を痛める。
 そんな国経が酒をきっぱりと断つ。酒は一時的にはその苦しみを麻痺させるものの、醒めればなお一層、苦しみを増すだけで、何等の解決にならないと国経は悟る。『殊勝になりおなりになされて、一日静かにお経を読んでいらしゃいます』と、乳人は言う。国経は、妻恋しさに酒におぼれその辛さから逃れようとしたものの、それが果たせず仏の慈悲にすがろうとしたのであろう。
 国経は不浄観の修業に転じる。不浄観とは身体の不浄を観じ、それによって執着を断ち切ろうとする観法である。
 まず、身体の不浄を観ずることから始まる。
 肉体は、男女の陰楽の結果、不浄、不潔な精液の結合の結果生まれるのであり、生れいずる時は、むさく、臭い分娩道を通り、生れた後は、大小便を垂れ流し、鼻からは洟汁を垂らし、口からは臭い息を吐き、脇の下からは、ぬるぬるした汗を流し、体内には糞や、尿や膿や、血や、膏(あぶら)が貯まっていて、臓腑の中にはいろいろな汚物が充満し、いろいろの虫(微生物)が集まっている。そしてその死骸は放置しておけば、腐敗し、膿ただれ、溶けだし、悪臭を放ち、醜く崩れおちる。虫(微生物)たちの餌になる。要するに不浄観とは、肉体とは生まれ出る前から死んだ後まで、全てが、不浄であると観ずる観法なのである。要するにそこには人に対する諦観がある。この観法を習得すれば、「人間の官能的快楽が、一時の迷いに過ぎない事を悟るようになる。そして、今まで恋しい恋しいと思っていた人も恋しく無くなり、見て美しいとか、食べておいしいとか、嗅いで芳しいとか感じたものが、実は美しくも、美味しくも、芳しくもない、汚らわしいものであることが分かってくる」。要するに、全ての欲心は無くなり、物や人に対する執着は無くなるというのである。
 しかし、これを体得することは容易なことではなく、正座し、瞑想し、道理を考えたり、変化の過程を想像するだけでは、体得は出来ない。肉体が滅び、醜く変化していく様を実際に体験する必要がある。当時の墓は高貴な人は別として一般の人の墓場は、墓とは名ばかりであって、死体の単なる捨て場に過ぎなかった。形ばかり、土をかけたり、筵をかけたりして、死体を隠してはいたが、風雨にさらされ、土は流され、筵は腐り、その結果、死体はむき出しになり、腐り、醜く変化して、動物や虫たちに食い荒らされていくに任されていた。この過程を観察することによって、不浄観を習得しようというのである。
 国経は毎晩のように外出するようになる。不思議に思った滋幹は、ある日、父の後をつける。そして恐るべき光景を目撃する。父は墓場で、醜く腐り、肉体が溶け崩れた女性の前に正座し、その姿をじっと観察し、瞑想している姿を目撃したのである。その姿に接して滋幹はゾッと身を震わせる。これが不浄観の修業だったのである。
 滋幹は幼心に、妻を失った苦しさの余り、仏の道に救いを求めた、父に同情は出来たが、美しい母の姿を、そのまま保存しようとはしないで、ことさら忌まわしい死骸に擬し、腐りただれた醜悪なものに見立てて、その執着心から逃れようとしていた姿には同情することができず、怒りに似た感情をもったのである。「お父さま、私の大好きな、清らかで、美しい私のお母さまを汚さないでください」と、心の中で叫んでいた。
 そして滋幹は父に言う「もう、お迷いは、お晴れになったのですか?」と。父は応える「いいや-----なかなか晴れるどころではない。不浄観を成就することは、口で言うほど、容易なものではないんだよ」と。
 父は一時やめていた酒を再び嗜むようになっていた。しかしそこには以前とは違って凶暴性は無くなっていた。依然として仏間に閉じこもってはいたけれど、仏間の壁には、以前は、あった普賢菩薩の像は無くなっており、経文を詠む代わりに又白詩を吟ずるようになっていた。このように、国経は仏にすがったものの、解脱することはかなわず、愛しき人の幻に再び苛まれながらも、永劫の迷いを抱きつつ死んでいったのである。しかし、滋幹にとっては、父・国経が母を汚さず、その美しい思い出を心に抱いて死んでいったことは、何ものにも勝る喜びであった。

  滋幹と母との40年ぶりの出会い
 幼く、まだ母の顔すら定かではなかったころ、時平に母を拉致された滋幹は、幼かったが故に、時平の屋敷での母との面会は許されていた。この時の、美しい母の面影は将来にわたって、滋幹の脳裏から離れることはなかった。しかし加齢につれてそれも叶わなくなる。乳人は言う「お母様はもう余所(よそ)のお家の人です。あなた様のお母さまではなく、われわれよりずっと身分の高いお方の奥方様なのです。」「お母様はお子様(敦忠)を懐妊していらっしゃいます、静かにしてあげて下さい」「もう、簡単にはお逢い出来ないのです」と世間の道理のようなものを、滋幹に説き、まだ11,2歳の滋幹が「母に会いたい」と願うのを諭したのである。滋幹は、父・時常が死に翌年時平が亡くなった後、成人し、独立するまで乳人に引き取られ育てられたという。
 かくて時代は変わり、天子も醍醐、朱雀、村上と移り、藤原氏の栄枯盛衰の中、滋幹は成人していく。
 滋幹は、尊卑分脈によれば、その肩書は従五位・左近少将とあるが、いつ従五位になり、いつ左近少将になったかは分かっていない。生年月日、没年は何時か?も分かっていない。結婚して3人の男子を儲けているが、その母親は誰か?等も分かっていない。資料が存在しないのである。
 「遒古閣文庫」所蔵「滋幹の日記」は、「幼くして母と生き別れ、やがて父に死に別れた少年時代の回想から説き起こして、それより40年の後、天慶某年の春の夕暮れに、西坂本に故敦忠の山荘の後を訪ねて、はからずも昔の母にめぐり逢うまでのいきさつを書いた一編の物語である」と谷崎潤一郎は述べている。(遒古閣文庫も、滋幹の日記も共に現実には、存在しない。作者=谷崎潤一郎が勝手に想像した種本である)。
 北の方に凄まじい熱情を注いだ男たち、最初の夫国経、第二の夫時平、情人であった平中、が亡くなり、最愛の息子敦忠も38歳の若さで亡くなった時、彼女は何を考えていただろうか?そぞろに無常の風を身にしみていたであろう。世をはかなみ、出家して尼となったとしても不思議ではない。恐らくこの時の尼僧の年齢は60歳を超えていたであろう。そして滋幹は45・6であったと推測される。時平が亡くなり、その後最愛の息子敦忠が亡くなった今、滋幹にとって母に会う世間的な障害は無くなった筈であり、母も唯一生き残った息子・滋幹に会うことを嫌っているわけはなかった。しかし、何故か滋幹には母に会うことに躊躇いがあった。そこには遠慮があり、照れがあり、恥ずかしさがあった。しかし最大の原因はそんなものではなく、自分が40年もの間保ってきた24・5歳の頃の母親の美しく、清らかな姿が、損なわれているのではないかという恐れであった。滋幹にとって母親は理想的存在であり、なまじ現実の年老いた母親に接して、幻滅の悲哀を感じるよりは、このまま、美しい母の面影を心の中に保っておきたいという気持ちが強かったのである。
 尼僧は故敦忠の屋敷のそばに庵を結んで住んでいた。いつでも訪れることは可能であった。会いたい、いや、会いたくない。二つの相反する気持ちの相克がそこにはあった。そして会いたいという気持ちが勝利を占める。森の奥深くにある侘び住いが尼僧の庵である。そこまで行く間、樹木、草木が茂り、小川が流れ、清水が湧き、小動物が飛び出してきた。そんな風景を谷崎潤一郎は叙情豊かに描きだす。そしてその庵の近くまで来た時滋幹は一人の尼僧がたたずんでいる後姿を認める。
「もし、---ひょっとしたら、あなた様は、故中納言殿(敦忠)の母君ではいらっしゃいませんか?」尼僧は振り返る。「世にあるときは、おっしゃる通りの者でございましたが-----であなた様は?」
 その顔は歳老いてはいたが滋幹が心に抱いていた通りの、美しく清らかな顔をしていた。まぎれもなく母の顔であった。「お母様、-----、滋幹でございます」滋幹は思わず尼僧に駆け寄り、きつく抱きしめる。尼僧はよろけながらも、それをしっかりと受け止める。滋幹は自分の顔を母の顔に近づけ、その墨染めの袖に、滲みている香の匂いに、遠い昔の移り香を再び想起しながら、まるで幼児が甘えるように、母の袂で涙をあまたたび押し拭った。
 ここで「少将滋幹の母」は終わる。

                 谷崎潤一郎作 「少将滋幹の母」 新潮文庫 新潮社刊