日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

映画「猿の惑星」を科学する

2009年11月27日 | Weblog
「猿の惑星」という映画があった。太陽系の調査がほぼ完成された近未来、人類初の恒星間飛行が行われることになった。目的地は300光年先のペデルギウス。宇宙船内では2年間、3人の宇宙士が途中に立ち寄った惑星は猿が人を支配する世界であった。そしてこの星を探査した結果、発見したものは倒壊した「自由の女神」であった。そこでこの猿の惑星が数千年後の地球であることに気が付く。
 この映画はいわゆるサイエンスフィクション(空想科学映画)であり、夢物語と言ってしまってもよいものである。私はここでこの作品の内容を説明しようとは思わない。内容に興味のある人は映画なり小説なりを読んでほしい。
 僕が興味を持ったのは次の2点である。その一つは、地球を離れてまっすぐに上空に飛んだはずの宇宙船がなぜ、一回りして数千年後の地球に戻ったのか?ということであり、その二つは、宇宙船内の2年間がなぜ数千年なのかということである。しかし現代の科学的常識からは、答えることはできない。常識の枠を超えているからである。常識から判断すれば、まっすぐ上に飛び立った宇宙船はますます地球から離れていくはずであり、また時間はその進行を妨げることはできない。
 しかしである。もし宇宙がひん曲がっていたとしたらどうなるか?アインシュタインは宇宙はひん曲がっていると言っている。勿論その理論は仮説の域を出てはいないが、もしも宇宙がひん曲がっていたら、地球からまっすぐに上空に飛びあがった宇宙船が、地球に戻ってきても何ら不思議はない。これを証明する事実がある。地球の一点で強力な懐中電灯を照らした場合、「光は直進する」という原理に従うならば、地球は丸いのだから、光はいつか地球を離れて宇宙のかなたに飛んでいくはずである。しかし直進するはずの光は地球を一回りして元の場所に戻るという。光の軌跡の部分部分をとってみれば、光は直進しているのであるが、全体から見ればひん曲がっているのである。
 次に時間をとってみよう。もしも宇宙においては、時間が時間通り進まない原理が働いていたらどうなるか?地球上ではそんなことはあり得ない。しかし何億光年もの広がりを持つ宇宙のことである。何が起こってもおかしくない。時間を押しとどめる圧力が、前方に働いたらどうなるか?時間の動きは遅くなる。2年間が数千年になってもおかしくない。もしこの圧力が時間の速度より強かったらどうなるか?時間は押し戻されてしまう。時間の不可逆性という原理は犯され過去に戻ってしまう。もしもこの圧力が時間の後方から働いたらどうなるか?時間は早く進む。未来へと進んでいく。
 このように時間及び空間の概念は宇宙を前提とした場合、地球上の概念とは全く異なってしまう。UFO(非確認飛行物体)は現在、過去、未来と永遠の時間の中を飛行するという。この宇宙のどこかに時間をコントロールできる生物(宇宙人)がいるのであろう。かれらはUFOを使って旅をする。現在、今をUFOが通過するとき、人はその一瞬の光によって、その存在を知る。UFOはそのまま過去なり、未来なりに飛び去ってしまう。この原理を知らないものは、これを非科学的と称して、その存在を否定する。UFOを目撃した者を気違い扱いしたり、流れ星を見誤ったものだという。実際には、流れ星のいくつかは、おそらくUFOであろう。UFOはもちろん地球上にとどまることもできる。UFOから降りた宇宙人に遭遇した人がいても決しておかしくない。彼は夢を見ているのでもなければ、偽りを言っているのでもない。もしかしたらこの宇宙人は、遠い未来から来たヒトかもしれない。同じヒトなのだから、この宇宙人は現代人とそっくりである。我々はこの宇宙人にあっているかもしれない。ときどき見かける変な人は宇宙人かもしれない。しかしこれが宇宙人だとはだれも気付かない。もしかしたら、あなたの恋人、奥さん、友人は宇宙人かもしれない。宇宙人は時間を旅するのだから、決して不思議な話ではない。
 かぐや姫の話は誰でもが知っている。彼女が入っていた竹は、UFOである。地球上で育ち、皇帝にまで愛されたのに、結ばれることなく、自分の世界である星に帰っていく。浦島太郎の話も有名である。彼を竜宮城に運んで行ったカメはUFOである。カメは時間の中を旅する。竜宮城から帰った浦島太郎が見たものは、歌にあるように「元いた村も人もいず、行きかう人は知らぬ人」であった。途方に暮れた浦島が「開けてみました玉手箱、中から煙が立ち上り浦島たちまちお爺さん」なのである。この二つのおとぎ話は現代科学では決して解明できない。だからおとぎ話になっているのであろう。これを解明するには宇宙空間、宇宙時間を視野に入れた、今までの理論とは全く異なる理論体系を必要とする。近代物理学はニュートン物理学を基本にして成り立っているが、それが今否定されようとしている。宇宙ではリンゴは木から落ちない。ニュートン物理学は引力のある世界でしか通用しないのである。現代物理学はまだ端緒に就いたばかりである。まだ体系化するまでには至っていない。アインシュタインの相対性原理などその一つであろう。科学の分野における量から質への転化が起こっているのである。しかしいずれ近代物理学はその席を宇宙までも視野に入れた現代物理学に譲るであろう。
 宇宙人が現代、過去、未来と旅をするなら、その痕跡が地球上に残っていても不思議ではない。その一つにナスカの地上絵がある。広大な砂漠の上に描かれ、上空何百メートルでなければその全体像を見ることはできない。これを描くためには高度な測量技術を必要とする。古代人が描いたものと言われているが彼らが高度な技術を持っていたとは考えられない。しかし文明化された宇宙人ならこれは可能である。このように宇宙人は空から降り現実に介入することが出来る。歴史を変えることも可能である。淀君と秀頼がUFOに乗って過去に戻り、幼い家康を殺したらどうなるか?徳川の天下はなくなり、豊臣の政権が何百年も続くかも知れない。この時現実の歴史はどうなるか?実像と虚像が併存することになる。時間と空間の概念が全く異なる宇宙のことである何が起こっても不思議ではない。しかし我々には、それを想像することは出来ない。アインシュタインのような天才の出現を待つのみである。
 次の物語を引用して私の拙い文章を終わりにしたい。
お互いに妻もあり夫もあり、子供までいる男女が恋に陥る。いわゆる不倫の恋である。その非運を嘆き男は言う。「もしも私たちが10ねん前に巡りあっていたら」と。その瞬間10年前の異次元の世界が展開する。二人の男女がめぐり合い恋に陥る。熱愛しながらも別れてしまう。後に二人は結婚し子供までもうける。そして別々の人生を歩む。しかし数年後に二人は再会し再び恋に陥る。この瞬間に異次元の世界は消え去り、この記憶は二人の頭の中から消失する。残されたものは現実の二人だけであった。この物語は時間の不可逆性を説いたものであり、たった一度だけの戻ることのない人生の残酷さ、悲しさを描いたものである。たとえ過去に戻ることが出来たとしてもテープの巻き戻しを見ているようなものであって、その中に介入することはできない。
 人間の歴史には「もしも」は存在しない。人間の歴史を変えることはできない、と思いたい。「もしも」はあくまでも虚像であって、実像を変えることはできないのである。しかしUFOは?ここまで来ると私の能力を超えている。