深草日記

私の一日の詩と真実、そんな気取ったものでもないけれど、心に残ったことなど生きる日々の記録

この解放感がすばらしくて......。

2005年05月31日 23時06分23秒 | Weblog
今ピアノ曲が流れています。ショパンのワルツ集、とくにこれを選んだわけではないけれど、ピアノのソフトなタッチに撫でられているようです。
小説(黴)カビと読みますが、とうとう今朝方3時に書きあがり夕方速達で発送しました。「わあーっ。やったあーっ」て子供みたいに素直にのびをして、全身で解放感に浸っています。(黴)は書きやすかった。私の場合最初から題名の決まっているときは、苦しくても泳ぎきれるというゆとりがある。しかし、題名が決まらない時はどういう方向に行くのか、行き当たりばったりなところが表現を鈍らせてしまう。自分で何故これを書きたかったか、探りだしながら見つめていて混沌の中にいるのだ。その混沌を描くのも価値のあることではあるのだが。書きながら何かが見えてくる、そうした充実感もあるのだが。作品を産み落とした時は、生きた命を産んだときに等しい。自分のからだを通ってはいるが、さまざまの力が働いていて。産み落とされたものは自分の因子だけで育っていくのではない不思議な命なのだ。生きたものであるから、読み手にどう読まれていくかは計り知れない。上手く染み透ったら、読み手の心で作品は生きてくれる。言葉の周辺、行間に漂っているものまで汲んでくれる。いい味を提供できるようになりたいと思う。

^蛇が......。

2005年05月30日 20時27分07秒 | Weblog
 どんなに忙しくても朝一番に庭に降り立って一巡りする。最近はなめくじを取り捲る。毛嫌いする人も多いが、私は鉢の底、プランターの底についているものを手でとって中性洗剤を薄めた液に投げ込んでおく。西洋ノコギリソウを植えてある大きなプランターを持ち上げた所にごく小さな蛇がとぐろを巻いて休んでいた。直径1センチ、長さ30センチ位である。時々そんなことに出会う。まだ小さかったから驚くこともないが、もう少し成長するとやはり私でも一瞬ひるむ。以前に大きな鉢の下にいたのに驚き鉢を上から落としてしまったことがある。2.3ヶ月して鉢の下を見てみたら、とぐろを巻いたまま干からびていた。蛇は大きくても害はないから、青大将などにたまに出会ってもそのまま見過ごす。しかしこの地方ではのめら、といっているこの蛇は庭に住み着くので気になって殺生してしまう。少し大きくなると驚いて心臓に響くこともありそうなのだ。やはり蛇は気持のいいものではない。ごめんね、といってビニール袋に入れてしまった。半生殺しなのだ。
 梅雨みたいな雨降り、紫陽花群がきれいに色付いてきた。額紫陽花類が早く咲く。紫陽花は簡単に挿し木できるので皆さんに折って差し上げている。写真は八重咲き甘茶。淡々しくて品がいい。

夏は来ぬ

2005年05月28日 15時38分09秒 | Weblog
 卯の花が満開だ。もう10年位前のことになるだろうか。静岡市羽鳥の山を歩いた時、うのはなが満開な大木に出会い、一枝失敬し、挿し木にした。お行儀が悪い木だが、とここまでは昨日書いたがそれから今朝5月29日午前6時20分まで飛んでいる。昨日の昼中、手入れを怠っていたシンビジュウムに蟻の大群が住んでいることが解ってやむを得ず撲滅に取り掛かり、そのために疲れてしまい、夜小説に取り組んでいるうちに眠くなってしまい、どうしようもなくて眠ってしまった。今朝は5時前から起き出して散水し、これから昨夜の怠慢を取り返す。2.3時間は坐っていられそう。
 卯の花は実に長い間だ蕾のままでいて、時が来ると忘れずに開花する。その素朴な忍耐には畏れ入る。もう夏なんだ、と思う。今年の1月、少し悲しかったと感じたことに出会い、不覚にも涙を流したのだが、大寒のそれらの日々は、流れて、私は猛烈に行動してきた。しかしずっと文学は心を捉えていた。毎日作品の続きを引っ張っていた。そして6月末までそうした日々は続いていく。何故書きたいのか。生きていくことは大変なことなのだが、実に面白い。行動していく中で、発信していく中で、私はさまざまな思いをさせられる。しかしそこには私に向けられた愛があるように感じられるのだ。ありがたい。どぢばかりやっている私なのに。ふと気がついたらもう卯の花は満開だった。もうすぐゆうすげが咲く。立原が歌った清々しい花。皇后美智子様が皇居の庭で丹精して殖やされて軽井沢の高原に戻された花。季節は淀みなく流れていく。願わくは作品の中に私の心模様が読んでくださる方にしみとおるような表現ができますように。いつもいつも心の方が複雑で美しくそしてどろどろと醜いのに十分に伝えられない未熟さに悩むのだ。と同時にひとりでに作品が歩いていく、ということも感じている。

心地よい疲れが

2005年05月27日 03時17分23秒 | Weblog
 疲れがどっと出て、夕食後ソファに眠り込んでしまい、起きた時には日付が変っていた。実はこの画面も1度書き上げた所で消してしまったのだ。それでも書いておかなくては、という思いが強いので再度挑戦することにした。
 バザーは大成功だった。何をもってそういうのか。ひとつにはお客様の人数が多かったこと、ふたつには出品物が実によく売れたこと、2日で17万円余りの純益ということは、大方が200円と100円のものだから、850~1000個のものが売れたということになる。古着も雑貨もとくにアクセサリーなど荷物がぐっと減ったのだ。手作りの食品もすべて売り切れた。おかげさまで備蓄してきたものと合算して40万円を二ヶ所に寄付できることになった。続いて会場の雰囲気が終始和やかだったこと、そこには協力して下さった方全員の善意の祈りがあったからだと感じた。天候にも恵まれ、天の助けも大きかった。
 特に感謝しなければと思ったのは、会場を快く提供して下さったSさんは、終始ユーモアをもって雰囲気を盛り上げてくださったこと、彼女がこの日記を読んで下さる方と知っていてお世辞を言うわけではなく、この場を借りて私の心からの感謝を申し上げないではいられない。私でさえできない、一般に生活の場を開放するということを、5回も引き受けてくださったのだ。私は作業日、平均して月2回、家を開放してきたが、そこに来て下さる方は懇意の仲間の方で、一般の方ではないのだ。普段住んでいらっしゃる場をどなたにも見せてしまうということは、覚悟のいることだと思う。5年前、家を使ってくださいと云って下さって、その言葉に甘えて5回目もお願いしたところ、快く引き受けてくださったのだ。そのうえ、礼金はストレスになるからいただかないといわれ、その通りにさせていただいた。どこかでご褒美をいただいて下さいね。
 お客様の中に女学校時代の恩師が見えてくださって、終始旧姓で話されるのには恐縮した。50余年前の恩師には生意気盛りで失敬なことも言っていたと思うと今さらながら恥ずかしい。でもとてもいいお買物をされたようで私もうれしかつた。また自閉症者親の会の方とも皆さんが和やかに働けてこれもいいことだったと思う。
 そしてバザーの始まる日にぎっくり腰を起してしまった主人も、どうやら快方に向かいだして、今夜は自力で入浴できた。それまでずっとお嫁さんが買ってくれたカートを座敷に上げてやっと動けたという状態で留守番だったのだ。訪ねてきた方が皆知り合いだったからよかったが、玄関にかぎをかけずに私が出かけていて、もし性質のよくない人が訪ねてきたとしたらどうしただろうか、と思うとひゃっとする。
すべてに感謝して明け方まで一眠りする。聖書の言葉にボランティアというものは、右手でやったことを左手に知らせるな、という箇所がある。ひとつの美学だと思うが、私はこんなに宣伝してしまっていいのだろうか。明日からはこころおきなく創作に打ち込もう。九輪草の咲き始めの写真だが、もう三段目が咲き出しそう。季節は、時間は確実に流れていく。
 

バザーアラカルト

2005年05月25日 22時44分01秒 | Weblog
 今朝方もバザーのことを書いたのだが、大筋ではすべてが良きように図られたと感謝した。天気は上々だったし、お客さんもよく買ってくださって売上げも予想通りだった。協力して働いて下さった人も和やかだったし、会場を提供して下さった方も礼金はいただきませんから、それが私の協力だからと、彼女なりの姿勢を示されて恐縮した。ひとつ気になったのは、出かけようとしたとき、主人が軽いぎっくり腰になってしまったのだ。病院へ定期の内科の診察にでかけ、帰ってから中腰になったとたんに、痛みが走ったという。初めてのことではないから、それなりの手当てはしたのだが、このところ、冷える日もあったし、孫たちと遊びすぎたのかもしれない。それで昼頃まで様子をみて、カートを部屋に入れて動けることを確かめてから出かけた。夕方一度帰って様子をみたが、カートを使って動いていたので安心し、8時ごろに帰った。
 バザーという臨時の商売のときは短時間で売上げを上げるため、どうしても安く売らないと売れないのだ。たった一度のバザーならある程度の値段でも売れる場合もあるが、毎年のことになると、メリットがなければ教会の人でも長続きはしない。安くて実用に堪えるものであれば、ファンになって毎年来て下さる。
そこに主催するものの悩みがある。安くして自分たちも安く買うということになると、何か自分たちのためにやっているのでは、と思えてくる時がある。勿論売上金で飲み食いすることはない。足代も払っていない。日頃かなりの労力を捧げているのだから悩むこともないとも考えて割り切っているのだが。いつの間にこんないいものが集まってくるのかしらと思う。要らないからと寄付して下さるものから、去年は70万円送金できた。それは喜びでもある。何もしないより、多少の悩みは乗り越えて、安すぎると思ったら、どこかで寄付したらいい、と割り切って、自然に出来なくなるまで、続けた方がよいといわれているようにも思
う。

今日はバザー、良きように

2005年05月25日 07時18分27秒 | Weblog
今朝は5時おき、早朝の庭に出てひとまわり。どうしても水切れが心配なものに散水し、一日の無事を祈る。昨夕仕込んだ天然酵母パンの生地をガス抜きし、成形。醗酵器にいれて醗酵を待つ。その間にえんどう豆ご飯をかけて一方で煮豆。いつもはこんなまめにやっているわけではないのに、何故か働くことにリズムがついている。昨夜書き物をしていたけれど、眠気が襲い、諦めて寝てしまった。加齢の所為なのか、一度にふたつはこなし難い。心に引っかかる作品のことは決してなおざりにしている訳ではないのにいたし方ない。ばざーに悔いが残るとむしろ後が悪い。燃焼するときはやりきってしまおう。すべてが良きように祈って。

小説「黴」、産みの苦しみ

2005年05月23日 23時30分02秒 | Weblog
 遅々たる運びはいつものことだけれど、気負いが邪魔をしてなかなか核心のところに届かない。探していた関係資料が出てきたので、このまま一直線にと思ったが、浮き世のお付き合いが一段落すると、疲れがひととき襲う。そしてまた乗ってくるのだが。気分を変えるため、深草日記のデザインを夏向きに変えてみた。やや幼稚な感じは免れないが、少し遊んでみよう。今夜の月は満月なのか、空も晴れていていい月だった。濠端のウォーキングの途中で鯉に餌をあげたが、薄汚い鯉ばかりがうごめいていて、錦鯉などどこかに消えていた。さくら、つつじ、とうつろい、いまは青葉茂れる濠端の土手。あじさいまでにはいっとき待たねばならない。そのころ私は作品を書き終えて何ともすがすがしい充実感に浸り、鏡に写る自分の顔までが締まってよく見えるときを迎えているだろうか。きっとそのときが来る、と今思っている。つまり書けそうなゆとりは持てているのだ。テーマが立っているから。創作に己をぶつけていく時、一番自分らしいところに自分がいる愉しみを感じられるのはありがたい。やっとこのごろ、一行の中の言葉が、空回りしていないか、と吟味するようになり、書くことと生きることが同時進行形をとりだしてきたのだ。創作の中には偽らない自分が沢山いる。産み出さなくては。謙虚に。

夜の五月雨

2005年05月23日 00時38分56秒 | Weblog
孫ら帰り夜の五月雨聴くゆとり

夜に入って五月雨の音がやけに身に沁みる。孫たちに食べさせる手間に追われていた丸2日間、今日はいちごのショートケーキまで焼き、昼は富士宮のやきそばをみんなで食べてさよならをした。午前中夫と孫2人はかくれんぼをやっていた。珍しい光景だ。「じーじ、じーじどこおー」と2歳5ヶ月の男の子が探しあぐねて家中走り回っている。ママが「洗濯機のところ」と教えるとそこがわからないとまた走り回る。もう一か月すると5歳になる女の子は「ばーば、パジャマに着替えて本を読んで」という。お風呂を済ませパジャマに着替えないと、自分が寝ると逃げ出してどこかに行くと警戒してのことだ。孫の安心して寝入った顔を眺めて横にいるのもいいものだ。しかしまた元の夫婦2人の生活に戻り、五月雨の音が胸をうつというのも寂しいが捨てられない。洗顔マッサージなどしながら、もう一度五月雨の降りしきる音をと耳を立てると、もう音はなかった。
 そうそう昨日山おだまきのクリーム色の花が今年はじめて咲いた。私好みの淡彩で静かな花だが、存在感があり、信州の山を思い出す。これからお茶で眠気を払い、小説「黴」に挑まなくては。
 

私の身内集合せり

2005年05月22日 01時48分29秒 | Weblog
 蒲原の東漸寺で父の33回忌と母の7回忌をとりおこなった。東漸寺は父方の一族の墓が集合している所で、幼い頃より馴染みの深いところだ。裏山が桜の名所の御殿山、墓地からは海が見え、夏に訪れると蜩が鳴いていて、郷愁を誘われる。というのも私は蒲原に疎開してから6年間この土地で暮らしていたのだ。ごくありきたりのサラリーマン家族だったが、父の兄弟が11人だったため、従兄たちが多く、賑やかに暮らしていたのだ。そして父の本家はこの寺の檀家総代として羽振りのよかった時代が長かったが、没落し、最後に残っていた従兄の家も倒産し、去年この土地から消えてしまった。私を含めた3人姉妹とその配偶者と子供たち、そして私の孫ふたり、本当に近親者だけの久しぶりの集合は母の3回忌以来のことだ。場所を母の住んでいた草薙にうつして、この間ヘリコプターが墜落したすぐ傍の寿司やで会食した。私の孫2人が走り回る中で和やかにひとときを過ごした。両親の死後も遺産相続でもめることもなく、集まれることは幸せといえることだろう。揉めるほどの遺産がなかったからでもあるし、お互いに譲り合えた関係だったとも言える。何らかの痛みや悩みは抱えて生きてきたし、これからだってそんな風に生きていくのだろうが、せめて身内だけでも支えあって生きていけたらと思った。

お年忌

2005年05月21日 00時48分34秒 | Weblog
今年はお年忌が多い年に当たる。明日21日は蒲原で亡母の七回忌をする。ということで今夜(20日)長男一家がやってきた。二人の孫に会えるのがお年忌、であるのだ。亡母には悪いけれど、7回忌で集まるのは、日頃会えるようで会えない親族の元気な姿を称えあう機会であり、亡母のことはもう胸のうち深くしまい込んでいる。母は手作りで娘3人を慈しみ、平等に愛し、穏やかな一生だった。お金持ちではなかったが、月賦で茶道具や着物を買い、家屋敷は残ったものの、預金はみごとに残さなかった。
 子供と孫と玄孫とで集まり、もう世間さまは関係なくささやかに追善したい。