晴れた日のオルガン

オルガニストの日記

オルガン練習合宿

2009年07月29日 | Weblog
オルガンを弾いていて良いなと思うところは、旅行するたびにいろいろな違う楽器に出会えるところ。
違うレパートリーを弾けばまた違うオルガンで練習するため、いろいろ発見がある。

でも、裏を返せば、自分のうちで全て練習できないところがとても困ります。

家に電子オルガンや、小型パイプオルガンがあれば、器械的な部分は練習できますが、そのあとの音楽のための練習は、その時弾いている曲に合ったオルガンを見つけて練習しにいかなければなりません。自分の弾いている教会のオルガンでは、必ずしも勉強したい曲を弾く条件に合っていなかったり、私の教会の場合、夜しか弾けないので効率が悪い。

「どうする?このままだと絶対に仕上がらない!!!!」

と焦り、急に心拍数が上がって来たら、私の場合、「ついに行動を起こす時が来た。」ということで、次の週、次の次の週に練習させてもらえそうなところに電話したりメールしたり、勢いをつけて準備します。

なぜ勢いが必要か?

それは「とってもめんどうくさいから」です。

何時から何時までいついつの日にどこで(何時のバス、メトロ、電車なら何時につくから…などと時刻表も見ながら考える)、だれだれに鍵を貸してもらって、費用はどのくらい(かからないところも幸いな事に多いけれど)、かからない場合お礼は誰にどんなかたちでするのか…など、一気に勢いをつけて計画していくわけです。

しかし「落ち着いて」「ある程度のんびり」練習したい、という夏休みらしい希望が湧いて来たので、夏期講習のまねごとをして、自分でホテルを取り、録音機を持って、同じオルガンで3泊4日、練習合宿をしよう!と決定。弾きたいオルガンのある教会はうちから車で約2時間なので、ホテルというような感じよりも、シンプルなB&Bの、自炊も出来るスペースのあるところを(オルガニストの友達の推薦で)予約して、教会も予約が取れて、7月の2週目に行ってきました。

時間割はミサのある時や地元の人が練習に来た時は譲るという形だったので変更しやすいように、午前中1時間半、午後2時間、夜1時間半の最高5時間、とおおまかに決めて、余った時間はジョギングと山歩き(というほどの山ではないので、ハイキングというか)、プール。という、普段は出来ない、アウトドアな生活が出来ました。

娘が一緒だったので、地元の公民図書館を見つけて練習中そこで待ってもらったりもしましたが、外はぎらぎらのお日様でかなり暑かったため、娘も教会の中で「あ~フレッシュよね~」と息をつくことも多くありました。

ある日読むものがなくなって、教会のベンチにすわって「町のガイドブック・その歴史」を読みふけっていた娘、

「あと30分でやめるから、もうちょっと待ってね。」

と声をかけたら、

「これしかもう読むものがない。」

と言って旧約聖書にとりかかっていた。これは読み終わるということはまずない。と思ってバッハのホ短調前奏曲とフーガをプレーヌムで弾き、ちょっと時間がかかって45分後に戻ってみたら、すうすう眠っていました。

この人は赤ちゃんの頃なかなか寝ない子で、寝かしつけるのにすごく苦労したのですが、オルガン旅行などでは、寝る時間など関係なく、オルガンのプレーヌムが聴こえると、くにゃっとなって眠ってしまう不思議な人だったことを思い出しました。

もうすぐ中学生なのに、ひさびさにプレーヌムにやられた(または旧約聖書に?)娘。

わたしは勉強合宿をするなら、3泊4日「独身に返って」ひとりでもっともっと練習したい、とはじめは不満に思っていました。でも、まず教会で常に練習の音がしていたらお祈りに来た人たちにも迷惑になるという問題もある。また、1時間半ごとに切り上げる事で、録音した練習の内容を部屋に帰って聴いては直すところをチェックし、散歩や水泳をしたあとでまた戻って練習するときにはそこを中心に仕上げて行き、また録音してチェックする、というのを繰り返す事ができました。これは実際かなり手間がかかるので、普段なかなか出来ない練習の形です。1時間の録音を聴くには1時間必要なのですが、前に戻ってもう一回、などとやっていると、気がつかないうちに2倍近く時間がかかってしまうこともあるからです。

そして、オルガンとは関係ない人と一緒に合宿をやっていると、気分転換になるということもありました。

練習中はわたしのやりたい事が優先なので、その他のときは娘がしたいことを中心にやって行く。セール中のお店をみたり、散歩したり、お茶したり…。

また、市営プールは緑に囲まれた屋外にあり、長い滑り台がついていたりこどものプールや飛び込み台付きプールなどの設備になっていて、昼休みに1時間そこですごすだけで、その日の朝の事が遠い昔のように感じられ、あ、また弾きたいな。とリフレッシュするのです。

そして、このオルガンはいくら弾いても飽きず、疲れない楽器なのでした。

そして、バッハの音楽は、いくら弾いても、弾いても弾いても、飽きず疲れず、しかし満足いくように弾けない音楽なのでした。これはおいしいものを充分に味わう時の様な、良い事が終わって欲しくない気持ちから「まだまだ弾けないぞ!」と「わざと」思うようになっているんだろうか、と我ながら感心するぐらい、なかなか満足いくようには弾けないのです。

そういうもののある人生、(疲れるしめんどくさいけど)やっぱり楽しい人生だな、と思った夏の練習合宿でした。





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子供と音楽で交流するとき

2009年07月23日 | Weblog
ベルギーの仏語圏をカバーしている、CIPL(Comission Interdiocesain Pour Liturgie)の主催で、典礼の夏期学校が毎年7月と8月に5日づつ行われます。毎年、7月には0歳から80歳までの家族などが集まって100人ほどの講習会になるのですが、今年は大人の参加者が少なく、予定通りの講習会が出来ない事になってしまいました。音楽の担当は毎年変わるので、私と夫はこの3年ほど参加していなかったのですが、今年はたまたま当番というか、子供も連れて参加する予定だったので、どうなるのかなと思っていたら、子供だけの夏期学校に変更することに。宿泊場所も急遽変更し、プログラムもすべて作り直し。といっても、音楽係は「その場で臨機応変するように」と言われ、準備段階ではいっさい手伝わなかったので、実際現地に行ってから、その日その日で計画をしていく、即興的な講習会になりました。

ミッションの全寮制中学校の建物が夏休みで空っぽになっているところを、1週間賃貸しているので、オルガンのないちいさな円形チャペルがあるのみ。鍵盤楽器は電子楽器が2台持ち込まれています。

でも子供たちの中でギターやヴァイオリンを持って来た子たちがいました。また、人数が少なくても、声をうまく使うことが大事になってくるということで、初日には参加者全員が「声の音域」を試すための遊びを考え、ひとりひとりハ長調のスケールの書いてある五線紙を用意して「好きな楽器は何か」などのアンケートに答えながら発声していく、20人の子供たちの「個人インタビュー」をすることにしました。

結局、ひとりひとりのこどもたちと知り合う機会にもなり、そのあとで私か夫がキーボードのそばにいれば、なんとなく近寄って来て、

「ねーあたしのギターの先生ね~」

とか、

「うちのアカデミーでは試験が学期ごとにあって(フランス北部から参加の子供)、それがいやで音楽やめちゃったのでもやめたくなかったんだよ本当は…」

とかいろいろ話しかけてくるのです。今までの講習会では大人がたくさん居る中の子供たちという感じで、あまり個人的に親しくなる機会はなかったのですが、そういう話を通して、最初に「対等」になれたので、お互いの名前もすぐに覚え、一日3回の食事のときも、自分の家族のそばに固まらずに、わたしたちと一緒にすわりにきてまた話したり、実に小編成ならではの親密な講習会になりました。

テーマは「イエスのいろいろな横顔」というもので(子供にも親しみやすいテーマという事で、もともと予定していたものとは違うのですが)、5日間、つぎのような時間割に合わせ、

朝8時:朝ご飯
9時:朝のお祈りと「本日の予定」など
10時:遊びを通した学び、大人は子供のお世話をする(ゲームの手伝いとか)
11時:大人と子供は別々に机に向かって遊びで扱った内容を勉強
12時半:昼食
13時半:おとなだけ会議
14時:一部の大人と子供たちは近隣の野外訪問、大人は室内で意見交換や勉強
18時半:夕食
20時:日替わりのイベント(映画会、演芸会、自由、ミサの準備など)

途中日曜日が入るのでその日にむけて、音楽の方を練習していくことも織り交ぜます。


楽器を持って来た子の曲を各人聴いてから奉献とコミュニオンの間の演奏を振り分けたあと、足りないところということで説教のあとの曲を、ヴァイオリン2台、ギターとキーボードで即興することになりました。

「イエスは道である。」の聖句から、主題は「サンダル」。

お手本にした作品は私もオルガニストとして関わった現代版「ルツの一生」の音楽劇。イエスの時代みんなが履いていたひもつきのサンダルで歩く音を、グリッサンドで引きずる感じを表した「サンダル」という曲が出てきます。作曲したのはソランジュ・ラベという女性で、弦楽器のグリッサンドで上ったり降りたりする音階をオクターブではなく7度で止め、また中にある音階の音は普通の調性の音階ではなく、メシアンのように「選ばれたモード」の音階です。

こどもたちには音の「間違い」ということを心配しなくてすむように、モードなどとかたい事は言わずに「だいたい」この辺から上は好きなところまで、という形で上下のグリッサンドを練習だけして、あとは次の順序で即興して行きます。

1。ギターの16歳の女の子がコードを弾く。大きいアルペジオ、小さくつまんだコード、不協和音、協和音、低いコード、高いコード。彼女がイニシアチブを持ってコードの進行を決める。

2。それに呼応して、12歳のヴァイオリンの女の子が(鈴木メソード6巻のレベル)最初の「サンダルグリッサンド」を弾く。

3。それに呼応して、ヴァイオリンの7歳の男の子が(鈴木メソード1巻。)エコーという感じでサンダル・グリッサンドする。

その間オルガニストはギタリストのコードに呼応しながら小さいVoix Celestesみたいな音を使い、ハーモニーの「絨毯」を敷く。

こういうのも長い時間弾くとつまらないのですが、説教の後60秒から120秒という時間なのでなかなかフレッシュな、不思議な感じなのにもかかわらずとても落ち着いた演奏になりました。子供たちがすごく耳を使ってよくお互いを聴いているという事が、一番の演奏のクオリティになり、説教のあとで会衆があたまの中でいろいろ「反芻」するのに合っていたのではないかと思います。


普通の、レッスンで準備した曲をミサで弾きなさいというと、こどもたちは緊張して音が小さくなったりするのですが、即興で「実用のための曲」を作りながら弾いたことで、そのあとのひとりひとりの曲の演奏も、「自分を聴いてもらう」のではなくて「その場に必要な音楽を提供する」気持ちで、少し肩から力を抜いて出来た様な気がします。あとで訊いてみたら「やっぱりすごく心臓はどきどきした」とみんな言っていましたが、とにかくパニックはなかったし、次の食事の時間にはすぐに「音楽をありがとうね」とか、参加者からの反響が届くので、拍手のない「アンチ・クライマックス」感も和らいだようです。


声を使う「実験」では、人数が少なくてもどうしたら響くか。ということを中心に考え、オルガンのストップ構成をモデルにして、高音と中音、低音のグループに全員を分け、そのグループで同時に3声で歌うと一番効果的に大きな合唱に聴こえるのですがそこまで練習している時間はないので、同じメロディをずらして歌う、カノンにしました。


Jubilate Deo, Jubilate Deo, Alleluia!


という簡単なものですが、各グループ5回ずつ歌うことにすればかなり続きます。

そして響きはとても美しかったです。

オルガンを弾かずに、声の対位法の世界に身を置いてみると本当の意味での「コミュニオン」ということがわかるような気がします。歌い、ハモるということはなぜこんなに幸せ感にあふれているのだろう?

それから、残り少ない時間を使って、良く知られたアイルランド風「ハレルヤ」の低音部を子供たちに教えました。
おとなにも教えたかったのですが、「時間もないし無理だからやりたくない」という雰囲気だったので。

実際に最後のミサでそのハレルヤを使ったのですが、いつものソプラノのメロディーは大人が歌い、こどもたち20人が低音部を歌いました。その子供たちの音程がしっかりしていて本当にきちんとパートを覚えていたので、「教会で複声部で歌うのなんて、夢だけど無理よ」と言っていた人が、「うーん若い人たちが難しい方のパートを習えば可能になるのかも…」と、終わったあとわたしに言いに来てくれました。

「こどもたちは教会の未来」ということが音楽にもいえる…ということだと思うし、「もっとやってみれば、教会の中の音楽はもっともっと素晴らしいものになる」というわたしたちオルガニストなどプロの音楽奉仕者たちの信念が、こどもたちの先入観のない姿勢のお陰で一種証明できたのかもしれないと思います。

いくら信念があっても、実際に音になって出て来なければ、それがどんなに素敵か、誰にもわかってもらえない。

音が出ていなければ音楽じゃない、ということで、

「実行あるのみ」

そんな夏にしたいです。

(写真は屋外工作学習中のこどもたち…)





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