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西安から函谷関へ

2005-10-11 07:11:41 | 写真で綴る中国旅行

西安フォトログ-12 西安から函谷関へ

今日からガイドさんが代わり羅さんに王道街道を案内される。また、新たに6人のメンバー(四国から来たという親子三人と60歳から中国語を習いはじめ博識な85歳のおじいさんと夫婦2人)が加わり総勢11人の旅である。このコースは昨年2003年から設けられたコース。

まずは西安を後にして函谷関に向かう。バスで高速道路を利用して約3時間である。日本の高速道路と異なりかなり凸凹している。これはトラックが積載重量以上の物資を搭載して走っているのが原因のようである。高速道路の料金場で自転車が横切っているのには驚いてしまった。

さて、この函谷関であるが、今はどうか知らないが、遠い昔、小学校唱歌で良く歌った歌に箱根の山があり、その歌詞に出てきた記憶(箱根の山は天下の険(けん)?函谷関もものならず?)がある。確か函谷関も箱根にはかなわないとかいう歌詞ではなかったかと思うが、要は大変な難所だったということだ。そのようなイメージを持っていたし、史記にも登場する要衝の地であったことから、バスの中で大いなる期待を胸に抱いていた。

もやがかかっていたがこれは自動車や火力発電所の排気ガスによるものではなく、朝と夜との温度差が大きいためいつも見られる現象だというガイドさんの説明。

函谷関は河南省の北西部にある、古くからの交通・戦略の要地。黄河の南に位置し、昔から西の長安を中心とする関中と、東の洛陽、すなわち現在の洛陽を中心とする中原をむすぶ交通の重要地点として重視されてきた。

戦国時代の斉の孟嘗君が秦をのがれるとき、夜がまだ明けないため、従者が鶏の鳴き声をまね、守衛に関門をひらかせたという有名な故事は、今も民間で広く語りつがれている(鶏鳴狗盗)

秦の時代には、関門は日没に閉じ、日の出とともに開かれていた。その後も劉邦と項羽の天下どりの戦いをはじめ、多くの東西攻防戦がこの地を舞台にくりひろげられた地なのだ。などと考えているうちにバスは函谷関に到着である。

函谷関には観光客向けに立派な入口があり、周の宮室図書館に勤めていた老子が水牛にまたがっている像がある。ガイドさんによるとこの近くに老子が逗留したそうである。確かに曽先之が記した十八史略には老子は周が衰えつつあるのを見て職を辞し、隠遁の知を求めて関所まで来たという記述がある。この関所というのがおそらく函谷関であろう。

函谷関の門をくぐり、奥に進むと狭い道に出る。今日は幸い良い天気であったので問題ないが、雨が降ると奥の道まではたどり着けないほど水であふれてしまうとのことである。道幅は秦の始皇帝の馬車1台がやっと通れる程度の幅で、この道をまっすぐ行くと西安にたどりつけるのだという。

昔は左右が黄土で高くそびえ上がっており、上を見上げれば狭い空間に空があるのみという険しい景観だったそうであるが、今は黄土が風雨により浸食を受け、昔の面影が僅かに感じ取られる程度である。「ああ、なんだこんな程度なのか」と非常に険しい場所を想像していただけにやや期待はずれ。

ここで、Mが観光用の馬に乗馬。普段はもっと背の高い馬に乗っているとのことで、難なく馬を操っていた。

なお、この函谷関の他にもう1カ所、現在洛陽に属する新安県に新関という関所があるそうだ(現在、この地をランチョウ(蘭州)~リエンユンカン(連雲港)鉄道が通っている)

(2004年10月12日)

写真はこちらからどうぞ

http://blogs.yahoo.co.jp/moguma1338/MYBLOG/yblog.html?fid=783878&m=lc

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