キャッスルマン病とわたし。

稀少難病『特発性多中心性キャッスルマン病』になってしまったわたしの日々。
夫・Uさん&チワワに支えられて。

moco's モットー

病気でも
☆元気☆健康☆長生き☆

“全身性キャッスルマン病”
“舌白板症”
“子宮内膜症”

三病息災LIFE

お薬の整理

2015-06-30 | キャッスルマン病のこと。
毎日の薬の管理は

飲み忘れ防止の為に

ダイソーで買った1週間分のピルケースに小分けしたりしていますが、



お薬の種類が段々と増えてきて、

どの薬にどんな作用があるかとか、

どの薬をいつ、何錠飲めばいいのか、

ときどき分からなくなっちゃうので、

小分け前のお薬も、

お薬の名前と作用、

いつ、何錠飲めばいいのかを明記して

管理する事にしました










これなら

小分けするときに間違える事も無し。



処方されたお薬の意味を

しっかり理解して、

飲み方をきちんと守っていれば、

より一層、

効き目もあるはずだと信じています。











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最近の舌白板症と、膝の湿疹の状態

2015-06-09 | 舌白板症→舌癌のこと。
舌白板症は

相変わらず病変部が白くなったり薄くなったりを繰り返しています。


経過観察で半年に1回程度、

キャッスルマン病で通院している県立病院の口腔外科で診て貰っていますが、

前回の受診の直後、

舌の白変の一部が薄くほとんど消えかかったようにキレイな状態になったものの、

しばらくしたら再び白く変化。


そして、

今また再び

舌の白変の一部がほとんど消えたかのようなキレイな状態になっています。




奥のピンクの円の方は消えません。

やや大きくなったかも。


手前の黄色い円の辺りは一時期真っ白に変色していたのですが、

今はこの通り、

キレイなピンク色になっており、

舌の表面の状態もなだらかで穏やかな顔つきをしています。



なにが嬉しいかって、

このように病変部が白くなったり消えかかったりしている間は

舌癌に進行している可能性がわずかであるという事です。


病変部がただひたすら白く、範囲を拡大していたり、

厚みを持ち始めたら赤信号。


すぐに生検をして細胞の状態を確認してもらい、

悪化しているようなら近くの医大で手術が必要になります。



というわけで、

舌白板症は、

今のところセーフ  




続いて、

両膝&両足のくるぶしに定期的に出来る湿疹ですが、

このところ

くるぶしには余り湿疹が出来ていません。


両膝は相変わらず痒みを伴う赤い発疹ができます。



これは右膝の膝頭に出来た湿疹。

左膝の膝頭と膝頭の下辺りにも同様の湿疹が出来ていて、痒くなります。

これを放置すると

寝ている間や無意識のうちに掻きむしってしまい、

患部が汁でぐちゅぐちゅになり、

痒いだけではなく、

ヒリヒリと痛み出します。


今はこのような痒みを伴う赤い湿疹が出る状態になったら

皮膚科で処方してもらった

「テクスメテン軟膏」を塗ってかゆみを抑えています。



舌白板症も膝の湿疹も、

なんとか現状維持で頑張ってます。












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気がついたら、もう6月。

2015-06-08 | あれこれ。




4月の中旬、

母の一周忌を目前にして

父も逝ってしまいました。


ばたばたしてたり、

気が動転してたり、

喪失感に襲われたりしてたら、

6月になってました。


こう書くと、

なんだかベタベタに仲の良い親子のように感じるかもしれないけど、

関係性は普通でした。


ただ、

両親のガンが発覚した後に

ダーリンの九州転勤に帯同すると決めたので、

両親の元に残るか、

夫の転勤について行くかは、

本当に悩みに悩んだ末に出した結論で、

両親も

「私達の事はいいから夫婦の関係を大事にしなさい」と

快く送り出してくれたうえで、

ガンだとわかった両親のいる関東から

遠く離れた九州に引越したんだけど、

やっぱり、

大事な時に近くに居られなかったことが

心に大きな穴を残しているのだと思います。


両親は弟と暮らしていたので独居だったわけではないし、

引っ越してからは

週に1回、

電話でたわいも無い話しをしたりしていました。


特に母が逝った後は、

父が「もう大丈夫だよ」って言うまで、

毎日、電話を掛けていました。


私には電話を掛けて話をするぐらいしか出来なかったから。



父の最期は予想していたより数ヶ月早くて、

病状を聞いていて、

どうやら状態が悪化している様子だったので、

予約していた飛行機をキャンセルして

帰省を2ヶ月早めたんだけど、

間に合わなかった。


父の入院先に会いに行く日の、

きっかり1週間前に旅立ってしまいました。


あと1週間、

あと1週間だけでいいから、

頑張ってなんとか持ちこたえてくれていたら

最後に一目でも会えたのに。


「あれもしてあげられなかった。」

「これもしてあげられなかった。」


ホント、

終わってからの「たられば」ばかりが

脳裏に矢継ぎ早に浮かび、

父の訃報を聞いた日の日記には

「~してあげられなくてごめんね。」

「~できなくてごめんね。」

父に謝る言葉ばかりが連ねられています。


この1年の間に

父も母も逝ってしまったという事実の大きさが

40過ぎた身に堪えます。


母の1周忌が近づいて

少し傷が癒えそうかなと思っていた矢先の出来事だったし。



だからって、

ずっと泣いて暮らしていたわけではありませんが。

(泣かないようにしてたんだけど)



父の四十九日と納骨も過ぎて

今、

悲しみでガチガチに固まっていた感情が、

ようやく少しずつ、

雪解けが始まったような感覚になっています。



アップ用に撮り貯めた画像もパンパンに蓄積しているし、

ブログやツイッターも、

ぼちぼち再開していこうと思っています。










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