君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第十九章 最後の夜

2016年10月23日 | 第十九章 最後の夜
 それから約一週間後のこと。

「これで・・・」

 魔女が薬を剥がしながら呟いた。

「元通り、だな」

 そして陸の傷を確認して、満足そうに頷く。

 つられるように見た自分の体には、傷など、初めから存在していなかったように残っていなかった。傷を負ってから三ヶ月弱。魔女の薬は、想像以上に優秀な効果を発揮したようだ。その力を理解してはいたけれど、改めて見せ付けられると凄いとしか言いようがない。

「・・・どうも」

 陸はそう言って、後半の言葉をなんて続けるか迷ったようだが、頭を下げると呟くように言った。

「ありがとう、ございました」

「おや、随分素直だこと」

 魔女は戯けるようにそう言って、持っていた薬を捨てた。

 その言葉に、陸は素直に小さなため息を付く。彼女にからかわれるのは、本当に面白くない。遠慮なく痛いところをついてくるから尚の事だ。長い時間、一緒に居ても慣れなかった。きっと、いつまで経っても慣れる事はないだろう。

 陸が服から顔を出すと、着替え終わるのを待たずに魔女は言った。

「さて」

「?」

 袖を通しながら、陸は魔女の方を見る。魔女はニッコリと笑って言った。

「長い間、足止めしてしまったな。でも、もう治療も終わりだ。お前の望み通り、いつでも帰してやろう」

「・・・」

 素直過ぎるとも言えるその言葉は、正直意外だった。だから魔女のその言葉と笑顔に、陸は面食らったように目を丸くする。

 しかし服を着終わると、口の端を持ち上げてため息混じりに言った。

「それは、どうも」

 それは当然の笑み。
 ずっと望んでいたことだ。今だって。だから。

 でも・・・。

「いつにする? 今日明日でも構わないぞ」

「・・・」

 積極的な魔女の言葉。望んでいた筈の言葉なのに、逃げるように陸は視線を宙に漂わせた。

 降り注ぐような日光は、もう影を潜めている。日が陰ってきているのだ。未だ早いとも言える時間だが、天はそれを感じさせないほど暗い。

 それを見て思った。今日帰ったら、今夜はどんな夜になるんだろう、と。一人きりの夜。でも、もう一人にはなれない夜。

 そう思うと、気持ちが怯んだ。帰りたいと思っていた筈なのに不思議なものだ。臆病になっている。現実に。自分をそう感じるほどに強く。

 だから最後にもう少しだけ、一人になる時間が欲しかった。逃げるのと同時に戦うため。これからのことを、一人で考えたい。これからの為に。

「じゃあ・・・明日、お願いしても良いかな・・・」

 自分でも弱いと思う声色。
 けれど魔女は、全く気にする様子もなく応えた。

「分かった」
 
 その陸の言葉に、魔女は大きく頷く。そして、続けて思わせぶりな一言を呟いた。

「今日は、ゆっくり休んでいけ。最後の夜だ」

 それが陸に聞こえたのかどうか、それは誰にも分からない。





 その日の深夜。

「姫様。もう、お休みになっていますか?」

 小さなノックの後、爺がドアの隙間から顔を覗かせ、中を窺うように小声でそう言った。

 本来なら、空はもうベッドに入っているべき時間だ。しかし部屋の中には、小さな光りがポツンと灯っているテーブルの上。その前に、空はいた。

「・・・爺・・・」

 振り返って、少し驚いたように空が呟く。爺はニッコリと笑うと小さな声で言った。

「中に入っても、宜しいですか?」

「・・・」

 空は無言で小さく頷く。爺はドアの横にあった明かりのスイッチには手を触れず、僅かな光りを頼りに空の側まで歩いてきた。手には小さなトレーを持って。

「どうしたの?」

 空が、爺を見上げて心持ち小さな声で言う。爺はテーブルの上にトレーを置いて言った。

「姫様が眠れないのではないかと」

「・・・」

 そう言われて空は何か言おうとしたのか、息を吸って口を開きかける。しかし何の言葉も出てこなかった。

 僅かな間をおいて、結局空は小さく頷く。今夜は眠れない。その理由は二人にとって明確だった。

「コック長とそんな事を話していまして、是非これを姫様にと」

「?」

 爺が、そう言ってトレーの上を示す。
 そこにはカップと、ガラス製の小さなポットが乗っていた。暗くて良く分からないが、ポットの中には液体と葉が入っているようだ。それが、爺が触れたことで僅かに揺れた。

「よく眠れますように」

 そう言って爺は、カップの中にそれを注いだ。途端に部屋に溢れてくる、花の香り。

「・・・」

 空は、それを知らずの内に大きく吸い込んで深呼吸をした。胸の中に入ってくる、優しい香り。知らずの内に入れていた体の力を、跡形もなく消していくようだった。なんて穏やかな香り。逆らわずに肩の力を抜いて、空は呟く。

「良い香り・・・」

「去年の春に取れた花を、乾燥させて茶に混ぜた物だそうです。初めての試みだと言うことでコック長はとても心配していましたが、良く香りが出ていますね」

 どうぞ。そう言って爺は、カップを空の前に出した。

「ありがとう・・・」

 空はそれを受け取って、もう一度香りを確かめる。

 どこかで嗅いだような気のする香り。しかしその事実とは裏腹に、感じたことがないほど素直に心が静まっていく。不思議な程に落ち着いていく心。どうしてだろうと思う。どうしてこんなに、この香りは心に響くのだろう?

 その訳は。

「・・・」

 肩がピクリと動いたと思ったら、それを最後に空の動きが止まった。そして手元を見たまま、大きく目を開く。

 分かったのだ。どうしてこれが、こんなにも心を静めていくのか。
 それに思い当たるのは、当然というほど当然だった。「今」思い出さない訳がない。

 ああ、そうか。そうだった。思い出せた。この安心の意味を。そう思う。それは優しく、苦しさに似た胸の締め付けをもって空に触れる。

「・・・姫様?」

 その空に、不思議そうな爺の声。当然、その驚きようが理解出来なかったのだろう。
 この大切な時に、何か心を乱すようなことをしてしまったのだろうか? と、爺は心配そうな顔をして空の顔色を窺った。

「・・・これ・・・」

 爺のその声に、空は我に返るきっかけを掴んだようだ。震える吐息を漏らし肩を落とすと、空の手は僅かに震えた。

 その緊張と驚きに硬くなった指先すら、その香りは癒していく。空の頬も指先も、ほんのりと優しく染まった。
 全てが反応していた。心も体も、やわやわとして軽くなっていく。
 
 薄暗い中。爺には、それは分からなかっただろう。

「どうかなさいましたか? 姫様?」

 だから、爺は狼狽して言った。覗き込んだ空の目に涙が光る。それを見て、爺は思わず息を飲んだ。

「あの時の・・・」

 空はその爺を落ち着かせようと、泣き声のまま呟く。

「あの時の、花の香り・・・」

「・・・え?」

 空はもう一度深呼吸をするように大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。どこまでもどこまでも、それは優しい香り。
 それは空を包み込む。真綿のように優しく柔らかく、彼のように暖かく。

 それを確かに感じながら、空はもう一度呟く。

「陸が切ってくれた、花の香りよ・・・」

「・・・」

 そう言われて、やっと爺は空の涙の訳が分かったようだ。安心したように大きなため息をつく。そして体を起こすと、納得したように大きく頷いた。

「そう言えば、春先にこのお部屋に花が飾られてましたね。確か春咲の枝が」

 その言葉に、空は小さく頷く。爺もその返事に、もう一度頷いた。

「・・・あの枝を切ってくれたのは、陸殿でしたか・・・」

 空は爺を見上げた。その目には僅かに涙が光っている。しかし空は微笑むと、その言葉に小さく頷いた。


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