君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第四章 黒い海 2

2015年06月11日 | 第四章 黒い海
「ここで待っていて下さい」

 彼は、振り返ると小さな声でそう言った。あたしは頷く。

「こちらです・・・」

 土気色の肌の彼女が、力無くそう言った。結局、彼の意志が通されたのだ。彼女は項垂れたまま肩を落として、あたし達を誘導したことを、今も悔やんでいるように見える。

「どうも。・・・失礼します」

 彼はそう言って、ドアもない部屋の向こう側に消えた。あたし達は、その背中を見送る。

 チラリと見えた部屋の中にはベッドが一つ。それだけで、文字通り部屋はいっぱいだった。圧迫感を感じるほどに狭い部屋だ。そのベッドの上は、僅かに盛り上がっている。人が横たわっているのだろう。彼の話していた五人の兵士達、その内の一人。生き残った、たった一人。

 あたしは、風を感じて廊下を見渡す。ここは病院なのだろうが、隙間風の入る、粗末で古い建物にしか見えない。清潔感もなく器具も少ない。廊下も部屋も、狭いくせにガラガラだ。ここに来るまで、一度も治療器具を見ていない。ここで本当に治療が出来るのだろうか?

「・・・」

 あたしは中に入った彼が気になって、壁に隠れるようにして中を覗いた。
 小さな、囁きのような声が聞こえてくる・・・。



「隊員は、皆、死にました・・・」

「・・・」

 その言葉に、膝をついた彼の横顔が、辛そうに目を閉じた。黙祷を捧げたのかもしれない。

「これ・・・これを・・・」

 男が手に握った何かを男に渡す。白い小さな箱だ。それを持つ男の指は、小刻みに震えていた。それすら持ち上げるのが辛そうに。

「・・・これ・・・」

 受け取った彼は、それを見て目を丸くする。そして答えを求めるように、男の顔を覗き込んだ。

「すいません・・・でした。すい・・・すいません・・・国は・・・国が・・・」

 男の声は、泣き声に変わった。うなされるように繰り返す、その言葉が震えている。そして箱を渡し、そのまま上げた手を、彼に縋るように伸ばした。助けを求めている。少なくとも、あたしにはそう見えた。

「大・・・大丈夫。これは必ず届けるから」

 彼も、そう感じたらしい。慌てたように力強くそう言った彼は、手を強く握って頷く。

「何も心配しなくていい」

「・・・り・・・く・・・」

 その言葉に、男は初めて安らかな顔になる。病に侵されて荒れた肌に、一筋の涙が伝った。

「ありが・・・」

 男の言葉は、そこで途切れた。

「・・・」

 彼の横顔は、何かを言いかけた。でも、唇を噛んで言葉を飲み込む。男が、もう何も答えられないことを察したのだろう。もう二度と、男が口を開くことはなかった。
 悔しそうに歪んだ顔を、堪えるようにぎゅっと目を閉じて隠しながら彼は呟いた。

「・・・くっそ・・・」

 力を失った熱い手。その意味すること。無念そうに俯いた彼は、夕日に照らされて影になった。

「・・・う・・・っ」

 二人を見ているのが辛かったのだろう。彼女は部屋から顔を逸らすと、顔を覆ってその場から去ってしまう。
 あたしは彼女に声を掛けかけて。

 ・・・駄目だ・・・。

 止めた。かける言葉がない。あたし自身が、彼女を苦しめるような行動をしているのだ。そんなあたしが何を言っても、上辺だけの慰めになってしまう。そんな慰めなら無い方がましだろう。

 そしてあたしは視線を戻し、彼をずっと見ていた。彼の感情が痛くて、悲しくて、辛くて。

「・・・」

 寒くて。体を自分で抱くように、腕を回した。



 彼はあたしをすぐに病院から遠ざけると、自分は男の死亡についての手続きでもあったのか、しばらく姿が見えなくなった。本当に自分の身の危険は顧みない人だ。

 あたしは彼女の家にお邪魔になり、彼を待っていた。彼女は何も話してはくれない。あたしも掛ける言葉がなかった。それよりも、意識を支配するものがあったからでもある。

 彼の表情が、あたしの頭を駆け巡っている。考えるのは彼のことだけ。彼が心配だった。そして、彼の表情が胸を締め付ける。こんな事は初めてだ。

 どうしたんだろうな・・・あたし・・・。

 あたしは窓の外を見た。日が陰ってくる。風が強くなり、隙間風が入ってきてあたしは肩を竦めた。

 しばらくして彼が戻ってきた。いつもと変わりない彼の顔。あたしは何だかホッとした。



「無理言ってすいませんでした」

 彼はそう言って、彼女に頭を下げた。あたしも揃って頭を下げる。

「ご迷惑をおかけしました・・・」

「いえ・・・」

彼女は首を振る。そしてずっと気になっていたのだろう。躊躇いがちに問いかけてきた。

「あの、大丈夫ですか? 体は・・・」

「ええ、大丈夫です」

 彼は迷うことなく返事をする。あたしはその横で、言葉では答えなかったが小さく頷いた。

「・・・そうですか・・・」

 彼女はホッとしたように肩を落とすと、少しでも早く伝えようとしているのか、早口で続けた。

「覚えておいて下さい。症状は悪寒から現れます。もし感染していたら、その後一気に高熱が出ます。これからどちらに向かわれるのか分かりませんけれど、悪寒を感じた時点で治療をすぐにでも始めて下さい。もっと医療機関の整った場所なら、療養による自然治癒も不可能ではないはずです」

「・・・分かりました」

 頷いた彼の言葉。あたしは何も答えなかった。
 いや、あたしは彼女の言葉に思い当たって、思わず目を丸くする。

 悪寒? その後一気に?

 さっき、病室の外と彼女の家でも感じた寒気。それを、何故か鮮明に思い出した。
 思い出すと、それは不安と一緒に自分の中から一気に溢れてきた。
 考えてみれば、変だ。室内にいたのに感じた、強烈な寒気。

 ちが・・・違う・・・。

 違う。絶対違う筈。と自分に言い聞かせる。これは、人の死に直面したショックで・・・。絶対そう。不安を消したくて、体の感じている「何か」をあたしは無視しようとする。

 話を聞いたから、そんな気がするだけ。そうに決まってる。だって、今まで何ともなかったのに・・・。

 自分の言うことなら、体は聞いてくれると思った。言っている内に、僅かに安心してくる。きっと、気のせい。そう思えば、体は付いてくる気がした。

 でも、駄目だった。

「発症までの期間は、約半日から三日間。もし・・・」

 そこで彼女の声が止まった。

「?」

 彼は彼女の視線の先を追う。そして目を丸くした。

「空姫?」

「・・・」

 ・・・嘘でしょ・・・?

 あたしは彼の言葉を聞きながら、口を自分の手で塞いだ。そして、そのまま頭を抱える。
 応えたいのに。何でも良いから応えて、何でもない事を伝えたいのに。

 体が、停止した。
 電池の切れた機械のように、いきなり全てが停止した。
 そんな気がした。

 駄目だ。体がおかしい。いや、急におかしくなった。それは加速度を増していく。
 寒気と熱気が交互にやってくる。体は燃えるように熱いのに、神経は寒さしか感じていない。温度差に、脳はパニック寸前だった。
 そして、どんどん硬くなっていく体。セメントで固められたかのように。それがどんどん固まっていくのを皮膚が感じるかのように。
 固く、固くなっていく。

「・・・まさか・・・」

 彼が息を飲んだ。勿論あたしも、この逆らえない不調の意味を察する。その瞬間に平衡感覚を失った。

 嘘・・・。

「空姫!!」

 そのあたしの体を抱き止め、額にあてられる冷たい手。彼の手はいつも温かかった。その手が冷たく感じるなんて・・・。

 やだ・・・。

「・・・医者を・・・」

 彼の声が遠くなる。どんどん遠くなる。

「は・・・はい!」

 あたしこれ以上、迷惑かけたくないのに・・・。

 そこで意識は途切れた。

「空・・・」

 あたしは・・・?

 本当に、感染してしまったのだろうか。あたしには、分からない・・・。



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