君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第四章 黒い海 3

2015年06月21日 | 第四章 黒い海
 苦しい・・・!

 そこは、黒い海だった。いつか落ちた乳白色の海よりも、ずっと流れのある海。不規則に渦巻き、流れ、暴れ続ける。

 ゴポッ・・・。

 吐いた息が、水中で踊っている。あたしは恐怖を覚えた。
 酸素が欲しい。このままでは死んでしまう。上に。

 上に・・・上がらなきゃ・・・。

 あたしは手を動かした。思い通りには動かない。動いている感触が脳に伝わってこない。荒い波に飲まれ、あたしの体はゴミのように流され続けていた。

 気持ち悪い・・・。

 グルグルと回るその感覚に、あたしは体を固くした。吐きそうだ。体の中の臓器が、あっちこっちにグニャグニャと動いている気がした。平衡感覚も失われて、自分がどこを向いているのか分からない。浮遊感が訪れては消え、訪れては消えた。

 気持ち悪い・・・っ。やだ・・・やだや、だ・・・。

 肉体的にも勿論辛いが、この状態を続けることは精神的にも辛かった。いつまで続くか分からない、この拷問に似た苦しさ。
 早く抜け出さなければ、精神がどうにかなってしまう気がした。

 助けて・・・!

 あたしは必死に手を伸ばした。何も無い暗闇に向かって。
 それを咎められるような、後ろに引っ張られる感覚と下に落ちていく感覚に耐える。必死に耐える。

 助けて・・・。

 でも、何も見えない。誰も助けてくれない。
 何も触れない。空洞に手を入れているかのように、ぽっかりとした空間に手が泳ぐだけ。体はあっちこっちに引っ張られているのに、助けを求める手だけが何も感じない。

 ああ・・・もう。

 体の力と体温が、急激に奪われていった。意識が遠くなっていく。助かりたいと思う気持ちすら、冷たい水は奪っていった。

 駄目・・・だ・・・。

 そう思って手を下げ掛けた、時。

「・・・?」

 あたしの手に、何かが触れた。それはあたしの手を包み、そして水の流れに負けずどんどん引っ張ってくれる。

 な、に? これ。

 薄れ掛けていた意識が、その感覚に呼び戻された。それは、暖かくて柔らかい感触。
 人肌の、感触。

 ・・・誰?

 暗闇で何も見えはしないけれど、あたしは水の中で目を開いた。その瞬間に。

 ・・・っは・・・。

 どす黒い水の中を、抜け出した感触があった。触れる空気。あたしは必死にそれを吸い込む。

 ここはどこ・・・!?



「・・・」

 あたしは目を開いた。ぼんやりとした光が、有り難かった。それは目に優しい。

 けれど、実感した感覚は酷く辛いものだった。体中に重りを付けられたかのような重さと、潰されるような痛み。動かそうとしても、重力が強過ぎてどこもかしこも動かす事が出来なかった。
 体の中が全て金属になってしまったかのように、下に下にあたしを引っ張る。

 ここは、どこ・・・?

 ぼやけた視界に、いつかと同じ様な木目の天井が映る。しかしそれは、グルグルと螺旋状に変化し始めた。まだ、あたしの脳は正常に働いていない。

 気持ち悪い・・・。

 あたしの目は、それを見ることを拒否した。見ているだけで気持ちが悪くなりそうだ。既に体は強烈な吐き気を覚えている。

 何これ・・・。やだ・・・。

 閉じた瞼の裏には、黒い海があたしを待っている。あたしはその黒い海に、また沈み掛けた。

 こんなに気分が悪くなるのなら、暗い海に沈んだ方がましだと、その時あたしは思ってた。諦め。そうなのかもしれない。辛い現実よりも楽になれる死の方が、この時のあたしにとってどんなに魅力的だったろう。

 それ程までに、もう疲れていた。
 体も心も、限界を超えていた。

 もう、やだ・・・。

「空・・・」



 もう駄目だ・・・。

 あたしは、今度は抵抗せぬまま沈んでいく。墨のような、黒い海に。自分が沈んでいく音がする。
 水が生き物のように纏わりつき、あたしを飲みこんでいく。抵抗を止めれば、水はゆっくりとあたしを飲み込んでいくだけだった。そう気付いて、ますますあたしの体からは力が抜けていった。

 もう終わりだ・・・。

 諦めた。どこに行っても辛いなら、いっそここで楽になるのを選んだ。苦しみが、いつまでも続かないことは分かってる。だから。

 沈みかけた体。冷たい海に体が凍る。でも、きっとすぐに楽になれるはず。あたしは目を閉じて、最後の時を待った。

 辺りは静かで、僅かな水の音しかしない。ハッキリと死に近付くのを感じながら安らかな気持ちになった。その静寂が、あたしをゆっくりと取り込んでいく。

 遠くなっていく。自分を失っていく感覚。感覚を失っていく感覚。
 遠くなっていく・・・。

 あたしはその感覚に、身を委ねた。
 水の音が、心地良かった。目を閉じて、それだけを聞いた。

 静寂。水の音。

 静寂、水の音。

 静寂。



「空・・・」

 不意に。
 水音の間に、声が聞こえた。

 気がした。



「・・・?」

 薄れていく意識の中に、でも確かに聞こえてきたのは、その一言。

 ・・・空?

 どこから聞こえてきたのか、分からない。もう、そんなこと、どうでもいいけれど。

 空、って・・・?

 あたしは掠れた思考で思った。もう少しで顎まで沈んでしまう。そして口、頬まで。
 すぐに息が出来なくなる。これが最後の思考だ。だからせめて、「それ」を見ていよう。

 空なんて・・・そんなもの・・・。

 そして薄く目を開き、海の上を見上げる。暗闇。海と空間の区別さえ付かない。あたしはもうすぐ、この暗闇に飲まれてしまう。体も意識も消し去られてしまう。

 光が、あれば・・・でも・・・。

 希望の証。光を放つ太陽の浮かぶ場所。

 そんなもの・・・。

 明るく、暖かい空。広く、高い空。そんなもの、どこにもない。少なくとも、あたしの上には無い。だったら無いのと同じだ。

 この世界には、空なんて無い。この海の上には、空なんて無い・・・。

 あたしは迫り来る最後を受け入れて、体から完全に力を抜いた。そして再び目を閉じる。

 太陽なんて無い。光も何も、希望さえ・・・。

 あ・・・。

 その言葉で思い出した。

 希望。あたし、彼の持っていた小さな光に、希望を見たことがある・・・。

 前を行く彼の背中。彼の横顔。
 小さな希望だった。小さな・・・でも、確かな光。

 僅かな記憶の中に、その光を見つけた。あたしは、何だかほっとする。思い出せた記憶に。そしてそこにいた彼に、多分安心した。

 今までずっと、一緒にいてくれた。彼がいてくれて、独りぼっちじゃなくて、良かった・・・。

 感謝の言葉を、そしてこの安心に喜びを、あたしは静かに呟く。

 ありがとう・・・。
 それから。

 それが、本当は別れの、最後の言葉の筈だった。

 ごめんなさい・・・。

 その言葉を呟くと、僅かな記憶が蘇ってくる。ほんの数日分しか無いあたしの記憶。でも、それは今のあたしの全てで。
 自覚しているよりも、ずっと大切なもの、だった。

 ごめんなさい。最後まで何も出来ずに、ずっと迷惑をかけてごめんなさい。
 ごめんなさい・・・。

 謝罪と一緒に眠りに着くように目を閉じて意識を手放そうとしたあたしの中に、何故か僅かな感覚が戻ってくる。
 そして、ずっと途切れそうになっていたあたしの意識は。

 結局、途切れなかった。

「・・・?」

 水音が。
 さっきよりも鮮明に聞こえてくる。

 強烈な眠気に抗うような強引な覚醒が、急に起きた。一瞬耳鳴りが聞こえて、あたしの意識は更に鮮明に蘇っていく。

 ・・・何?

 暗闇の中。何も見えないけれど、あたしは目を開いた。そうしなきゃ、いけない気がして。

 何で・・・?

 それを辿っていくと、言葉があたしを突っついていた。気付け、気付けと強い主張を繰り返している。

 空。

 そしてやっと、あたしはその言葉の違和感に気付いた。でも、理解は出来ない。不思議な事に自分の中にある違和感は、理由分からないまま、まるで他人のように主張してくる。

 何か、あるの・・・?

 あたしは、這い上がるように再び水から顔を出した。冷え切った体は、動かしただけで悲鳴を上げている。でも、あたしはその痛みなど構いもしなかった。

 意識が、あの言葉に向かっている。それ以上のモノなど、この時のあたしには何もなかった。必死で体を動かして、顔を上げ、宙を見渡す。墨のような水を拭いながら、あたしは必死で目を凝らす。

 この空? この、真っ黒な空のこと? これがどうしたって・・・。

 考える度に、あたしの意識は取り戻されていく。最後に残されたその謎を、そのままにして沈むことは、どうしてか出来なかった。どうしても、出来なかった。

 その意味は。
 これが、運命の分かれ道だった。

 ・・・あ・・・。

 そして気付き、あたしは息を飲む。それは余りに大きな驚き。疑いすら覚える程の、驚き。

 違う。これじゃない。これの事じゃないんだ。だって、あの声。

 あの声・・・。

 理解できない感情に、動揺しそうな自分。落ち着いて、と言い聞かせて、一度だけ深呼吸をしてみる。そして、自分に向かって呟いた。
「大丈夫。思い出せる」と。
 あたしは、強くそう信じた。自分を。そして目を閉じる。

 大丈夫。僅かな記憶の中に、それは確かに存在している。思い出せば、戻ってくる。そして正解を掴み取れる。あたしの中には、絶対に残っているはずだから。
 大丈夫。ここに、きっとある。あたし、今度は無くしてなどいない。

 そして記憶は、思った通りに蘇ってきた。僅かだったけど、その大切な記憶が。

 やっぱり・・・。

 それが、無性に嬉しかった。そこにあの人が、いてくれたことが。

 あの声・・・。

 思い出す度に、確かなモノになっていく。この声に何度呼ばれただろう、あたしの名前。何度助けられただろう。この声に。

 間違いない。

 あたしは、確信を得た。それ程までに、自信があった。今のあたしが、多分たった一つだけ、決して色褪せずに持っていられたモノ。

 彼の声だ・・・。

 あたしがたった一人。たった一人だけ知っている人の声。たった一人、声を聞いて顔を思い出せる人の声。
「空姫」いつもあたしのことを、そう呼んでいた彼の声。

 じゃあ・・・空って・・・。

 気付いた。

 もしかして・・・あたしのこと?

 やっと気付いた。
 そう思うと、その考えは急に確信に変わった。そうだ。これは天の空を言っているんじゃない。彼が、あたしを呼んでいるのだ。空姫ではなく「空」と。

 空? でもそんな風に呼んでくれたこと、無かったのに・・・どうして・・・。

 あたしは目を開いた。そして、再び沈みゆく体を、とにかく浮かそうともがいてみる。肩より上が辛うじて浮かび、ホッとしたのも束の間。

 え・・・?

 あたしは目を丸くした。

・・・嘘・・・。

 見開いた視界に、黒い水平線の向こうに、光が溢れてくる。それは黒かった筈の海を青く照らし、冷たかった筈の水に温度を与えていく。

 太陽? ・・・どうして・・・。

 そんなことを思っていたら、ゆっくりと体が上に引っ張り上げられた。そして海の上にあたしは浮いた。もう沈まなかった。手が体を持ち上げてくれている。ずっと感じ続けている手の感触が。

 この・・・手を持ち上げてくれたのは、もしかして・・・。

 その返事が聞こえてきた。もう疑うまでもない人の声。



「治ってくれよ・・・」



 彼の声。

 その言葉は、あたしの耳にしっかりと入ってきた。あたしの意識は海から抜け出す。そして彼に包まれた手の感触を、今ハッキリと感じた。





 あ・・・。

 さっき見えた天井。さっきと同じように、ぼやけた視界。でも、今度は動かなかった。しっかりとあたしの視界は、定まったまま動かない。

 あたしは視線を、僅かにずらしてみる。
 影が見える。

「・・・空・・・」

 最後にまた、彼の声が聞こえた。泣きそうな声。握った手を温めるように、彼は両手であたしの手を包んでくれている。祈るかのように。

 手・・・。

 あたしは全てを察した。

 ああ、そうか・・・。

 それは、あたしを海から引き上げてくれた手だった。

 彼に、また助けられたんだ・・・。

 あたしはそう思いながら、今度は眠りの中へ落ちていった。



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