読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

読んでいると無性に呑み歩き旅に出かけたくなる、太田和彦さんの『飲むぞ今夜も、旅の空』

2022-09-28 06:34:00 | 旅のお噂

『飲むぞ今夜も、旅の空』
太田和彦著、小学館(小学館文庫)、2022年


いやー、今年の夏はほんと暑かった。わが宮崎では、例年より早かった梅雨明けとともに、朝から晩まで蒸し暑さを覚える真夏日が延々と続き、9月に入ってからもなかなか涼しくなりませんでした。
真夏に生まれたくせに、蒸し暑いのが大のニガテときているわたしは、今年の夏はとくにカラダにこたえました。何かに取り組もうという意欲もすっかり失せてしまい、当ブログの更新もだいぶ、滞ってしまっておりました。
9月も下旬に入り、だいぶ朝晩は涼しくなってきて、秋を感じられるようになってまいりました(日中はまだまだ暑いのですが)。そんなわけで、しばらく放置状態だった当ブログを再起動させるべく、キーボードに向かっております。

秋を感じるようになってくると、旅心がむくむくと湧き上がってまいります。そんな折に太田和彦さんの『飲むぞ今夜も、旅の空』を読んで、無性に呑み歩き旅に出かけたい気分が高まってまいりました。
太田和彦さんといえば、グラフィックデザイナーとして広告や本の装丁などで活躍する一方で、「居酒屋評論家」としても広く知られている方。これまでも、居酒屋の楽しみ方や名居酒屋の数々を紹介する文章を数多く書きつづけながら、全国各地の居酒屋を訪ね歩く、BSの紀行番組の案内役も務めておられます。
本書『飲むぞ今夜も、旅の空』は、各地の呑み屋街を訪ね歩き、その土地ならではの美味い酒と食べものを堪能しながら、土地の歴史や文化の精髄に触れる旅を綴ったエッセイをまとめたものです。

見知らぬ店に入り、そのお店の一品をピタリと見抜く嗅覚と鑑識眼に定評のある太田さん。本書で紹介されている肴の数々もいちいち美味そうで、これまた読んでいると無性に食べたくなってきます。
中の白いところをつぶして薄くして、ふわりと温める程度に焙るという京都の焼油揚。これでもかと大盤振舞いにエビを投入して揚げる、静岡の桜えびかき揚げ。各地で味わった馬刺の最高峰、と太鼓判を押す、福島県会津坂下町の馬刺。鯖、鯵、サワラ、鯛などの刺身の切れ端をゴマ醤油のたれに漬けた、大分県の「琉球」・・・。いちいち挙げていくとキリがないので、ここでは高知で人気の「カツオ塩たたき」の描写を引きましょう。

「皮が脂をじゅうじゅうさせて焦げたのを刺身に切ると、余熱で溶けた脂で一ミリほど白く囲まれた赤身はまだひんやり。そこに生ニンニクぶつ切りを思いきりふりまいてがぶり。焦げ香、血の味の赤身、生ニンニクの鋭い刺激はワイルドそのものだ」

ううむ、さすがはカツオたたきの本場である土佐高知。いかにもワイルドな味わいが文面から伝わってくるようで、カツオ好きとしてはもうたまりませぬ。いつか高知へ行って、向こうの地酒である辛口の「酔鯨」とか「土佐鶴」あたりとともにむさぼり食ってみたいねえ。

呑み歩き旅の極意について、太田さんはこのように語っておられます。

「肝心なのは、その街の代表的な一番よいスポットを選ぶこと。変に穴場の寂しい店に入っては街を楽しめない。観光で結構。賑やかな、また華やかな街のそぞろ歩き。「街を楽しむこと」が大きな満足になる」

「街を楽しむこと」・・・そう、ただ呑んで食べるばかりではなく、訪れた街にじっくりと腰を落ち着け、歩きまわることで、それぞれの街を楽しみ、その良さを肌で感じるという太田さんの旅の流儀が、またいいのです。本書には、そんな太田さん流街歩き旅の醍醐味を感じさせてくれる文章もいろいろと収録されています。
たとえば、新潟上越市・高田を旅したお話。夜になって現地へ到着した太田さんは、通りにある古書店を覗いたり、蒲鉾店でさっそくお土産を購入するなどしたあと、お目当ての居酒屋で「スキー正宗」などの地酒とともに、日本海の海の幸や地獲れ野菜に舌鼓を打ちます。
そして翌日は高田の街を歩き、「スキー正宗」の蔵元や老舗の飴屋さんに写真館、現存する中では日本で最古という映画館などを訪ねていきます。そして、雪の多い冬のあいだに生活通路を確保するために設けた「雁木」という庇(ひさし)屋根のある街並みを歩きながら、それによって繋がれる「連帯感」が、「争わない」知恵を持った高田の人たちの穏やかさとなっているのでは・・・と考察するのです。
本書の中でもっとも心惹かれたのが、兵庫県の山陰側にある城崎温泉を訪ねたお話。代表作『城の崎にて』を書いた志賀直哉をはじめ、数多くの文人墨客に愛された城崎にやってきた太田さんは、中心部を流れる大谿(おおたに)川に架かる古い石橋を見て歩き、「志賀直哉はこの橋を見ただろうか」などと想像したりします。
そして、宿の夕飯を終え、ひと休みしたあと再び温泉町に出て、おでんが名物の古い居酒屋と、まだ若い主人が営む新しい居酒屋をハシゴするのです。もちろん、浴衣姿に下駄を履いて。太田さんはこう言います。

「深山の秘湯もいいが、私は古い温泉町の風情に心惹かれる。(中略)浴衣姿で土産店をのぞき、懐かしい射的やスマートボールで遊び、歩きながらソフトクリームをなめる。これが温泉町だ」

この一文には、30年前に城崎を訪れたときの記憶が蘇ってまいりました。3階建ての旅館や土産店、飲食店が並ぶ温泉町には、たしかに射的場がありましたし、横丁を覗くと「ストリップ」の看板があったりして(入りませんでしたけど)、その古き良き温泉町の風情にすっかり魅了されたものでした。なんだか久しぶりに、城崎温泉に行ってみたいという思いが募ってきました。・・・あのとき横丁にあったストリップ小屋、まだあるかなあ。

旅先で出会った人たちのエピソードにも、印象的なものがいくつかございました。
なかでとりわけ琴線に触れたのが、山笠が開催される直前の「嵐の前の静けさ」にある福岡・博多を訪ねたエピソード。中洲の居酒屋にやってきた太田さんは、居合わせたお客さんから「祝儀山」の話を聞きます。舁(か)き山を舁く人びとはその時だけ、白無地の水法被に威儀を正しながら町を祓い浄め、その年亡くなった人のいる家では舁き山を正面に向け、「祝いめでた」を唱和し、手一本を入れるのだといいます。
「これは神事です、これが山笠です」と語るそのお客さんの話に、太田さんは「気持ちの澄んでくるものを感じた」のだとか。これを読んでいたわたしも、勇壮なイメージのあった博多山笠の背後には敬虔な思いがあるということを知り、感慨深いものがありました。
本書には、作家の川上弘美さんと太田さんとの対談「地方のバーの愉しみ」も収録されております。旅先でいいお店を見つけるための秘訣や、バーでの店主や他のお客さんとの距離のとり方などについて語り合っていて、けっこう参考になります。

巻末の解説は、読書や古本についての著作も多い書評家の岡崎武志さん。ここで岡崎さんは、太田さんへのインタビューの中で印象に残ったことばを引いています。

「その町に何十年と続く居酒屋はコミュニティであり、文化なんです。先代から二代目が食文化とともに受け継ぎ、その町の精神的支えになっている店は、なくなると困る」

思えば、ここ2年以上のわが祖国は、「感染対策」という誰も逆らえないような大義名分のもとで、地域に根づいたコミュニティであり、食文化の担い手でもあった居酒屋、そしてさまざまな酒場を冷遇するとともに、それらのお店で充実した時を過ごすいとなみを軽視し続けました。そのことによって、閉店に追い込まれたお店も少なくはないことでしょう。
その土地ならではの食文化を受け継ぎ、なおかつ人びとの精神的支えにもなっていたお店が失われた代償は、われわれが考えているより大きいのではないでしょうか。それを思うと、ちょっと暗澹たる気持ちにもなってしまいます。
ですが、そのような状況をなんとか乗り越え、がんばっておられるお店が全国にはたくさんあります。これからは、そういったお店にどしどし足を運んで、それぞれの土地に根づいた食文化を受け継ぐためのいとなみを盛り立てていかなくてはならない、と思うのです。
本書の中で、太田さんはこういっています。

「秋は旅の居酒屋の季節です」

そう、これから秋本番。美味しいものを満喫するのにも、旅に出るのにも最適な時期であります(そういえば旅もまた、「感染対策」という大義名分のもとで罪悪のように扱われたいとなみでした)。その土地ならではの美味しいお酒と食べものを味わう、旅の愉しさと喜びを取り戻すためのキッカケとしても、本書は役に立ってくれることでしょう。