読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

これも雑誌だ! ~マイナー雑誌大探検~ 第1回・『月刊公民館』の巻

2013-02-28 23:03:06 | 雑誌のお噂

『月刊公民館』
発行=全国公民館連合会、発売=第一法規 B5版 月刊 定価600円(ブログ掲載時)

そういえば、もうずいぶん長いこと、公民館という場所に行ってないなあ、と思う。子どもの時分に何かのレクリエーションで集まった記憶がうっすらとある程度で、今では近くの公民館でどんなことが行われているのか、気にすることもないという日々を過ごすオトナとなってしまっていたりするのである。
現に、公民館といえば子どもたちのレクリエーションの場であったり、主婦やお年寄りが趣味の講座やなんかで集まるような場所というのが通り相場ではないだろうか。
で、エネルギー持て余し気味のワカモノあたりは公民館に対して、
「は?コーミンカン?そんなシケたところなんか知らねーし、へっ。そんなとこよかイ○ン行こーぜイ○ン」
といったような態度をとりがちであるし、低成長ニッポンを青息吐息で支えているサラリーマン諸氏などは、
「はあ、公民館、ですか。ですがワタクシ仕事で忙しいですし、それに大事な大事なお得意さまの接待にも使えませんしねえ。あ、それではこれからお得意さまと馴染みのクラブに行ってまいりますので。さあガーコちゃんが待ってるぞお」
というわけで、やはり公民館にはつれない姿勢をとり続けているわけなのである。

そんな、なかなか厳しい状況にある公民館を、日々支え続けている人たちに向けた唯一の専門誌が、この『月刊公民館』というわけなのである。
手元にある2月号の特集は「音楽が地域をむすぶ」。公民館での音楽活動といえば、主に主婦やお年寄りによる合唱に民謡に太鼓に大正琴•••といったイメージがあるが、実践事例で紹介されている岡山県津山市の公民館では、地元の伝説をもとにしたオリジナルのミュージカル上演に取り組んだという。これが総勢数百人の市民スタッフによる本格的かつ大がかりなもので、公民館での活動がこういうものも生み出せるのだなあ、と感心した。
また、鳥取県倉吉市の公民館では、小中学生を集めて某アニメばりの軽音楽部をつくってバンド講座を開講、成果を披露するライブも公民館で開催したとか。公民館での音楽活動にも、いろいろな取り組みがあるんだなあ。

文部科学省優良公民館に選ばれた公民館の紹介というのもあった。このうち福島県西白河郡西郷村の中央公民館は、村民の可能性と生きがいをもとにした人づくりをするために村民大学を設立。これが単位制で、短大・大学・大学院まであるという本格的なもの。
いまやっている大河ドラマ『八重の桜』でも、会津藩が教育に力を入れていたことが描かれていたが、会津藩から続く福島の人づくりの伝統が、こういう形でも生きているのかなあ、と勝手に思ったりした。
また、近松門左衛門が幼少期を過ごした場所という福井県鯖江での、地域住民による「近松の里」づくり活動を公民館がサポートする、という事例も興味を引かれた。

やはり優良公民館に選ばれたという、宮城県石巻市虻田の公民館の利用者代表ともいえる、利用団体連絡協議会会長の女性のお話もなかなかに印象的であった。
農家の仕事をするかたわら、大家族の世話や育児にも励んでいたその女性、あるとき娘さんを不慮の事故で亡くしてしまったという。すべてのことにやる気をなくし、ふさぎ込む日々が続く中、近所の友人から声をかけられて始めてみた大正琴サークルがきっかけとなり、音楽を演奏して人に聞いてもらう喜びを知るとともに、素敵な仲間たちとも出会ったことで、公民館での活動に生きがいを感じるようになった、という話であった。
東日本大震災で大きな被害を受けた地域でもある石巻で、公民館から人と人とのつながりや、生きる息吹を与えられたという方がいる、という話には、なんだかしみじみと感銘を受けた。もしかしたら、公民館という場所には意外とまだまだ実力と可能性が秘められているのかもしれないな、と思ったことであった。

他には、NHKのニュース番組などで気象予報士をつとめている平井信行さんのエッセイもあった。大学受験にあたって悩み苦しんだ経験を語っておられるのだが、個人的には平井さんに大学受験に臨む息子さんがいる、というのに軽いショーゲキを受けてしまった。あんなに若々しく見える平井さんにそんな大きなムスコがいるとは•••。

そして最終ページには、「公民館総合補償制度」の広告が、見開き2ページにわたってドドーンと載っていた。公民館の利用者や行事・サークル活動の参加者、ボランティアや講師、同伴の同居未就学児までを幅広く対象とする「行事傷害補償制度」や、施設の欠陥や業務運営のミスによる公民館の賠償責任負担に対応する「賠償責任補償制度」などがあるとか。そうかあ、こういうカタチで公民館の利用者などを保護するような制度があるのか。財政の厳しい折りでもありましょうが、利用者が安心して利用できるためにも、ぜひとも多くの公民館のご加入をオススメしたいですねえ。と保険会社のまわし者のようなことを揉み手しながら言っておるわけであるが。

長いことつれない態度で疎遠にしていた公民館であったが、実は地道に地域の中で頑張っているのだ、ということを伝えてくれる雑誌であった。今度の週末あたり、ちょっと近所の公民館でも覗いてみたい気になってきたぞ。

これも雑誌だ! ~マイナー雑誌大探検~ 第0回・連載開始のコトバ

2013-02-25 22:58:15 | 雑誌のお噂
のっけから不景気なことで誠に恐縮収縮萎縮なのでありますが、近ごろは雑誌をめぐるお話にはさっぱり、いい話が聞こえてきませんなあ。いずこを向いても「雑誌が売れない売れないどうしよどうしよ」といった、ナゲキとウレイばかりといったありさまなのですね。
出版科学研究所の発表によれば、2012年に取次(出版物の問屋のようなものですね)ルートで販売された雑誌の推定販売金額は、前年度比マイナス4.7%の9385億円。前年度比マイナスは15年連続という、まことにキビしい話なのであります。
そして1年間に創刊された雑誌の数のほうは98点にとどまり、47年ぶりに創刊誌が100点を割り込むという、これまたなんともサビしい話なのであります。
宮崎という辺境の地で細々と外商の書店で仕事をしているわたくし閑古堂(40ン歳未婚)も、雑誌をめぐる状況のキビしさを日々ひしひしと感じております。
もちろん、根強い固定読者に支えられてそれなりの存在感を見せている雑誌は健在ですし、ときおり話題になるような記事や付録で売り上げを伸ばすような雑誌が出てくることも確かです。が、雑誌全体でいえば凋落傾向にあるのもまた確かなのです。
1つの雑誌が何万何十万の人たちに読まれては共通の話題となっていく、という、マスメディアとしての雑誌の役割りは、もしかしたら終わりに近づいているのかもしれないなあ、と、寒い北風にピープーと吹かれる中で淋しく思ったりもする今日このごろ、なのでありますよ。あゝ。

しかし!そんな雑誌凋落傾向の中にあって、あまり目立たないながらも独特の存在感を持つ雑誌たちが存在するのです。
それが、いろいろなジャンルの専門誌や業界誌、そして趣味の雑誌といったマイナー雑誌たちであります。
どこの書店でも置かれているようなマス雑誌とは異なり、マイナー雑誌の多くは発行部数が少なく、しかも「買い切り」という、売れ残っても返品できない取引条件のものも多くあるため、なかなか書店の店頭でもお目にかかることが少ないのです。それどころか、書店員にもその存在を知られていないような、どマイナー雑誌も少なくありません。
でも、マイナーとはいえ、それぞれの分野に関わっている皆さんが求める情報を確実に届ける役割りを、地道に果たし続けているのであります。その役割りは、雑誌凋落傾向の中にあっても、細々とながらもしぶとく続くのではないかと思うのですね。
そして、それらの分野とは縁もゆかりもない通りすがりのヒトにとっては、マスメディアではなかなか得られないような、意外に興味深い話の宝庫だったりもするのですよ、ええ。
マイナーだからといって、ゆめゆめ侮ることなかれ。マイナーだからこその興味深さと面白さ、そして魅力が、マイナー雑誌には溢れているのであります。

よし。あえて言い切るぞ。これからはマイナー雑誌の時代なのだ!
•••でも、もしそうならなかったとしても恨みっこなーしーよ。ゆびきった!

これから、そんなマイナー雑誌をめくっていきながら、そのめくるめく世界に分け入っていくことにいたします。
原則としてひと月に1冊ずつ、いろいろなジャンルのマイナー雑誌を通読して、それぞれの興味深い点や面白かったところなどを、あくまでもわたくし目線でレポートなどしていきたいな、と。
まあ、それぞれの分野に詳しい皆さんからすれば、相当にピントはずれな門外漢のタワゴトなどをほざくかもしれませぬが、そこはどうか太平洋のように広い心で、生ぬるく見守っていただけたらと願わずにはいられない乙女心、なのであります。オトコなんですけどねわたくし。

皆さまにいろいろなマイナー雑誌の存在と、その世界の面白さが少しでも伝われば、これに過ぐるヨロコビはございません。
ということで誠に簡単ではございますが(←だから簡単じゃないだろ)、「これも雑誌だ! ~マイナー雑誌大探検~」連載開始にあたってのコトバとさせていただきます。第1回は次回にアップする予定であります。予定は未定。

散歩がてら、生目神社の大祭へ。

2013-02-23 20:48:22 | 宮崎のお噂
まだまだ吹く風は冷たいとはいえ、日差しには春の暖かさが感じられるようになってきた今日この頃。
宮崎市の郊外にある生目神社では、きょうから生目神社大祭が始まりました。神社からわりと近いところに住んでいるわたくし、散歩がてら行ってまいりました。
雲ひとつ見あたらない快晴の天気の下、参道には約120軒の露店が立ち並び、たくさんの人で賑わっておりました。



応神天皇と藤原景清を祭神とする生目神社は、その名のごとく目の神様として親しまれています。大祭は旧正月に合わせ3日間にわたって催され、毎年多くの人で賑わいます。



神社に行くと、ちょうど神楽が始まったところでした。



地元小学校の子ども3人による舞。鬼の面をつけていても、愛嬌たっぷりの動きが微笑ましくて。それでも10分ほどにわたってしっかり見事に舞っておりました。



「三笠」と名付けられたこの舞は、ときおり激しい動きを繰り返しつつ演じられるもので、演者はかなりの体力を要するのでは、と思われました。実際、舞い終わって神楽殿を後にするとき、ちょっと足元がふらついていたような•••。お疲れ様でございました。
神楽見物と参拝を終えて、露店めぐり。



食べ物はもちろん、金魚すくいや射的の屋台もあって、たくさんの子どもたちが集まっておりました。それらを見て歩くのはまことに楽しいものでありました。農産物や漬物、飴などの地元特産品を商うお店もありました。





だいぶ前のことですが、わたくしはこの生目神社大祭で、売り口上とともに膏薬のようなモノを売っていたおじさんを見かけた記憶があります。だいぶ前といっても、オトナになってからのことなので、そんなに昔のことでもありません。初めて見る口上売りの姿に、なんだか嬉しい気持ちになったものでありました。•••結局なにも買わなかったのですが。
それ以来、大祭に出かけるたびに口上売りが来ていないかどうか探したりするのですが、ついぞ見かけることがありません。あのおじさん、あれからどうしてるんだろうなあ。一つなにか買っとけば良かったなあ。

おみやげを買って帰ることにしました。焼きイカ、たこ焼き、焼きそば、ジャンボ串焼き•••どれも旨そうなので大いに迷いました。リンゴ飴も露店ならではという感じでいいなあ。





結局、1本100円で売られていた串焼きを6本買って帰りました。で、それらは•••



焼酎お湯割りのお供として活躍してくれましたとさ。

生目神社大祭はあさって25日まで開催されます。神楽は明日も2回舞われるとのこと。お近くの方はどうぞお運びを。

【読了本】『芸人の肖像』(小沢昭一著、ちくま新書) ~芸人たちとの通い合う精神が息づく遺著

2013-02-20 22:47:00 | 本のお噂


『芸人の肖像』小沢昭一著、ちくま新書、2013年

昨年12月に亡くなられた俳優、小沢昭一さん。
映画、舞台、ラジオなどでの活躍のかたわら、芸能の根っこを見つめるべく全国を行脚し続けました。そのフィールドワークは著作やレコードとしてまとめられ、高い評価を受けました。
本書は、その芸能探索の過程で撮影された貴重な写真の数々と、芸能にまつわる随筆を再録して編まれた一冊です。
小沢さんの生前に企画され、編集が進められていたという本書。完成した本を目にすることなく、小沢さんは天国へと旅立っていかれました。小沢さん、旅立つのがちょっと早過ぎましたよ。

門付芸であった万歳をはじめ、神楽、物売り、ちんどん屋、説教、浪花節、講釈、落語、幇間、サーカス、見世物、猿回し、そしてストリップ•••。
かつては人びとの暮らしに近いところにあったさまざまな芸と、それを糧にしながら生きていた芸人たちの表と裏の姿が、深い味わいとともに目の前に立ち現れてきます。
芸能者として思い惑う中で続けられてきた、芸能の根っこを訪ねる旅。芸を糧にするしか生きる道のない芸人たちとの精神の通い合いが、写真の1枚1枚に息づいているように思えました。

本書に再録された随筆のひとつに、こんな一節があります。

「私は、芸のおもしろさは結局のところ演者の人柄のおもしろさと決めこんでおります。つまり、芸以前の、人間としての幅とか奥ゆきとか、あるいはその人の道楽の深さとか••••••ひっくるめていえば、その人間の魅力に酔うことが、私の芸に接する楽しみなんです。」 (「浪花節で深い眠り」より)

そう。本書に収められた写真に写し出された芸人たちの肖像は、実に魅力的でいい感じなのです。ああ小沢さんは芸以上にこの人たちそのものに惚れ込んだんだなあ、ということがしみじみと伝わってきます。
例えば、馬場光陽という講釈師の方を撮った写真。一回り小柄な体躯ながら、なんだか独特の佇まいと表情を見せていて、実のところその芸を知らないわたくしにも、なぜだか惹きつけられるものがありました。駅のホームを歩く後ろ姿が、またイイのであります。
また、1970年に徳島市で撮られたという、夜の盛り場を歩く三味線流しも粋な雰囲気。70年にも、そういう光景が地方の盛り場にあったんだなあ。1973年に撮られたという、宮崎での大相撲の地方巡業の写真も数点ありました。
そしてストリップ嬢たち。小沢さんは舞台の上の尊いお姿はもちろん、楽屋におけるざっくばらんな素顔をもイキイキと捉えています。ある種の信頼関係があってこそ、のことでありましょう。やっぱり小沢さん、ストリップ嬢たちに対する惚れ抜きようは並大抵ではなかったんだなあ、と(笑)。

やはり本書再録の随筆の中に、周防猿まわしを復活させた村崎義正さんのことばが引いてあります。

「とにかく、いい飯が食えるということが、高度な技術と文化性を後世に残すことに直結するのである」 (「よみがえったホンモノの芸能」より)

どんなに卓抜な芸であろうと、それで生計を立てられなくなった時には衰退していくしかないのでしょう。本書に出ている芸のいくつかも、そうやって暮らしに近いところから消えていきました。
しかし、その輝きと精神性は、小沢昭一という芸能者の存在とともに、本書の中で息づき続けることでありましょう。


【関連オススメ本】



『私のための芸能野史』小沢昭一著、新潮文庫、1983年(現在はちくま文庫に収録)

芸能者として思い惑う中で行われた、「雑芸者」を訪ねてのフィールドワークを丹念に記録。こちらも実に貴重な仕事であります。

明日へ -支えあおう- 『証言記録 東日本大震災』第14回「宮城県南三陸町 ~高台の学校を襲った津波~」

2013-02-17 14:13:57 | ドキュメンタリーのお噂
海に面した風光明媚な町、宮城県南三陸町。
東日本大震災のときには、志津川湾の奥まったところにある地形により増幅した、20メートルを超える巨大津波が押し寄せたことで甚大な被害を受け、800人以上の命が奪われました。
番組は、町の南西部にある戸倉地区で、避難所となっていた戸倉中学校にまで押し寄せてきた津波に翻弄されながらも、津波に飲まれた人を救おうと必死に行動した、戸倉中学校の教師や生徒たちの証言を中心に綴っていきます。

20メートルの高台に位置し、町の指定避難所となっていた戸倉中学校。震災当日は、卒業式の前日でした。
教務主任を務めていた男性教諭。強い揺れが収まったあと、教諭は生徒たちをグラウンドに集めます。やがて、地域の住民も学校に集まってきました。
しかし、眼下の建物を飲み込んでいった大津波は2つの方向から合わさり、さらに高さを増して学校にまで迫ってきていました。「登校坂を津波が這ってきたのを見て、これは危ないなと」思った男性教諭らは、生徒や住民200人近くを裏山や体育館裏へと避難させます。
そんな中、男性教諭は杖をついたおばあさんと、付き添っていたおじいさんの姿を目にします。同僚の教諭とともに老夫婦を連れ、校庭にあった指揮台に上げようとしたとき、4人は津波に飲まれてしまいました。校庭の津波は高さ5メートルに達していました。
津波に翻弄されながらも、「自分の意識は冷静だった。ああ、人間はこうやって死んでいくんだなあ、と思っていた」という男性教諭。肋骨2本を折りながら辛くも助かりましたが、同僚教諭と老夫婦は帰らぬ人となりました。男性教諭は、「同じところにいて、自分だけ助かった」ことに、負い目を感じるようになっていきました。

一方、当時中学2年生だった4人の少年たち。必死に崖を駆け登ったあと、津波に飲まれた人たちをジャージを結び合わせて救助していきました。「水に落ちる危険があったけど、自分たちがやらなきゃいけない」との思いだった、と。
少年たちの取材中、近くの仮設住宅から出てきた女性は、4人がそうやって自分を助け出してくれたことを確認すると、何度も「ありがとう」とお礼を言いました。さらに、電信柱にしがみついていた子どもをおぶった女性を救助していたことにも、丁重にお礼を言ったのでした。

4人は、津波に飲まれて心肺停止状態になり「膨らんでたぷたぷになっていた」お年寄りを蘇生させようとします。職場体験で人工呼吸法を学んだ少年が必死に蘇生措置を試みたものの、その努力は実りませんでした。その少年が振り返ります。
「助けられなかった諦めというか悔しさがあった。目の前で人が亡くなるのが初めてで、頭は空っぽの状態だった」

翌日。水が引いた町の中から、1人の消防士の男性が見つかりました。南三陸町の中心部の志津川地区で、避難誘導の最中に津波に飲まれ、流されてきたのです。
最初はその男性を、やはり消防士だった夫だと思ったという中学校職員の女性。結果的にはそうではなかったものの、「なんとか助けなきゃ」と、生徒とともに蘇生させようと尽力します。女性は顔をぴたぴた叩きながら「こんなところで死んでられないよ」と言い続けた、と振り返ります。
崖の上で救助活動にあたった少年たちを含む生徒たちが体を温め続けた結果、6時間後に消防士の男性は意識を回復し、一命をとりとめました。少年の1人は、「その日、やっと人のためになったという感覚だった」と。

少年たちの中に、離ればなれになっていた小学校6年の妹を案じていた男の子がいました。妹が通っていた戸倉小学校は、最上階の3階まで津波に洗われていました。
その戸倉小の子どもたちは、教諭たちに引率されて高台の神社に避難していました。ここでも眼下では、「2階立てのアパートが流れていくのが見え」るような状況で、女性教諭は恐ろしい光景を子どもたちに見せないよう必死だったといいます。
やはり避難してきた住民とともに、神社で夜を過ごした子どもたちは、寒さと暗さの中で怯えていました。教諭らは、そんな子どもたちにつとめて明るく接しました。
「いつもと同じようにしていることが、子どもたちにとっては安心かな、と」思っていた、と女性教諭。子どもたちも笑顔を見せていたといいます。教諭ら大人たちが、「子どもたちを優先するような」中で、子どもたちは守られたのでした。

南三陸町の職員から、戸倉の人たちが置かれた状況を伝えられた隣の登米市からは救援隊が組織され、戸倉の人たちは救助されました。妹と離ればなれになっていた男の子は、神社で守られた妹との再会を果たすことができました。男の子は言います。
「半分くらい諦めていたようなところがあったので、会えたときは嬉しかったし、こらえてもこらえきれないくらい涙が出た」

肋骨2本を折り、病院で治療を受けたのち学校に復帰した男性教諭。しかし、同僚教諭や老夫婦を亡くして生き延びたことに負い目が募り、「社会生活から遠ざかりたいという気持ちや、無力感や無気力感があった」と。しかし、生徒たちと過ごす中で徐々に変わっていったといいます。
「子どもたちがあるべき所にいて、あるべきことを普通にやっていることだけで助けられた」

昨年3月に行われた戸倉中学校の卒業式。登米市で学んでいた生徒たちが、この日久しぶりに慣れ親しんだ学び舎に集まりました。生まれ育った場所での卒業式を、生徒や保護者が強く望んだからだといいます。卒業生の代表は、南三陸町の復興を担っていくことを答辞の中で誓うのでした。
あの日、崖の上から救助活動にあたった少年の1人は、こう語りました。
「普通の、自分たちが知っている戸倉を元に戻したいです」

南三陸町を襲った巨大津波の恐ろしさをあらためて思い知るとともに、その中で命を救おうと必死に力を尽くしていた戸倉の人びとの勇気と気高さが、胸を強く打ちました。
戸倉の子どもたちが大人になる頃、復興が進んで町が甦っていることを願ってやみません。そして、いつの日か南三陸町を訪ねることができたら、とも思っています。