熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

アメリカの七夜を再訪する

2006年03月15日 | Wolfe
へぇ~、これがSFマガジンに載ってから、もう1年以上経つのか。
なんだかずいぶんと長いこと取り憑かれているものだと思う。
忘れたころにこの作品のことを思い出し、そのたびに読み返すということを
今までずるずると続けてきたものだ。
まるでアーディスに取り憑かれたナダンのようなありさまである。

このたび単行本となったことで、SFマガジンの2段組で細かい活字から
ずいぶんと読みやすくなった事は、非常にうれしい変化だった。
どうせウルフを読むなら、できるだけ快適に読める形が望ましい。
そのほうが読者もリラックスして読むことができるし、新しい発見に
思い至るだけの余裕も生まれるかもしれないからである。

さて前述の効果かどうかはともかく、今回読み直した際にもいろいろと
おもしろいことに気が付いた。
一番の注目は「ナダンがなぜアメリカに来たのか」という動機について。
ナダンがアメリカに来たのに「目的」があるならば、当然その「動機」もあったはずだ。
私の読んだところでは、この両者は共に日記に書かれていたと思われる。
そして例の一件の後、この部分は日記帳から削除されたと書かれている。
この記述を一応信じるとして、抜かれたところはどこだろう。

まず第一に考えられるのは国書版の233ページ、「疑問の余地は無い」の
部分の前であるが、このパラグラフの長さが中途半端であること、前後に
記述のぶれが見られることを考慮すると、実は244ページの冒頭部分
「ようやく不安が消えた!」の前でも、削除が行われた可能性がある。
ならばいっそのこと、この両方とも削除されていると考えてはどうだろう?
そもそも削除個所がひとつであるとは、どこにも書かれていないのだ。
連続した文章ならば、中途だけを残すよりもそのパラグラフを全部抜くだろうと
考えるものだが、これはもともと日記帳だったということを思い出して欲しい。
ページごと切り取ったのであれば、中途だけ残っていても不思議ではないわけだ。
このパラグラフの前段で、ナダンはアメリカにくることとなった「動機」を書き、
それをヤースミーンに見せられないと考える。
そして不安に駆られた彼は、それに続けてアメリカに来た「目的」、すなわち
本人しか知りえない事実を書くことによって、自分の判断力についての自信を
取り戻したのではないだろうか。
可能性のひとつでしかないものの、この考え方はそれほど悪いものでもないと思う。

さて、肝心の「動機」についてだが、自分の読みに確信があるわけではないし
人によっては興醒めになる可能性もあるので、今のところは明記しない。
一応、「重要なヒントは日記以外の部分にもある」ということだけは書いておく。
鍵を握っているのはもちろん、ナダンが日記を見せたくない相手である。
この読み方をすると、アメリカがまぎれもなくナダン自身の象徴だったことが
はっきりとわかると思う。

ここからはさらに遊びの要素を大きくした読み方をしてみよう。
アーディスはおそらく食人族の仲間だと推測できる。
これは男を持て遊ぶ女の俗称が「maneater」であること、彼女を象徴する
アイテムのアラック酒が、蜘蛛族を意味するarachと同じ発音だからである。
アーリントンでの光景を考慮すると、ワシントンでも墓荒らしは常態らしいし
それが盗掘だけでなく人肉屍食を目的としている可能性も除外できない。
ナダンが代役を務めたテリーも、実はアーディスが喰ってしまったのならば
彼女がその失踪を知っていた理由も納得できるというものだ。

この考えをさらに進めて、アーディス自身を屍食鬼、つまり生ける死者だと
考えることもできるだろう。
彼女が正しくアメリカの象徴であるならば、その身体には蛆が湧いているはず。
そして彼女がナダンとパーティーに出た時の服装はエジプトの女王。
エジプトといえばやはりミイラを連想せずにはいられない。
ちなみに仮面舞踏会での扮装は劇団の次の演目である「ファウスト」のもの。
ナダンの扮装はファウスト博士、アーディスはヘレンの仮装をしているのだ。
ここからアーディスが既に死んでいるという寓意を読み取ることもできるだろう。

そして一番の問題である、ドラッグ入りの「卵」。
これはもう、どこで食べたかを確認することは不可能である。
言い換えれば、どこで食べたことにするかは読者の判断次第ということだ。
読者は自分の好みの場面でドラッグ入りの卵を食べて良いし、あるいは
全然食べなくても良いのである。
ここで注意したいのが、卵の役割について。
当初は幻覚を見るための目的だった卵の存在が、日記帳の最後に至っては
それまで見たものの現実性を確認するための道具に置き換わっているのだ。
この変遷を踏まえた上で、私は最後の卵にドラッグを入れたいと思う。
そうすれば、それまで見てきたものが全て現実だということになるからだ。
私にとっては、そのほうが面白い。

この『アメリカの七夜』、考えようによっては、読者の工夫次第で
好みに合わせた読み方がいくらでも可能な作品だと思う。
あえてガチガチに固めようと挑戦するのも良いし、その迷宮的な語りの曖昧さを
存分に堪能しても良い。
そのどちらにも対応できるだけの底の深さとサービス精神を、この作品は
十分に備えていると思う。
そして読者は本を読み返すことで、この魔性の国を何度でも訪れることができる。
まったく、なんという贅沢な体験なのだろう!

そして私自身も、まだまだこの物語の魔力から逃れられそうに無い。

コメントを投稿