ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

『ボストン便り』ご愛読ありがとうございました。

2013-02-09 11:38:11 | その他
*2009年4月から2010年12月まで、毎月MRICに連載していただいた「ボストン便り」をご愛読ありがとうございました。ボストンから日本に活動の拠点を本格的に移すにあたり、2013年から「フィールドからの手紙」をスタートさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。

ブログ『フィールドからの手紙』のURL
http://blog.goo.ne.jp/miwhosoda

*「ボストン便り」は『パブリックヘルス 市民が変える医療社会―アメリカ医療改革の現場から』(明石書店)として出版されました。こちらもぜひお読み頂ければと思いますので、よろしくお願いいたします。


三つの投票・三つの結果―アメリカ社会の行方をみつめて

2012-11-28 07:35:22 | ヘルスケア改革
アメリカ大統領選

まず一つ目はアメリカ大統領選挙です。アメリカ中が大騒ぎをした選挙でしたが、2012年11月6日に一般投票が行われ、民主党のバラク・オバマ大統領が、共和党のミット・ロムニー候補を破りました。
大統領選挙は合計で538人の選挙人を争い、過半数の270人を獲得した候補が当選するという仕組みになっています。オバマ大統領は、7日の午前0時に、当選が確実になりました。最終的には、オバマ氏が332人、ロムニー氏が206人の選挙人を獲得するという結果となりました。直前の調査では接戦が予想されていただけに、オバマ陣営の喜びはひとしおだったでしょう。
この選挙では、前回に引き続いてヘルスケア改革が大きな争点になりました。民主党は国民皆保険を義務付け、既往歴があっても保険に加入できるようにするヘルスケア改革法(Patient Protection and Affordable Care Act)を支持し、推進していこうとしています。一方で共和党は、ヘルスケア改革法に反対しています。共和党側はこのヘルスケア改革法を揶揄の気持ちを込めて「オバマケア」と呼び、撤廃を強く求めています。
しかし、実は共和党の大統領候補者のロムニー氏は、以前、マサチューセッツ州知事であった時、マサチューセッツのヘルスケア改革法(Massachusetts Health Care Reform Act)を成立させた張本人なのです。

争点としてのヘルスケア改革

マサチューセッツ州のヘルスケア改革法は、いまから6年前の2006年4月12日にロムニー氏が署名し、翌年2007年7月1日から施行されました。この法律は州民全員に保険を持つことを義務付けています。しかも、税の申告の時に保険に入っているかどうかを調べ、入っていない人は罰金を払わなくてはならないという厳しい制度になっています。
保険料を払うことが困難な低所得者へは、州が財政的に支援します。その結果、改革法以前の2005年に55万人いたマサチューセッツの無保険者は、施行後の2008年には約11万人へと急速に減りました。このマサチューセッツの改革法は、カイザーファミリー財団とハーバード公衆衛生大学院が2008年に実施した調査によると、7割近くの州民による支持を得ています。
 自らが州知事だった時に成立させ、その後も高い支持を得たマサチューセッツ州のヘルスケア改革法でしたが、ロムニー氏は連邦の大統領として立候補するに当たり、オバマ氏のヘルスケア改革法を真っ向から否定しました。この点については、もちろん一般市民やジャーナリストたちが厳しく追及しましたが、ロムニー氏は州と連邦は違うと繰り返すだけで、納得のいく答えは出しませんでした。この様なロムニー氏の態度に対し、多くのマサチューセッツの人々は疑問を感じていました。
これでオバマ政権は2期目に入りますが、この4年間に解決されることが期待される課題は沢山あります。いまだに反対する声の大きい医療保険制度、コストが膨らんでいる社会福祉プログラムの改革などは、真っ先に取り組む問題になるでしょう。その背景には、年間1兆ドルに上る巨額の財政赤字、16兆ドルに達する債務という問題があります。他にも米議会における民主党と共和党の対立解消、中国の台頭やイランの核問題などを背景に難しさを増す外交問題など、たくさん課題はありそうですが、アメリカがどのような方向性を目指すのか注目されます。

連邦議会選

 ふたつ目は連邦議会選です。11月6日の大統領選と同時に連邦議会選も行われました。マサチューセッツ州では、民主党から出馬した、ハーバード大学の法律学教授であるエリザベス・ウォレン氏が上院の議席を獲得しました。この議席は、民主党の大物議員テッド・ケネディ氏の死亡による補欠選で共和党の新人スコット・ブラウン氏に奪われた因縁の議席でしたが、ウォレン氏の当選は、マサチューセッツ州ではじめての女性上院議員としても大きな意味がありました。   
ウォレン氏は銀行破産法が専門ですが、それは、クレジット破産や不動産破産など、アメリカの中間層が搾取される形で破産せざるを得ない状況を何とかしようという志で行われています。2008年のリーマン・ショックの時、ウォレン氏は資産問題救援プログラムの成立を監督し、アメリカ消費者金融保護局の設立にもアドボケーターとして尽力しました。ウォレン氏は、アメリカの中間層家族のために闘ってきた活動家でもあるのです。
それは彼女の経歴からも読み取れます。ウォレン氏の父親は、彼女が9歳の時に心筋梗塞になりました。勤め先からは仕事の内容を変えられ、減給されました。医療費もかさみ、一家は車を手放し、母も働きに出るようになりました。彼女は9歳からベビーシッターとして働き始め、13歳からはレストランでウェイトレスをしました。
ウォレン氏には3人の男兄弟がいますが、すべて軍隊に入っています。低所得者が教育を受けたり、経済的に独立をしたりしてゆくために、奨学金が出たり給与が保証されたりしている軍隊は手ごろな場所なのです。
ウォレン氏は大学を出た後、学校の教師として働きました。結婚して子どもをもうけた後に法律を学び、一時期は法律家として働いた後、大学の法律教師になったというわけです。ハーバードの教授といっても、アカデミアの世界だけにいた人ではなく、子どもの頃から現実社会の荒波にもまれ、潜り抜けていたという人物です。
こうしてマサチューセッツ州はまた民主党の上院議員を擁するようになりました。連邦全体を見回すと、議会選の結果、上院は民主党が過半数を維持、下院は共和党が過半数を維持しました。これで議会はいわゆる「ねじれ」状態が引き継がれました。

医師による自殺幇助法(Physician Assisted Suicide Act)の住民投票

そして3つ目として、マサチューセッツ州では前二者と同じくらい注目を集める投票が行われました。それは医師による自殺幇助(PAS)法、またの名を尊厳死法の可否についてでした。これは、末期がんの当事者や亡くなった方のご家族などを中心に、125,000人の署名が集められ、住民投票にかけられることになったのです。内容は、余命6か月以内と診断された時に、主治医とカウンセリング医師の承認がある場合に限って、本人が希望すれば医師が致死量の薬物を処方できるというものでした。
この医師による自殺幇助法を巡っては、賛否の議論が交わされました。最後まで自分の人生をコントロールする権利を主張する陣営、自殺そのものを許さない陣営など、政治的、宗教的、思想的、職業的にさまざまな団体、患者団体、障害者団体、医療専門職団体が、それぞれの主張を繰り広げてきました。
このような状況の中で、マサチューセッツ州医師会は、自殺幇助(PAS)法に反対のスタンスを取ることが表明されました。反対の理由は、以下のようなものでした。1)PASは癒すものとしての医師の役割に根本的にそぐわない、2)余命6カ月という確実な診断はできないし、そうした予測は不正確である、3)数か月で死ぬと診断された患者がそれ以上、時には何年も生きるケースも少なくない、4)不十分な説明で患者が意思決定してしまうことへの予防策も、患者が死ぬよう教唆を受けて意思決定することへの予防策も、盛り込まれていない。
投票後すぐに開票が行われて日付が変わってすぐの11月7日の午前2時、93%開票段階で、反対51%に対して賛成49%となりました。最終的には開票数275万で、合法化成立に38,484票の不足で、マサチューセッツ州での医師による自殺幇助法は否決されました。
ちなみに、アメリカの中で医師による自殺幇助法が認められているのは、オレゴン州とワシントン州のふたつの州だけです。オレゴン州では2011年に114人、ワシントン州では70人が、合法的に死を迎えています。この法律を利用した人の特徴としては、ほとんどが白人で、高学歴で、末期のがんを患っていました。


自分たちで決めた責任

オバマ大統領は、勝利が決まった直後、支持者にメイルでこう呼びかけました。
「あなた方に知って頂きたいことは、この勝利は運命などではない事、偶然の出来事でもない事です。あなた方がこの勝利を導いたのです。I want you to know that this wasn't fate, and it wasn't an accident. You made this happen.」
 これは、人々に対して、選んだからには共同責任があるので協力すべきだと言っている事と等しいと思います。ウォレン氏を上院議員に選び、医師による自殺幇助法を否決したマサチューセッツ州民にも、同じ言葉がかけられるでしょう。ある道を自分で選んだら、その選択に責任を持つのです。
 これは、市民が政治と遠いところにいるのではなく、政治に参画しているという意識を持てる仕掛けであり、アレクシ・ド・トクヴィルが19世紀のアメリカ社会を見聞して著した『アメリカの民主主義』で描かれた伝統的国民性でもあります。
 日本では12月16日に都知事選や衆院選を迎えます。候補者を知る準備期間があまりにも短いので、どのくらい把握できるか疑問ではありますが、責任のある投票をしたいものです。

*この度、日本に活動の拠点を移すに当たり、『ボストン便り』は最終回とします。ご愛読ありがとうございました。次回からは、『医療社会学のフィールドからの手紙』と題して、医療という異文化世界を外側から覗いていて、気づいたことや驚いたことなどを綴っていきたいと思います。引き続きよろしくお願いします。

*「ボストン便り」が本になりました。タイトルは『パブリックヘルス 市民が変える医療社会―アメリカ医療改革の現場から』(明石書店)。再構成し、大幅に加筆修正しましたので、ぜひお読み頂ければと思います。


【参考資料】
・マサチューセッツ医師会の見解、ゴーローカル/ウォーセスター・ヘルス・チーム、Monday, September 17, 2012 http://www.golocalworcester.com/health/new-mass-medical-society-takes-stance-on-physician-assisted-suicide-and-med/
・Assisted suicide measure appears headed for defeat
Boston Globe, November 7, 2012
http://www.boston.com/metrodesk/2012/11/07/assisted-suicide-measure-too-close-call/8Nzb3GxeZZ9KgKY9kJzvFJ/story.html

リメンバー・フクシマ(福島を忘れない)―星槎大学教員免許更新講習in南相馬より

2012-10-27 01:50:51 | その他
*「ボストン便り」が本になりました。タイトルは『パブリックヘルス 市民が変える医療社会―アメリカ医療改革の現場から』(明石書店)。再構成し、大幅に加筆修正しましたので、ぜひお読み頂ければと思います。

教員免許更新講習

 2009年から教員免許は更新が義務付けられ、幼稚園、小学校、中学校、高校の先生方は、10年に一度、講習と試験を受けるようになりました。星槎大学では、今年度は1万3千人以上の更新講習の受講者を受け入れています。
その更新講習のひとつとして、10月6日(土)、7日(日)、8日(月)に、南相馬市において「震災を超えた未来のために~教育現場におけるリスクマネジメント~」というテーマで講習が行われました。私も企画・運営に携わりましたので、その記録を記したいと思います。その前に、まず、どうして私がこの事業に関わるようになったか、概略を紹介したいと思います。
東日本大震災が起きた時、私はボストンにいました。遠く離れているため余計に何もできないという無力感が募り、いてもたってもいられず2か月後の5月に相双地区を訪れました。その時にお世話になったのが、震災後いち早く相双地区に入り、支援活動をおこなってきた星槎グループだったのです。旧知であった東大医科研の上昌広氏に何かできることはないかと相談し、星槎グループを紹介して頂いたのでした。ちなみに現在、その時のご縁で星槎大学の教員をしております。
私は実質的な援助の技術は何も持っていませんが、話を聴くこと、それを文章にすることで拙いながらお役にたてると思うので、そうした活動を行ってきました。その過程で様々な方々と出会いました。原発事故の警戒区域となって避難生活を送っていらっしゃる方、津波で家を流されて仮設住宅に住んでいらっしゃる方、学校や塾の先生、医療専門職の方、ボランティア活動をなさっている方など、この地域のために何らかの活動をしていらっしゃる様々な方々から非常に貴重な話を聴いてきました。
こうした話は、これまでにも折に触れて文章化してきましたが、今回、星槎大学で教員免許更新講習を行うにあたって、子どもたちを守る最前線にいらっしゃる学校の先生方に是非聞いていただきたいと思いました。


マニュアルから理念へ

 教育安全上、災害時には学校全体で子どもたちの生命を守り心身の安全を図ること、災害後はこころのケアや具体的支援が迅速にできる事が求められています。ただし、それは、マニュアルを作ってその通りに行動すればいいというものではありません。
学校の先生方には、更新講習という機会を利用して、東日本大震災の現場に身を置き、子ども達の声を聴き、当事者の立場で考え、行動し、伝えている方々の声をくみ取っていただき、ご自身の身にしてほしいと思いました。そのことこそが、将来、遭遇するかもしれない危機的状況の中で、教師・市民としてとるべき態度・知識・考え方を身に付ける手がかりになると思われたからです。それは、いわゆる理念とか思想といったものに近いと思います。
震災や何か危機が起こった時、マニュアルを見ている時間はありません。とっさの判断が重要になります。その判断をする時に、よりどころになるのが理念です。私が相双地区で出会った方々はみな、確かな理念を持っていました。ぜひそれを、全国の先生方に伝えたい。そう思って、更新講習のプログラムを組みました。


聴く・考える・伝える

プログラムでは、6つのセッションを立てました。現場に身を置き行動している方々として、311以後、私が相双地区で出会った方々をゲスト・スピーカーにお迎えし、聴く・考える・伝えるというテーマで下記のように組みました。

セッション1.子どもの声を聴く 
子ども(高校生)の声を聴く(二本松義公:福島県立相馬高校校長)
子ども(塾生)の声を聴く(番場さち子:塾経営)
セッション2.こころと体の声を聴く
こころの声を聴く―子どものケア(吉田克彦:相馬フォロアーチーム)
からだの声を聴く(坪倉正治:東大医科学研究所。WBCを導入)
セッション3.考える力を鍛える
外国人から見た震災と援助(アミア・ミラー:Vigor Japan)
地球市民として考える(色平哲郎:佐久総合病院)
セッション4.市民としての考える力
市民の立場から考える(但野直治:相馬市役所、サイエンス・カフェ主催)
市民の立場から考える(小幡広宣:相馬遊楽応援団)
哲学からの問いと応答(山脇直司:東京大学大学院。公共哲学)
セッション5.伝えるもの
心を伝える(佐藤健作:和太鼓奏者。被災地公演「不二プロジェクト」。)
演劇で伝える(塩屋俊:監督。相馬中央病院の震災後の様子を描いた『HIKOBAE』)
セッション6.未来に伝える
次世代に伝える(阿部光裕:住職。福島復興プロジェクトチーム「花に願いを」)
改革は市民の目線で(上昌広:東大医科学研究所。多角的に被災地支援)
 
以上のゲスト・スピーカーを迎え、まず、それぞれの思いや活動を語っていただきました。その後、受講生の方々(=学校の先生方)にグループ・ディスカッションをして頂き、細田がファシリテイターを務め、上記の講師と受講者とのパネル・ディスカッションを行いました。
講習は、帯広・札幌・仙台・大宮・横浜・浜松・大阪にある7ヶ所の星槎校舎と、南相馬市の会場とをテレビ会議システムで結んで行われました。ほとんどのゲストの方々には南相馬市に集まって頂きましたが、何人かには最も受講者数の多い横浜の会場にお越し頂きました。南相馬のゲストの何人かは、今でも仮設住宅に住んでいらっしゃいます。また、南相馬の受講者にも、自宅が警戒区域内の為、仮住まいの方が何人かいらっしゃいました。


何も変わっていない

福島県立相馬高校の二本松校長には、「セッション1」を担当して頂き、「東日本大震災に遡って」というテーマでお話を頂きましたが、第一声は「何も変わっていない」でした。二本松校長は、ご自宅が原発から15キロ圏の南相馬市の小高区という避難区域にあるため、現在も避難を強いられています。現在、小高区は、住むことはできなくても、入ることはできるようになっているので、よけいにひどい状況になったそうです。誰でも入れるということは、泥棒も入れるということです。二本松氏のご自宅も、めぼしいものは盗まれ、めちゃくちゃにされていたそうです。
「非日常が日常に変わっている」、とも二本松氏はおっしゃっていました。自宅を追われた避難生活がもう1年半にも及んでいます。本来は避難生活とは非日常のことなのに、何も変わらないままでいるので、これが普通になろうとしているというのです。「福島はもう忘れ去られているのだろうか」。二本松氏は憤りを隠さず、しかし静かに受講者たちに現状を訴えていらっしゃいました。
番場ゼミナールの番場氏には、やはり「セッション1」を担当して頂き、「必要とされる生き方・・・ご縁に感謝して」というテーマでお話して頂きました。そこでは、この地の方々の抱える原発事故の深い傷跡が語られました。南相馬では、津波で重い怪我を負いながらも生き延びた人たちがいました。しかし、原発事故のために救助が入ってこられませんでした。助かったはずの命がどれほど失われたことか。
小さいお子さんを持つ家族を中心に、遠くに自主避難されている方々も、様々な問題に直面し、放射能への心配からなかなか南相馬には帰ってこられないといいます。他県に避難された方のお子さんは、「前の学校のことは忘れなさい」とか「いつまでもクヨクヨしないで」などと転校先の学校でいわれ、誰も分かってくれないと登校拒否になったといいます。ご両親が公務員のために南相馬市を離れられず、子どもたちだけで他県に避難しているご家族もいるとのことでした。
南相馬に残ったお子さんや、避難先から戻ってきたお子さんにも、様々な心の傷があるとのことでした。「子どもたちは疲れている」、番場氏はそうおっしゃっていました。子どもだけでなく、親御さんたちの中にも、急にタバコを吸い始めたり、夫婦で別居するようになったり、急に泣き出したりする人が出てきているといいます。
1年半たって支援がどんどん縮小されている中で、何も変わらない現実を目の当たりにして、言いようのない大きな不安がとぐろを巻いている状況です。
 

リーダーの役割

 二本松氏の語る地震発生直後の学校の様子では、献身的に生徒の安否の確認にあたる先生方の活躍が何度も登場してきました。多くの先生が、自ら被災者でありながら、死に物狂いで生徒に連絡を取っていたのです。生徒の携帯電話にも助けられました。避難所をいくつもまわって、他の生徒たちの安否を先生に伝えてくれた生徒もいました。
そうした震災の現場の先生や生徒たちの献身的な姿があった反面、原発情報を受けて、規定に従って本庁に判断を仰ごうとした二本松氏に対する本庁の人々の態度は、ひどいものだったといいます。電話がなかなかつながらない中、やっとつながったと思ったら、たらい回しにされました。最終的につながって話ができたと思ったら、返事は「ファックスを送ったのでそれを見るように」というものでした。「はらわたが煮えくり返るようなことが何度もあった」、二本松氏はそうおっしゃっていました。
警察、職員、自衛隊、みんな働いている中、公立学校の教員という公務員は何もしなくてもいいのかと、二本松氏は自問したといいます。そして「とにかく校長の指示で動いてくれ。責任はとる」、二本松氏はこの様に言い、本庁の指示を待つことなく現場で指揮をとりました。リーダーにはこの覚悟がないと、現場は動けなかったといいます。
二本松氏は、将来、また何かあった時のために、常に食糧の備蓄をし、電話などのラインがつながらない場合の情報入手の仕方を工夫し、あらゆる訓練を見直すことが重要であると結びました。また、非常事態の際は、ルーティンワークを見直し、現場中心にリーダーが責任をとって判断を行うべき、と受講者に伝えていらっしゃいました。 


心のケアとは

 1年半たっても何も変わっていない状況の中で、心が折れてゆく人たちがたくさんいることも、この講習では何人ものゲストから語られました。番場氏は、「泣く場所」が必要だとおっしゃっていました。番場氏ご自身、生徒や生徒の母親などの話を聴く活動を折に触れてしてこられ、およそ9割の方が話しては涙を流していかれたそうです。親や夫や家族、学校の先生には言えないような話を、塾の先生である番場氏には話せるのです。
 番場氏も、津波の時は南相馬市にいらして、間一髪で津波から逃れたという経験をしています。その後、短い避難生活を経て自宅に戻り、4月18日と22日に地域の学校が再開されるまで、塾を無料で開放して子どもたちの居場所を作ってきました。これはこの時の子どもたちにとって、一番必要なもののひとつだったのでしょう。
 ゲストを交えてのパネル・ディスカションでは、南相馬会場のある受講者が、ご自身の学校に星槎グループのスクール・カウンセラーが来てくれて良かったというお話をしてくださいました。これは、まさに「セッション2」で、「解決思考の被災地支援」というテーマで講演してくださった吉田克彦氏が行っている活動であり、今の学校に必要とされている事なのだと改めて思いました。
 吉田氏は長くスクール・カウンセラーをしていらして、震災後は、子どもたちの心のケアを行う相馬フォロアーチームの一員として、神奈川県から相馬市に引っ越し、長期的な関わりを続けています。吉田氏は、「カウンセラーは黒子がいい。子どもと担任の先生や養護教員の先生との関係を良くして、子どもたちが自分で解決していけるような環境を作るのが自分の仕事」とおっしゃっていました。
 そして、相馬・南相馬では、学校が4月18日と22日と、比較的早期に始まったことが、子どもたちにとってとても良かったことを指摘し、学校再開に向けて頑張った先生方に賞賛の言葉を送りました。
 「震災があったから人生台無しになった」ではなくて、「震災があったけれど、人生に花マルを!」と後に思えるように。そのために最大限のことをしたい、と吉田氏は言いました。PTSD(Posttraumatic Stress Disorder)ではなくて、PTG(Posttraumatic Growth)へと、トラウマを成長につなぐ支援を目指しています。阪神淡路大震災の経験から、PTSDは3年後に一番強く現れるといいます。今は東日本大震災からから1年半後ですので、まだしばらくの注意が必要でしょう。


専門家の役割

 震災後、専門家が自身の役割を果たすことで地域に大きな貢献をしてきました。「セッション2」の後半では、「放射線による人体への影響について 内部被曝を中心に」というテーマで、東大医科研所属で南相馬市立総合病院非常勤医師の坪倉正治氏にお話を伺いました。坪倉氏は震災後に相馬市・南相馬市に支援に入り、原発事故を起こした福島第一原子力発電所から最も近くに位置する総合病院である南相馬市立総合病院で、一般診療や住民の健康管理をしていらっしゃいます。
 原発事故に関しては、原子力や医療の専門家と言われる多くの人が科学的言説で語ることをやめ、人々を混乱させないためや安心させるためという理由で政治的言説に走り、かえって大きな混乱を生じさせました。そのような中、坪倉医師は、医師として科学者として粛々と住民の健康診断を続け、内部被曝の記録を積み重ねてきました。
総合病院では3台のホールボディ・カウンター(WBC)を導入して、これまでに6000人の子どもや大人の内部被曝の値を測ってきました。その結果、セシウムの検出率が次第に下がっている事、それは、チェルノブイリ後のベラルーシとは比較にならないほど低い事が分かりました。坪倉氏は、1年以上にも及ぶ地道な住民の検査の結果、野山や地のものを食べないで、流通しているものを食べている限り、内部被曝のリスクはかなり低いことを証明したのです。逆に、地元の山で採れたキノコや、野生のイノシシを食べた方のセシウムは、極端に高い値を示しているといいます。
坪倉氏は「お父さんお母さんが頑張って、子ども達に安全な食べ物を与えていた」と親たちを称賛し、「日本の食品自給率が低いのが幸いした」とおっしゃっていました。継続して測られた具体的な数値を基にした講演は、とても説得力がありました。見えない放射能を単に怖がっているのでなく、被害を最小限にするために何をすべきかが分かり、受講者たちは納得して聞いていました。
 坪倉氏はまた、放射線被害を避けるために、家の中に閉じこもりがちになることが、深刻な健康被害に結び付くことも警告しました。震災後は、運動不足によって高血圧、高いコレステロール、糖尿病のリスクが飛躍的に高まったとのこと。これは、どの年齢層にも当てはまるといいます。子どもでさえ、300人の学校だったら200人が送り迎えという事態になり、すぐ疲れて走れない子どももいるとのことでした。「健康リスクに関してバランスをとる必要がある」という言葉は、印象的でした。


傷ついた心を守り、育む

2日目のゲストであるアミア・ミラー氏は、「セッション3」で「被災地支援におけるカウンセリング―アメリカ的なアプローチ」と題した話をしてくださり、「カウンセリング」の大切さを示してくれました。アミア氏は、ボストンの友人で、経営コンサルタント会社を経営しています。日本で育った経験があり、日本語も達者です。震災後、何かしたいという気持ちにかられ、2011年6月から仕事は社員に任せ、日本に移り住んで長期の復興支援に取り組んでいらっしゃいます。
カウンセリングというと、日本では、精神的な病を持つ方々への特別な治療というイメージがありますが、アメリカでは、もっと広く「カウンセリング」が行われているといいます。結婚する時、家族や親しい人が亡くなった時、盗難や犯罪被害者になったような時、仕事や家庭生活上で問題があった時など、様々な人生の節目でカウンセリングを受ける機会があるといいます。問題に直面した時、我慢しないで、自分の中でため込まずに吐き出すことが大事なのです。これは、1日目の番場氏の講演にも通じることで、ただ話すだけで、誰かに聞いてもらうだけで、震災後の心が癒されることもあると改めて知らされました。
「セッション3」の色平哲郎氏は、「金持ちより心持ち―すきな人とすきなところでくらし続けたい」というテーマで講演されました。色平氏は、宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」を模した「雨ニモ当テズ」という詩を披露しました。この詩は、現代人が苦労を引き受けず、楽な道を進んでしまいがちなことをアイロニーとして歌ったものです。そして厳しい状況の中で、たくましい人を育むことの重要性を示して下さいました。
色平氏は、長年、地域医療に従事してこられ、常に地域のお年寄りの方々に接してこられました。山登りの時には一番遅い人に合わせることを紹介して頂き、一番弱い人に合わせて作り上げる社会を目指すことの大切さを教えて下さいました。


立ち上がる市民

 「セッション4」では、まず、相馬市職員でサイエンス・カフェを主催する但野直治氏が「市民科学者との出会い」、自営業で相馬を応援する相馬有楽応援団の小幡広宣氏が「震災から学んだこと、伝えたいこと」というテーマで講演をして下さいました。
 但野氏は相馬市役所で会計課の職員として勤務すると共に、消防団の団員でもありました。津波の時も消防団活動をしていて、同じ法被を着た仲間を何人も失い、その後の捜索活動にも携わりました。その時、生きることと死ぬことを考えさせられたといいます。また、前日のゲストの坪倉医師が、見ず知らずの土地で奮闘している姿にも触発され、「自分のできる範囲で何かをしないと」と思うようになりました。
 但野氏には、保育園から小学校までの3人のお子さんがいます。そこで、子どもたちを守るために何ができるかを考え、食の安全を守るための食品放射線測定器をつくることにしました。たくさんの賛同者や協力者が集まり、但野さんは測定器作りに没頭し、ついに完成に至りました。
その過程で但野氏は「市民科学者」として目覚め、一般市民も自分の健康や放射能のことをよく知り、上手に付き合うことが必要だと思うに至り、「サイエンス・カフェ」を主催するようになりました。「サイエンス・カフェ」とは、食事やお茶をとりながら、専門家から科学についての話を気軽に聞いたり、仲間と話し合ったりする場のことです。
「最初は、本当にできるかどうか分からなかったけど、本気でやることで、何とかなるってことが分かりました。また、やっていると、それが面白くもなるんです」。但野氏はこのようにおっしゃっていました。
 小幡氏は相馬市で建築業を営んでいましたが、地元の同級生と一緒に相馬有楽応援団を結成し、震災後に職を失った方への有償ボランティア紹介、ペット避難所、中高生の教育支援活動、放射線量測定、仮設住宅のゴーヤのカーテン事業など様々な活動をしてきました。
小幡さんの家は海から100メートルの距離に位置していて、甚大な津波の被害を受けました。周りの家がすべて流された中で、それでも小幡さんの家は骨格だけは流されず、ポツンと残っていたそうです。それを見て「俺がやらなくちゃ」という思いを新たにしたといいます。
今も仮設住宅での生活が続く小幡氏ですが、今年(2012年)の夏に熊本で水害が起きた時には、その援助にも駆けつけました。小幡氏は、「できることをできる範囲でやっていく」、「まずは行動を起こす」、「小さいリスクを怖がっていては行動できない」という心意気を語ってくださいました。これからも地域で、そして全国で活動を続けてゆかれることでしょう。


「活私開公」へ

こうした但野氏や小幡氏の活動を「活私開公」や「滅私開公」と表現したのは、東京大学で教鞭をとる公共哲学の第一人者、山脇直司氏でした。山脇氏には「セッション4」で「哲学からの問いと応答」というテーマでお話を頂きました。
山脇氏は、「個人と社会のかかわり方」として五つのパターンを挙げます。それは「滅私奉公(めっしほうこう)」(私という個人を犠牲にして、お国=公のために尽くすライフスタイル)、「滅公奉私(めっこうほうし)」(私という個人のために、公共の利益や福祉を無視するライフスタイル)、「活私開公(かっしかいこう)」(私という個人一人一人を活かしながら、人々の公共活動や公共の福祉を開花させるライフスタイル)、「滅私開公(めっしかいこう)」(私という個人の私利私欲をなくして、人々の公共活動や公共の福祉を開花させるライフスタイル)、「滅私滅公(めっしめっこう)」(無気力な生き方、ニヒリズム)です。
山脇氏は、「活私開公」を理想とする考え方をずっと唱えてきましたが、3.11以降は「滅私開公」も重要と考えるようになったといいます。氏の標榜する「公共哲学」は、「公共(みんな)の利益や福祉と個人一人ひとりの生き方との関わり方をどう考えたらよいのか?」という問いから出発します。それは、星槎の三つの理念――「人を排除しない」「人を認める」「仲間を作る」と共鳴するとおっしゃっていました。
現場の実践を基にした実践的な思想としての公共哲学は、私たちがこの社会を生きてゆく上で、考えるべきことへのヒントをたくさん与えてくれると思いました。


伝える力

「セッション5 伝えるもの」では、和太鼓奏者の佐藤健作氏、役者であり演劇プロデューサーであり映画監督の塩屋俊氏をゲストに迎え、芸術の領域で震災を伝えることを示していただきました。
佐藤氏は、「ちはやぶる―被災地と世界を響きでつなげる『不二プロジェクト』」と題した講演と、和太鼓の演奏をしてくださいました。佐藤氏は和太鼓を打つ時、打つことだけに集中して他のことは一切考えないといいます。ひたすら打つ軌道が正しいかだけに気持ちをかけ、それを「力を通す」とおっしゃっていました。だから、その響きを聴く者は、それまで眠っていた自らの中の力が呼びさまされるのです。
佐藤氏は震災の後、日本一大きい太鼓「不二」を被災地で演奏する「不二プロジェクト」を主催しています。それは祈りの公演として、人々の力を湧き立たせています。「復興で力を出せるのは本人のみ」と言い、顕在化していない根源的な力を呼び覚ます太鼓を信じ、佐藤氏は受講者の前で演奏を披露して下さいました。圧倒的な響きに会場の空気は変化し、涙を流す方もいらっしゃいました。
塩屋俊氏は、震災後の相馬を『HIKOBAE』という演劇にし、ニューヨーク、東京、相馬で上演してきました。「閉塞感あふれる時代の中で、エンタテイメントが果たすべき役割とは」というテーマでお話を頂きました。
ひこばえというのは、古木や切り株の根元から生えてくる若芽を指し、再生と新しい息吹を象徴しています。演劇の『HIKOBAE』は、震災後の相馬中央病院での医療者たちと津波で殉職した消防団団員の物語で、テーマは「利他的行為」でした。劇中、「利他的行為」の美しさ、これを尊重し大切にし、しっかり残すべきというメッセージが溢れていました。
塩屋氏はこれまでに、社会問題を扱ったドキュメンタリー映画を撮り続けてきました。飲酒運転によって息子を失った母親の飲酒運転撲滅運動の記録『ゼロからの風』、ハンセン病回復者の生き方を描いた『ふたたび』、そして2012年には日本の農業の今を描く『種まく旅人』を公開しています。これらの作品では、厳しい現実が鋭く描写されながらも、エンタテイメントの果たすべき役割が追求されています。
塩屋氏と相馬とのお付き合いは震災以前からで、現在は、浜通りの相馬野馬追の心意気や、農業や漁業に生きる人々を描いたドキュメンタリー映画を製作しています。相馬市長の立谷氏とも旧知の間柄で、「原発で負けないで頑張っている人に語りかける必要がある」と、浜通りの人々の郷土への思いを撮りためていらっしゃいます。


復興は教育から

 最後の「セッション6」では、「次世代に伝える」ということで、常円寺住職の阿部光裕氏から「生きる意味―震災・原発事故から学び取ること」、東京大学医科学研究所教授の上昌広氏から「現場からの医療改革―福島浜通りでの活動を通じて」というテーマでお話をいただきました。
阿部氏は曹洞宗の住職の家に生まれ、小学校5年生の時に出家しました。その時、「覚悟」が備わったといいます。「覚悟」とは、「私の心が安定することを知る」ということで、仏の道を進むことを自分のこととして受けとめたといいます。阿部氏は、福島の原発事故を原発「事件」だったといいます。そうでないと、責任の所在が明らかでなく、誰が「覚悟」を決めるか分からなくなっていると嘆きます。
阿部氏は、この震災という経験を生かすも殺すも自分次第だと「覚悟」して、目の前の現実を見据え、どう考えどう行動するかを決めました。そして今、子どもたちの為に通学路を中心に除染活動を行っています。これが福島復興プロジェクトチーム「花に願いを」です。この除染のプロジェクトには、週末になると全国からボランティアが集まってきます。
この活動では、放射線量を測定し、高い場所を優先的に除染します。最近では福島市内で140マイクロ・シーベルトという高い線量を示すホットスポットが見つかり、周辺の土は直ちに除去されました。その土はドラム缶に詰められ、阿部氏のお寺の裏山に置かれています。他に引き受けてくれるところが今のところないからです。阿部氏は、このドラム缶には、汚染された土ではなくボランティアの志が詰まっていると思っています。
上氏は震災直後に相双地区に入り、星槎グループや相馬市や南相馬市などの行政と協力して、地域医療の回復、住民の健康診断など様々な活動を行ってきました。上氏は、「復興は教育である」と話を始めました。地域が活性化するのは何よりも人づくり、教育であることを、データを示しながら説明して下さいました。
明治の開国の頃から、日本の権力者は教育機関を作ってきたといいます。有力者の多くいた西日本の各県では、東日本と比べて医学部・医学校数、リハビリ学校数が人口100万人に対して多くなっています。そして100万人当たりの医師数、旧帝大への進学者数、各学術的賞の受賞者なども西日本が圧倒的に多いといいます。このような現状に鑑み、復興に弾みをつけるためには、いまこそ教育に力を入れるべきと訴えていらっしゃいました。
また、上先生は「とにかく動くことが重要」とおっしゃっていました。近著の『復興は現場から動き出す』(東洋経済新報社)では、「一人でもいいので本気でやる人が大切です。そのような人が1人いるだけで、物事はなかば成就したようなものです。覚悟がない人が大勢集まっても、何も進まない」と書いておられます。
今回、ゲスト・スピーカーになっていただいた方がすべて、「覚悟」を決めた「本気でやる人」でした。だからこそ、被災地の方々に受け入れられて、これまでに素晴らしい活動をされてきたのです。危機の中で、当事者としての意識を持ち、できることを全力でする。これは、すべてのゲストに共通する理念と言ってもいいでしょう。


フクシマから世界へ

2011年3月11日の地震とそれに続く一連の災害は、私たちに計り知れない影響を及ぼしました。ただ、それは余りにも大きかったので、私たちは、真正面から目を向け、咀嚼して、自分の言葉で語ることが困難になっているところもあると思います。しかしこのこと、すなわち震災とその後の多く人々の行動や実践や思想やもろもろの関わりなどは、私たち大人が、次世代を担う子どもたちにしっかりと語り継いでいかなくてはならないと思います。
何人かのゲストの方々は、「福島は忘れられている」とおっしゃっていました。確かにそういう側面もあるかもしれません。しかし、忘れるどころか、ますます深く関わりあうようになった方々も、一方でたくさんいると思います。それは国内だけでなく、海外にも広がっています。私の良く知るボストンをはじめ、世界の人がフクシマを忘れていません。
ボストンでは、以前MRICでも紹介したように、南相馬のお婆さん達が作った折り紙が、多くの方々の感動を呼びました。また、ボストンでナンタケット・バスケットの教室を主催する八代江津子さんは「てわっさTewassa」(福島の方言で、手仕事という意味)という活動で、福島や石巻など被災地の方々へ思いを届けるメモリアル・キルトを作っていて、その活動は、ボストンの日本人だけでなくアメリカ人、高校生たちにまで広がっています。
これからのフクシマがどのようになってゆくのか、誰がフクシマのために貢献しているのか、誰が復興の障壁になっているのか、あるいは責任を取るべき人が何もしていないのか、世界は注目しています。フクシマに思いを致す事、それはとりもなおさず、日本の今を思うことであり、日本の向かう方向性を構想すること、世界における日本に思いを寄せることになるでしょう。


3日間の講習を終えて

今回のゲストのお話を通して、講習に参加した教員の方々には、災害の現場で子どもたちを守り、起こってしまった災害を乗り越えて生きていける力を子ども達に付けてもらうような、理念や心構えを届けることができたと思います。それは、以下のような講習後のアンケートの結果からも読み取れました。

「今まで原発事故で心が落ち込んでいましたが、今回の講習を受講することによって、私でも何か出来ることがあるのではないかと、前に進む心が出来ました。一人ではなかなか難しいけれど、仲間と共に、目の前にいる児童の為、少しずつ前進していきたいと思います。ありがとうございました!!」(南相馬市在住、50代の教員)

また、被災地以外の会場での受講者の方からはこのようなご感想も寄せて頂きました。

「今回の講習を通して、私自身を含めて多くの人間が、いかに自分以外の身に起こった危機に対して鈍感であるのか、また記憶が風化されやすいかを痛感しました。報道だけではなかなか分からない被災者の生の体験談や、映像に触れることはもちろんですが、実際現地に足を運ぶこと、何かしらの支援活動に自ら参画すること自体が、被災した方々のためだけでなく、被災地以外に住む私たちの危機管理能力や技術を向上させる原動力となり、また「当事者意識」を育むために、大変重要であると考えました」(横浜在住、40代の教員)

この講習を真に理解して下さったと、本当に嬉しく思いました。来年もまた、相双地区でこのような講習会を開催する予定です。その時までに、まだ「何も変わっていない」となるのか、「変化が見られるようになった」となるのか、これからもずっと関わり続け、見てゆきたいと思います。リメンバー・フクシマ(福島を忘れない)ということ。それはまた、福島と関わり続ける自分とは何か、福島を取り巻く日本とは何かを見つめる旅にもなるでしょう。

【謝辞】
 本講習を受講して下さった全国の学校の先生方、グループ・ディスカッション、パネル・ディスカッションに積極的に参加して下さいまして、ありがとうございました。皆様のご意見は、講習を進行する上でも、災害とその対応を考える上でも、大変貴重なものでした。また、この講習を企画・運営するうえで、星槎グループの宮澤保夫会長、井上一理事長、松本幸広氏、尾崎達也氏、星槎大学の山本健太氏、依田真知子氏に大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。


紹介:ボストンはアメリカ北東部マサチューセッツ州の州都で、建国の地としての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている独特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)
博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程の後、2005年からコロンビア大学公衆衛生校アソシエイトを経て、2008年からハーバード公衆衛生大学院フェローとなる。2011年10月から星槎大学教授、2012年7月から東京大学医科学研究所非常勤講師を兼任。『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)、『パブリックヘルス 市民が変える医療社会』(明石書店)、『チーム医療とは何か』(日本環境協会出版会)。現在の関心は医療ガバナンス、日米の患者会のアドボカシー活動。

神奈川県不活化ポリオワクチン政策の顛末

2012-10-15 15:30:00 | 健康と社会
不活化ポリオワクチン接種のスタート

2012年9月1日から、ポリオの予防接種は、それまでの生ポリオワクチンから、不活化ポリオワクチンに転換しました。今まで受けてきた、生/不活化ワクチンの数によって、今後受けなくてはならない不活化ワクチンの数は様々になります。さらに11月からは、不活化ポリオワクチンとDPT(ジフテリア、百日咳、破傷風混合ワクチン)を合わせた4種混合が導入されます。また、現在は任意接種のインフルエンザ菌b型(ヒブ)や肺炎球菌、B型肝炎、ロタウイルスなども定期接種にすべきという意見も強くあり、自費で接種を希望される保護者も少なくありません。

このようにしてワクチン接種のスケジュールはますます複雑になってきますが、確実に予防接種が遂行されるようにと、各地の自治体は保護者に対する説明や広報の活動を行っています。行政職員達の忙しさは容易に想像されますが、ただし、いままでも地方自治体は、生ポリオワクチンに対する危惧からの接種拒否や接種控えがおこり、接種率が低下するという問題に直面し、職員は対応に苦慮していました。

この背景は、いままでの「ボストン便り」で何度も触れたように、ポリオの会や一部の小児科医の働きかけによって、生ポリオワクチンにより100万人に3~4名程度(公式には1.4人)が実際にポリオに罹患してしまうこと、それを避けるためには不活化ワクチンを接種するという方法がとられることが、広く知られるようになってきたからです。

こうして、安全性の高い不活化ポリオワクチンを子どもに受けさせたいと思う親御さんが増えたのです。一部の医療機関で個人輸入として使用されていた不活化ポリオワクチンは有料で、医療機関によっても異なりますが1回4,000円から6,000円で、3回受けると12,000円から18,000円になります。生ワクチンなら公費で無料なのにもかかわらず、多くの親御さんたちが有料の不活化ワクチンを選んできました。

安全なワクチンを受けたいという当然の事を主張する保護者に対して、これまでほとんどの行政は、「生ワクチンを打ってください」とか、「もう少しで不活化になります」と苦し紛れで対応してきました。しかし、こうした事からやっと解放されると、忙しさの中で職員達はむしろ喜んでいるのではないかとも推察されます。

しかし、このような対応をせずに、不活化を希望する親御さんに対しては、それを提供できる体制を整えてきた自治体があります。神奈川県です。神奈川県では黒岩祐治知事の決断で、2011年末から、不活化ポリオワクチン体制を独自に整えてきました。これは国が不活化ポリオワクチンに切り替えたために2012年8月31日をもって終了しましたが、ここではその動きを振り返ってみたいと思います。


神奈川県知事の決断

神奈川県では従来、生ポリオワクチンの接種率は100%に近く、毎年約8万人が接種していました。ところが、2011年10月の時点で、1万7000人が無接種という事態に陥りました。黒岩氏はこの急激な接種率の低下を、生ポリオワクチンによってポリオに罹ることを恐れた親御さんたちの気持ちだと受けとめました。

さらに黒岩氏は、かつて厚生労働省の予防接種部会の構成員を務めたこともあり、世界の感染症状況にも関心が高く、当時、中国の新疆ウイグル地区で野生株由来のポリオの集団感染が報告されたことにも危機感を持っていました。ポリオは、世界で99%は解消されましたが、あと1%の壁がなかなか破れず、いまだ撲滅されていない感染症なのです。万が一にでもポリオが発生したら大変なことになってしまいます。そこで黒岩氏は、当時国内未承認であった不活化ポリオワクチン接種を、県独自の判断として実施することを決断したのです。

ところが、この黒岩氏の決断に対して、厚生労働大臣である小宮山洋子氏は、2011年10月18日の閣議後の記者会見において、「望ましいと思っていない」と批判しました。「国民の不安をあおって、生ワクチンの接種を控えて免疫を持たない人が増える恐れがある」と。こうして国と県とでワクチン政策に関する対立が起こった形になりました。

確かに、中国で集団感染が報告されるように、ポリオは未だ終わっていない世界の大問題ですから、ワクチン未接種の子どもたちがいたら大変なことが起きる、という小宮山氏の発言は大いにうなずけるものがあります。しかし、ポリオを発症する危険性のある生ワクチンを接種すべきいうことは、どうしても理解できません。なぜなら、予防接種によってポリオに罹ることのない不活化ワクチンがあるからです。

どうして接種控えをしているのかというと、親は、万にひとつでも、生ワクチンでポリオを発症するようなことがあったら子どもに申し訳ないと思うからです。この不活化ワクチンを望む親御さんたちの気持ちは、黒岩氏には届いていても、小宮山氏には届いていないようでした。


神奈川県職員の奔走

神奈川県が独自に不活化ポリオワクチンの接種をすると決めても、県職員の足並みは必ずしも揃っていたわけではありませんでした。当時の状況を良く知る方の話によると、当初、県立病院に入院している重症の子どもだけを対象に接種するということでお茶を濁そうとしていた職員もいたといいます。しかし、実務の担当者は、知事の熱意と「お母さん達からの心の叫び」に応えるために、急ピッチで準備をしました。ここでは、こうした県職員の方々へのヒアリングを基に、神奈川県における不活化ポリオワクチン体制について、ワクチンの確保、医師の確保、そして場所の確保という観点からみてみます。

まず、ワクチンの確保についてです。不活化ポリオワクチンは、当時は国の薬事承認や国家検定をまだ受けていない未承認薬でした。よって医師たちは「薬監証明」を取って、未承認薬の不活化ポリオワクチンを輸入し、子どもたちに接種していました。この「薬監証明」は、医師が個人でとることはできても、県がとって輸入するということは、制度上できないものです。
そこで、県の担当者は、厚生労働省の担当者と交渉した結果、解決策を見出しました。それは、神奈川県で接種に携わる医師の名簿を作成し、その医師がワクチンを使うということで厚生労働省から「薬監証明」を出してもらうという仕組みです。このエピソードから、厚生労働省は、表向きの制度論上は不活化ポリオワクチンに渋い顔をしていたものの、運用上は生ワクチンからの切り替えを容認していたことがうかがえます。

次に、医師の確保についてです。担当者は、神奈川県立こども医療センターと上足柄病院から、接種をしてくれる医師を出してもらい、県立病院機構に非常勤職員として所属してもらうことにしました。ただし県立子ども医療センターは、ここが最後の砦という感じの重症のお子さんがたくさんいらっしゃるので、なかなか医師を出してはくれませんでした。しかし、比較的高齢の医師達に非常勤で来てもらうということで、やっと最後には合意を取り付けることができました。この県立病院機構の非常勤の医師達が、不活化ポリオワクチンを輸入するということで「薬監証明」をとり、接種できる体制にしました。
 最後に場所の確保についてです。予防接種の場所として、県の4か所の保健福祉事務所が使われることになりました。その際は、具体的な手順の調整が大変だったといいます。どんな順路にするか、エレベーターや階段は十分に行き来できるスペースがあるか、きょうだいを連れてくる人もいるだろうから、その子たちが待っている場所はどうするかなど。あらゆる可能性を考えて、接種場所の準備をしたということでした。

このようにして整備されてきた不活化ポリオワクチン接種体制ですが、接種価格についても議論になりました。その結果、安易に無料化しない、ということで1回6,000円になりました。それは、神奈川県内で独自に不活化ポリオワクチンの接種を行っている医師達に配慮するためです。

医師達は補償などのことも含めて、自分でリスクを考えつつ、赤ちゃんのために不活化ワクチンを個人輸入してきました。そこに県が無料でポリオワクチンを接種する事にしたら、医師達は受診してくれる子どもたちを失うことになります。不活化ワクチンを有料で提供するのは、「県も独自にドロをかぶってやる」という県の姿勢を示すためにも必要だったのです。


不活化ポリオワクチンの開始

不活化ポリオワクチンの予約は2011年12月15日から開始され、2012年3月31日で終了しました。この間に申し込みをした予防接種希望者は、5,647人でした。申し込みの取り消しも3,033人いましたので、実際に接種をした数は2,614人でした。この2,614人の接種希望者が、不活化ワクチンを1回ないしは2回接種したので、合計の接種実施回数は4,036回となりました。
この4,036回の接種の裏には、さまざまなドラマがありました。不活化ポリオワクチンの接種は、2012年1月から始まりましたが、インフルエンザが大流行したので、1月と2月は1日に25人くらいしか接種できませんでした。その結果、4月の中旬の時点では、848人の接種しか終わっていませんでした。そこで4月中旬以降は、7か所に接種場所を増やして、1日60人くらいのペースで対応してきました。

また、初めてのことなので接種前の問診は時間をかけてやったといいます。さらに接種した後も会場で30分は休んでもらうようにしました。もちろん小さな子が30分飽きずに待っていられるような遊び場も会場に設置しました。

4月のある日、平塚市の不活化ポリオワクチンの接種会場を訪ねました。ゆったりとしたスペースで、保護者の方が安心した様子でワクチンを赤ちゃんに受けさせていました。半数以上の方がカップルで来ていて、子どもの健康に父親も母親も一緒に取り組んでいこうとしている様子がうかがえました。


独自体制の不活化ポリオワクチンを終えて

神奈川県の不活化ポリオワクチン提供体制の整備は、市町村や医師達にもさまざまな影響を与えました。市町村は、国の意向に従って生ポリオワクチンを推進することになっていますから、神奈川県の独自の動きに対して戸惑いを隠せないことは明らかです。そこで神奈川県では、市町村に「迷惑がかからないように」気を付けてきたそうです。市町村の推奨する生ワクチンに不安のある方だけを対象に、その方々の受け皿として生ポリオワクチンを提供するという姿勢を貫き、市町村の保健行政を「邪魔しない」ことを示しました。

また、神奈川県内では、県が不活化を始めた事でやりやすくなったと考えて、民間の病院や診療所でも不活化ポリオワクチンを輸入して提供するところが増えてきました。この影響は、県の不活化ワクチンの体制に影響を及ぼしました。わざわざ遠い県の施設に行くまでもなく、近くのクリニックで受けられるようになったからと、予約のキャンセルが相次いだのです。すべてがこの理由という訳ではありませんが、最終的には、3,033人が申し込みの取り消しをしました。価格がほぼ同じならば、県の施設でも近くのクリニックでも同じという事で、保護者は利便性を選んだのでしょう。県の当初のもくろみ通り、民間の医療機関への配慮が生きてきた訳です。

一連の不活化ワクチン接種において、ワクチンの安全性が問題になったという報告や重篤な副反応の報告は1例もありませんでした。


ワクチン問題は終わらない

今回、全国的に公費での不活化ワクチンが導入されることになりましたが、ワクチン問題はこれで終わったわけではありません。二つの点から指摘したいと思います。

ひとつ目は、予防接種の受け手の側の問題です。お母さんたちは、赤ちゃんのリスクを減らそうとして生ワクチンを避けて不活化ワクチンを求めましたが、せっかく予約をとったからといって、赤ちゃんに38度の熱があっても予防接種を受けにくるお母さんもいたといいます。担当者がいろいろ説明すると、「いいから打てよ」「ごちゃごちゃ言ってないで、黙って打てよ」などと言われることもあったといいます。体調がよくないのにワクチンを打ったとしたら、赤ちゃんにとってのリスクが逆に高まってしまうことが、なかなか理解されないのでしょう。

不活化ポリオワクチンが始まり、やがて4種混合が加わり、現在の任意接種も次々に法定接種化しそうな状況の中で、ワクチンや健康一般に対する保護者の持つ知識や情報は、限りなく重要なものになってきます。言われたことに従う、話題になっているから飛びつく、ということでは子どもの健康は守れません。親御さん達には、自分が守るのだという自覚を持って、ワクチンの効果もリスクも勘案した上で、判断できるようになる必要があると思います。これはヘルスリテラシーといわれるもので、今後、保護者の方がヘルスリテラシーの重要性に気づき、学んでゆくことが課題になると思われます。

ふたつ目は、ワクチン行政の問題です。なぜ10年以上も前から、多くの感染症専門家が生ポリオワクチンから不活化ポリオワクチンへ移行すべきと表明していながらも、なかなか変わらなかったのか、ということを明らかにしなくてはなりません。その原因を放置していては、また同じことが起きるでしょう。また、国産の4種混合ワクチンが開発されたとのことですが、症例数が十分であったかなど、審査の経緯に対する疑問の声も上がっています。この点に関しては、機会を改めて検証してみたいと思います。


地域から変わることへの期待

「行政や国の対応に、このやり方がベストというものはない」と、神奈川県の担当者はおっしゃっていました。また、「大変でしたけど、今となってはいい経験でした」とも。それは、これまで医療は国が音頭をとってすることが多いと思っていたけれど、地域でできる事も多い、ということが分かったからでした。
地域の住民に応えるためには、地域行政は独自に動くべきなのだ、という意識を行政職員が持つことはとても貴重だと思います。この方は、インタビューの最後にこのようにおっしゃっていました。

「これ(不活化ポリオワクチン:筆者挿入)は『誰も反対できない話』なんです。みんな、早く不活化にするように思っているんです。それはお母さんたちの心の叫びだからです。この叫びの声に応えたいんです。神奈川は、知事がいたからできたんです。黒岩さんでなければできなかったでしょうね。すごい知事が来たもんで、部下はきついですけどね。」

住民と近い場所にいる地域の行政が、住民の気持ちに沿った政策をすべきと声をあげて、自ら動いてゆくことで、国を動かすような大きな力となってゆくことがあるでしょう。これからの地域の動きへの期待は高まり、目が離せません。


謝辞:本稿の執筆に当たっては、神奈川県の職員の方々に貴重なお話をうかがい、資料提供をして頂きました。この場を借りて御礼を申し上げます。また、ナビタスクリニックの谷本哲也医師には、医学的な表記を監修して頂き、感謝いたします。


世界の主流としての当事者参画

2012-08-29 07:26:06 | 健康と社会
マサチューセッツ慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎と繊維筋痛症(CFIDS/ME and FM)の会


「この夏、ME/CFSの研究は大きく前進するための舵を切った」と、半年ぶりに再会したナンシーは、いつものように低いトーンの落ち着いた声で静かに言いました。彼女は、「マサチューセッツ CFIDS/ME and FMの会」の理事の一人です。この病気に30年以上も罹っていて、病気についての専門知識は深く、医学研究の進捗状況や医師たちの動向、さらにアメリカ内外の他の患者団体の動きにも精通しています。
ナンシーは患者のための地域活動もしていて、地区患者会の例会の場所をとったり、会員に連絡したりしています。例会当日の会場設営もしていて、会員に和やかな楽しい時間を過ごしてもらおうと、スーツケース2つにお茶やお菓子を準備し、季節にちなんだ飾りつけもします。私が同行させて頂いた2月のバレンタインの月の例会は、ピンクと赤がテーマで、テーブルクロスは赤、紙皿や紙コップやナプキンはハートの模様で、ハート形の置物も用意されていました。
ナンシーから手渡された、最近のアメリカ政府のME/CFS対策についての書類には、次のようなことが書かれていました。2012年6月13日と14日に、HHS(The Health and Human Services)は、慢性疲労症候群諮問委員会(The Chronic Fatigue Syndrome Advisory Committee: CFSAC)を開催しました。委員には10人のメンバーが選ばれましたが、臨床の専門家、FDA(食品医薬品局)代表を含む7人の元HHSメンバーのほかに、患者アドボケイトもメンバーとして入りました。そして、3時間にわたる公聴会が行われました。その他にも7つの患者団体の代表が報告をする機会が設けられました。
さらに、このCFSACとは別に、HHSは所属を越えて協働できるために慢性疲労症候群の特別作業班(Ad Hoc Working Group on CFS)も結成しました。そこには、CDC(疾病予防管理センター)、NIH(国立健康研究所)、FDA(食品医薬品局)など各部局の代表も含まれています。
こうした委員会や作業班が作られた背景には、オバマ大統領の意向があるといいます。インディアナ・ガジェットというオンライン新聞によると、ネバダ州のリノに住むME/CFS患者の妻は、2011年5月にオバマ大統領に、ME/CFS患者の救済、特にこの病因も分からず治療法もない病気の解明の為に、研究予算を付けて助けて欲しいという手紙を出しました。これに対してオバマ氏は、NIHを中心に研究を進めるための努力をすると回答しました。また、オバマ氏は、偏見を呼ぶCFSという病名にも配慮を示し、MEと併記したとのことでした。新聞記事は「これでオバマは新しい友人を何人か作った」と結ばれています。全米で約100万人いると推計されているこの病気の患者が味方になるなら、目前に大統領選を控えたオバマ氏にとって政治的に大きな力になることでしょう。


スウェーデンにおける自閉症とアスペルガーの会

 スウェーデンのストックホルム県に住むブルシッタとシュレジンは、ふたりとも「自閉症とアスペルガーの会」の有給職員です。ブルシッタには33歳になる自閉症の息子さんがいて、シュレジンには20歳になる自閉症と発達障害の息子さんがいます。8月に発達障害児・者への施策や医療を視察するためにスウェーデンを訪れたのですが、その際にこの二人にお会いしました。
「自閉症とアスペルガーの会」は、患者も患者家族も、医療提供者も社会サービス提供者も学校関係者も、関心がある人がすべて入れる会です。親が中心になって1975年に設立され、ストックホルム県内では会員が3,000人います。全国組織もあって、こちらは会員が12,000人います。活動としては、メンバーのサポートをしたり、子どもたちの合宿を企画したりしています。ホームページがあり、機関誌も出しています。ブルシッタによれば現在の会の中心的な活動は、政治的な動きだといいます。確かに会の活動が様々な施策を実現してきたことは、色々なところで実感しました。
今回、ストックホルム県内の、様々な制度を見聞したり施設(発達障害センター)を訪れたりしました。その際に、こうした制度や施設をコミューン(地方自治体)に作らせるように働きかけてきたのは、「自閉症とアスペルガーの会」のような親たちや専門職が加入している自閉症や発達障害の患者会だったということを、何人もの施設の長の方々から聞きました。
さらには、自閉症に対する大学の研究にも、こうした患者会は大きな役割を果たしています。カロリンスカ研究所に付属する子ども病院における自閉症研究グループであるKIND(発達障害能力センター)は、企業やEU科学評議会などからの資金援助を受けていますが、その時大きな後押しになったのが、「自閉症とアスペルガーの会」だったといいます。KINDのディレクターのスティーブン・ボルト氏は、会からの大きな支えを強調していました。
スウェーデンでは1980年代にハビリテーションのシステムが作られ、生きてゆくうえで支援が必要な人々に対する支援が整えられてきましたが、十分とは言えないままでした。それが1994年に施行されたLLS(特別援護法)によって、支援の制度は大きく前進しました。この法律の制定にも、患者団体などの利益団体の働き掛けが大きな後押しになったそうです。
2004年にスタートした自閉症のハビリテーションセンターや、2007年にスタートしたADHD(注意欠陥・多動性障害)センターでも、責任者の方は口々に、患者会が政治家に働きかけることでセンターが誕生したと言っていました。そして、このような支援を受けることは、ニーズのある人々の権利なのだと繰り返していました。


各国での患者会の現状

 スウェーデンに先立って訪れたアルゼンチンで開かれた国際社会学会でも、各国で患者会が医療政策決定において重要な役割を担っていることが報告されました。
 私が発表した医療社会学のセッションでは、イギリスからは「当事者会・患者会とイングランドのNHS(National Health Service:筆者挿入)の変化」、イタリアからは「トスカーナ地方における健康保健サービスの向上と社会運動の役割」と題される研究成果が紹介されました。それぞれ、地域におけるヘルスケア改革に、当事者団体や患者団体のアドボカシー活動が大きな役割を果たしたことに関する実証研究でした。
最後に私の発表の番となり、「日米における患者と市民の参加」と題した、日本とアメリカの合わせて7つの患者会に対する、アンケート調査とインタビュー調査の結果を報告しました。この調査は、2010年から2011年にかけて行われたもので、患者会の意味と役割について、メンバーに意識を尋ねたものです。アンケートに対しては、日本では132票、アメリカでは109票の有効回答が寄せられ、インタビューの方では23人の方が対象者になってくださいました。患者会は、脳障害、脳卒中、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群、ポストポリオ症候群、卵巣がんなどでした。
当初は、アメリカの患者会の方が日本よりも、政治的問題に発言してゆくアドボカシー活動への関心が高く、実際に活動も行っているという仮説を立てましたが、どちらの国も同程度に関心が高く、活動をしているという結果が認められました。
ただし日米とも、患者会がアドボカシー活動を積極的に行うようになってきたのは、ここ10年から20年のことだといいます。それまでは、患者や親たちは問題を個人で抱え込むしかなかったといいます。患者や親たちは、病気による身体的あるいは生活上の苦しさを理解されず、ましてや支援など受けることもできませんでした。そして逆に、病気のことをよく知らない一般の人や医療者から、非難するような言葉や態度を浴びせられてきたといいます。
30年以上も筋痛性脳脊髄炎の患者であったナンシーの言葉を借りれば、「社会からは理解されず、医療者から虐待されてきた」というのです。それは発達障害を持つ子や親も同様でした。スウェーデンでも80年代くらいまでは、ADHDや自閉症を持つこども達は、さまざまな失敗をしては親や教師から叱られ、親の方も育て方が悪いと周囲から非難されてきたといいます。


日本の患者会

 昨年9月に、東京で開催されたランセットの医療構造改革に関するシンポジウムでは、タイからの登壇者に「日本では患者会との協働はどのようになっているのですか」と聞かれ、「患者会は、自分たちの半径5メートルしか見ていない」ので意見を聞いても仕方ないというようなことを権威ある立場の日本人医師が答え、椅子から転げ落ちるほどびっくりしました。ランセットの会議に招待されるような方が、そのようなことを国際社会の場で発言するとは、日本の医師をはじめとする医療界の認識の浅さや遅れではないか忸怩たる思いがしたものです。このことは、以前にMRICにも書きましたが、この状況は今後変わってゆくでしょうか。
 日本でも、いくつかの患者会はアドボカシー活動をしています。例えばNPO法人筋痛性脳脊髄炎の会(通称、ME/CFSの会)は、偏見に満ちた病名を変更させるために患者会の名前を変えました。そして、この病気の研究を推進してもらいように、厚労副大臣や元厚労大臣を始め、何人もの国会議員や厚労省職員に面会し、研究の重要性と必要性を訴えかけました。さらに、ME/CFS患者が適切な社会サービスを受けられるようにするため、いくつもの地方自治体の長や議会に要望書を提出し、複数において採択されてきています。
さらにME/CFSの会は、この病気の世界的権威ハーバード大学医学校教授のアンソニー・コマロフ氏に、会が11月4日に開催するシンポジウムに向けてのメッセージも頂きました。ME/CFSは、未だに日本では医療者からも家族からも想像上の病気や精神的なものと誤解され、患者が苦しんでいることをご存知のコマロフ氏は、この病気が器質的なものであることを繰り返し、日本でも研究が進められるように呼びかけました。
 実際に研究が進んだり、社会サービスが受けられるようになったりといった具体的な成果はなかなか上がって来ていませんが、この様に患者会は、様々な活動を行い、続けていればいつか実現すると信じて続けられています。


当事者参画の可能性

 アルゼンチンの国際社会学会で同じセッションに参加していらしたシドニー大学教授のステファニー・ショート氏は、「私たち社会学者は、特に私の世代は、マルクス主義の影響が大きかったから、体制批判とか、社会運動とか、っていう視点で見ちゃうのよね。でも、今は時代が変わったわね」、とおっしゃっていました。彼女はまた、私の行った日米調査の調査票を使って、今度はオーストラリアでやろうという共同研究の話を持ちかけてくれました。もちろんぜひ調査を実施してみたいと思っています。
 次の国際社会学会の大会は横浜で開催されます。ちょうど私の所属する星槎大学も横浜に事務局がありますので、医療社会学の面々のパーティ係を任命されました。会場探しもしますが、その時までに、日本の行政や医療専門職が患者会の役割を重視し、患者のための医療体制ができてきたという報告をこの学会で発表できるようになればいいと思いました。


謝辞:スウェーデンの患者会は、セイコーメディカルブレーンの主催する研修で知り合いました。研修を企画して下さった同社会長の平田二郎氏、研修参加を推奨し財政的支援をして下さった星槎グループ会長の宮澤保夫氏に感謝いたします。また、日米患者会調査の実施に当たって、資金の一部を助成して下さった安倍フェローシップ(Social Science Research Councilと日本文化交流基金)に感謝の意を表します。


参考資料

インディアナ・ガジェット オバマ、CFSについて応える
http://www.indianagazette.com/b_opinions/article_75b181eb-bd88-5fe4-bc90-f7b09f869ffd.html