日本のフォーク・ソング
最近、わけあって日本の古いフォーク・ソングを聴く機会が多い。
高石友也の初期の曲や、京都A.F.L.にDIME関連やら
大阪シティー・ジュビリー、神戸ポート・ジュビリー関連に
岡林信康、高田渡etc.etc。
聴いていると、活力に溢れた当時の血液というか、若い(当時)
人たちの叫びが聞こえてくるような気がした。
私も含めて、と言いたいところだが、正直に言うとどこか冷めた
目(耳)で見ていたような気がする。
活力と行動が、唄う側と聴く側でだんだんと離れていくのも
思い出されて、少し寂しい気にもなった。
聴く側の勝手な思い込みと期待。
それに言い尽くされるような気がする、フォークの衰退が。
洋楽一本できた私が、今はもういない親友に聴かされた日本の
フォークにショックを受けたことが昨日のように思いだされる。
岡林信康、高田渡、加川良・・・。
同じ人間なのに、私はこんなチッポケで、その親友はとんでも
なく大きな人間だった。
ことある毎に、「あいつやったらどう言うやろう?」と考えて
しまう。
今の私を見たら、きっと説教が始まるんだろうと思いながら、
やはり変われない私がここにいます。
昔・昔、私は日本のフォーク・ソングを聴かされて、もう一人の
私を見つけました。
今、そのフォーク・ソングを聴く機会を持ったことに、何か因縁と
偶然でない何かを感じています。
ジックリ考えてみる時間を持つのも悪いことではない・・・、と。
そして、時間を見つめてみるのもいいのかも知れない・・・、と。
最近、わけあって日本の古いフォーク・ソングを聴く機会が多い。
高石友也の初期の曲や、京都A.F.L.にDIME関連やら
大阪シティー・ジュビリー、神戸ポート・ジュビリー関連に
岡林信康、高田渡etc.etc。
聴いていると、活力に溢れた当時の血液というか、若い(当時)
人たちの叫びが聞こえてくるような気がした。
私も含めて、と言いたいところだが、正直に言うとどこか冷めた
目(耳)で見ていたような気がする。
活力と行動が、唄う側と聴く側でだんだんと離れていくのも
思い出されて、少し寂しい気にもなった。
聴く側の勝手な思い込みと期待。
それに言い尽くされるような気がする、フォークの衰退が。
洋楽一本できた私が、今はもういない親友に聴かされた日本の
フォークにショックを受けたことが昨日のように思いだされる。
岡林信康、高田渡、加川良・・・。
同じ人間なのに、私はこんなチッポケで、その親友はとんでも
なく大きな人間だった。
ことある毎に、「あいつやったらどう言うやろう?」と考えて
しまう。
今の私を見たら、きっと説教が始まるんだろうと思いながら、
やはり変われない私がここにいます。
昔・昔、私は日本のフォーク・ソングを聴かされて、もう一人の
私を見つけました。
今、そのフォーク・ソングを聴く機会を持ったことに、何か因縁と
偶然でない何かを感じています。
ジックリ考えてみる時間を持つのも悪いことではない・・・、と。
そして、時間を見つめてみるのもいいのかも知れない・・・、と。