都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【7Ⅱ-03】 <4・28沖縄闘争>がもたらしたもの

2016年01月12日 00時04分18秒 | 第7部 激動の渦中へ
<第2章> 4学年1学期の<90日闘争>
〔第3回〕 <4・28沖縄闘争>がもたらしたもの

1969年4月28日。その日は朝から都心部を中心に数機のヘリコプターが爆音を轟かせ低空飛行を行い都心部の要所要所には完全武装の機動隊が配置され、まさに「戒厳令」状態に置かれていました。
<4・28沖縄闘争>(別称「沖縄デー」)の始まりです。
革共同中核派は、この日を「沖縄奪還闘争への全日本労働者階級人民の総決起の日」と宣言。「首都制圧・首相官邸占拠」という方針を掲げ、全学連は全国学生ゼネストで闘うことを決定し、その突破口として法政大学が全学バリケードストに突入。さらに「革命的統一戦線戦術」によってブントやML派などの新左翼5派共闘を軸にした社会党・共産党を除く全左翼30団体の「共同声明」を打ち出し、首都厳戒体制を打ち破って闘う陣形を構築しています。



この「4月28日」という日は、先の大戦による占領政策は「サンフランシスコ講和条約」が1952年4月28日に発効したことで、敗戦国日本が国際社会へ復帰するとともに沖縄の分離支配と全島基地化が半永久的なものとして、まさしく「沖縄を切捨て日本が独立した」歴史に刻み込まれた日でした。琉球政府を置き公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治が認められていましたが、最終的な意思決定権は米国が握ったまま<沖縄>が米国の施政権下に置かれたのです。
その後、1950年6月25日に「朝鮮戦争」が勃発。また、1960年12月には「ベトナム戦争」が起きるなど、1950年代から60年代にかけて東西冷戦が過熱したことでソ連や中国、北朝鮮などの東側諸国に対する抑止力を持った軍事基地。そしてフィリピンやタイの米軍基地と並ぶベトナム戦争の爆撃機拠点および後方支援基地としての<沖縄>の重要性へと方向が変わっていきます。
1966年11月。沖縄在住の平良修牧師(当時、キリスト教短期大学学長)は、琉球列島第5代高等弁務官F・T・アンガー中将の就任式で祈祷を捧げ「新高等弁務官が最後の高等弁務官たらし給え」と祈って、沖縄内外に大きなセンセーションを巻き起こしています。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権が米国から日本に返還されました。現在、日本の0・6%の面積でしかない沖縄に米軍専用施設が74%も集中しています。米側にとっても1万2000人以上の死者を出した沖縄戦。平良牧師(現在:日本キリスト教団沖縄地区牧師)は、ある講演のなかで「…その犠牲の『戦利品』として何をやっても構わないと米軍は考えています。返還交渉時に米国防総省の上級担当官だったハルペリン氏は、60年代に或る海軍将校から『沖縄に基地は存在しない。沖縄それ自体が基地だ』と言われたそうです。そんな感覚だからこそ、『銃剣とブルドーザー』」と呼ばれた土地の接収も基地拡大も抵抗がないのでしょう」と語られています。
しかし、72年の返還までに米軍は施政権を元に各地になかば力ずくで基地や施設を建設し、また米軍兵士による悪質な事故、殺人を含む事件が頻発し県民の死傷者も相次いでいます。この頃から県民は米国の施政に対し「本土復帰」(日本復帰)を訴え、「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こし、1960年には「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)を結成。しかし、ベトナムへの軍事介入を拡大したケネディ大統領やベトナム戦争を泥沼化させたジョンソン大統領は沖縄返還を全く考慮しませんでした。

第3次佐藤内閣は、1970年に予定される米国との「相互協力」及び「安全保障条約延長」とともに本土復帰を緊急の外交課題としていましたが、新左翼や学生運動をはじめ労働組合は「安保」と同列の「沖縄返還論」に反発し、「反安保・反返還」の運動を激化させました。
1967年段階になると、新左翼各派は従来の返還運動や復帰運動と異なる沖縄問題に本格的に取組み、自らの闘争に対する呼称として<沖縄闘争>という政治性を内在化した表現を使うようになります。それは、従来の「復帰運動、返還運動」批判の立場から「日米両政府の軍事同盟再編強化政策の中心環としての返還政策を、まず叩き潰さなければならない」という点で、軍事同盟再編強化策としての「返還政策の粉砕」というものでした。それは、先行する返還運動への批判、復帰思想・運動の破綻を乗り越えて「支配の本質」に迫りうる質をもった闘いとして表れてきました。

当時、沖縄は「北緯27度線」で本土と分断され、「外国」として扱われており沖縄へ渡航するにはパスポートが必要とされていました。このパスポートの発行は沖縄を支配する米高等弁務官の許可を必要とされていましたが、沖縄から本土に日本の「国費留学生」として九州大学へ在籍していた学生が67年<10・8羽田闘争>に参加し逮捕・起訴されたことで、政府は国費留学生資格を剥奪。そのなかの学生数名が68年3月、那覇港で「渡航制限撤廃」を訴え実力抗議行動を行ったことで、渡航制限を実力で粉砕する闘いが発展していました。

■在校生の<沖縄闘争>参戦
新学期が始まって間もない4月28日の<沖縄闘争>には、代々木高校の在校生・OBなど十数名が「労働者部隊」として参戦したのですが、そのなかに女生徒も含まれていました。私は当日の夕刊配達を休むことができず、せめて皆が<出撃>するのを見送るつもりで待ち合わせの某喫茶店で落ちあうことにしました。新聞各紙を購入し皆へ差し入れ。各紙面は都心部が前日からの厳戒体制を報じていました。
喫茶店内は緊迫した雰囲気のなか誰もが新聞を食い入るように読んでいます。すると、ひとりがポツリ「破防法で逮捕されている…」とつぶやきました。「ハボウホウ…?」初めて聞く言葉でしたが私にとってこの「破防法」との初めての出会いでした。その時は思いもしなかったことですが、この日をきっかけに、その後20数年にわたる<破防法裁判>に関わることになるのです。

【写真】破防法適用を報じる記事



<4・28沖縄闘争>当日、沖縄では那覇市・与儀公園の17万5千名をはじめ離島を含めて20万5千名が大挙結集。これに呼応するかたちで本土では学生部隊1万5千名、反戦青年委員会の労働者部隊5千名、高校生部隊1千名等に、「30団体共同声明」に参加した全組織を加えた3万名の組織された部隊を軸として約15万名が約6時間にわたって機動隊と対峙し首都中心部を制圧しています。
この日の闘いは、全国から結集した学生部隊が東京駅に集結し線路伝いに新橋へ進撃。山手線をはじめ京浜東北、東海道、新幹線などの主要路線を全線マヒさせ闘いの突破口を開いています。また「反戦派労働者」の部隊が初めて機動隊と正面から激突、学生・高校生と一体となって新橋・銀座一帯を<解放区>とする闘いを行っています。

【写真】<4・28沖縄闘争>を報じる翌日の紙面


翌日の新聞には警察発表だと思いますが、この<4・28沖縄闘争>における学生の動員数ならびに逮捕者数を以下のように報じています。
【動員数】〔学生〕全国=1万3780名(東京:7100名、大阪:2600名)〔高校生〕東京:600名、大阪:320名。このうち公務執行妨害、凶器準備集合などの【逮捕者】は〔全国〕1039名(東京:965名、大阪:18名、北海道:17名、宮城:10名、福岡10名などの内訳)で、68年<10・21新宿闘争>、69年<東大安田講堂闘争>を上回っていました。それだけに全国規模で繰り広げられた<沖縄闘争>の激しさが分かります。

なお、『戦後医学生運動史』によりますと、<4・28沖縄闘争>には▼府立医大生2名、中央闘争で逮捕さる▼全関西全共闘総決起集会(追手前公園)へ医学連参加▼慈恵医大・院内に運び込まれる負傷者の奪還闘争を、青医連4・28実行委員会と全学反戦行動会議50名で行う。50名くらいの負傷者が運び込まれたが、当局は私服・機動隊が入るのを容認する一方、当日は学生の病院内立ち入りを禁止。青医連を中心に学内パトロールを行った▼日本医大「沖縄闘争」に20名参加▼東大医共闘85名で沖縄闘争デモへ。
▼福島医大も現地で決起▼北大・日共は流動化する学内を「トロが病院封鎖をする」(※トロ=トロツキー派⇒暴力主義者)とのデマで封じ込めようとしたが、青医連と医学生は院内逆バリを突破して戦う▼岩手医大・20名で沖縄闘争にヘル闘争▼徳島青医連、医局講座制打破等項目を要求して無期限スト突入。青医連にクラスの全部が結集し、4月に結成された統一青医連に参加して戦う▼九大医学部でも授業放棄、沖縄闘争に200名以上の学友が参加。板付基地(現:福岡空港)にデモ行進―など、全国で医学生の<沖縄闘争>への実力参加が報告されています。

■<戦闘モード>に切り替わりました。
この日、私は闘争に参加できなかったのですが内心ではこの闘争を目の当たりにして、これまでにない躍動感を感じていました。それは単に都心部を制圧した大きな闘争に代々木の生徒が<参戦>したことだけではなくて、これだけ多くの学生・労働者など若者を中心とした激闘で多数の逮捕者・負傷者が出ながら「果敢に闘う姿勢というのは、何だろう」という疑問とともに、「70年安保」の問題に初めて<沖縄>が私のなかに位置を占めたということです。そして新聞に報じられていた「破防法の個人適用」ということが重くのしかかってきました。
確かに67年の<10・8羽田闘争>では私と同じ年齢の若者たちが、ひとりの学生の<死>を乗り越えて時の首相のベトナム訪問を阻止しようと果敢に闘ったということに衝撃を受けました。そして、68年<10・21新宿闘争>(騒乱罪適用)では2万余の学生・労働者そして市民までが一体となってベトナム戦争阻止の闘いが繰り広げられているという現実に直面していました。でも、それは新聞やテレビなどのメディアを通じての社会的出来事の範疇であり、考え方によっては「対岸の出来事」的な捉え方しかできなかったわけです。

しかし、今回の<4・28沖縄闘争>は、68年秋の「文化祭」で社研部の研究発表として「安保問題」をテーマに、まさしく私自身の問題意識の低さから「教科書的」な一時しのぎの意見発表に終わり来場の方から「どこまで討議したのか」と問われて何も返答できなかったことへの反動もあって、「安保問題の本質に<沖縄>があったのだ」ということを自分のなかに初めて問題意識として浮かび上がったということです。「約15万名が約6時間にわたって機動隊と対峙し首都中心部を制圧」した、この<4・28沖縄闘争>は多くの犠牲者を出しながら一人の青年(私のこと)の<闘争心>をかきたてる効果があったというべきでしょう。

――私のなかに「安保・沖縄と破防法」を研究課題とした<闘い>が本格化するのは、それから数年後のことですが、それだけに<4・28沖縄闘争>によってもたらされた課題に大きなものがありました。
この<闘争>の本質を考えていく過程で、上京以来5年にわたって自分の体内に抑えていた<怒りと哀しみ>を自分中心の問題としてだけで捉えるのではなく、もっと社会的・政治的さらに歴史的な視点に比重をおくことで、<カエルの方程式>から解き放なたれる試みに踏み込んだ、ということでしょうか。ここに高校入学以来抱えていた「何故、学ぶのか」の解答に向けた方向性を少し捉えたような気がしていました。

でも、ここで改めて「では自分は何故、闘うのか」「何に向かって闘うのか」といった新たな問いかけが表れました。そこで遠くにある<闘い>に想いを馳せるのではなく、まず、目の前に広がる現実。それは当面する「学内問題」としての<PTA闘争>でした。改めて「PTA問題」に焦点をあて、「何故、定時制高校にPTAが存在するのか」「PTAの先にあるものは何か」などを<働く者の視点>(労働者の視点)から根本的に捉え直すことにしたのです。ここではじめて、自分自身が<戦闘モード>に切り替わったことに気付きました。
一旦、自分のなかで<戦闘モード>に切り替わると、様々な現象が次々と押し寄せてきて日常生活のなかに深く深く食い込んでくるようになりました。まさに<激動の渦中>に引きずり込まれていったのです。

――なお、<4・28沖縄闘争>に参戦した代々木高校の在校生・OBなどは逮捕されることなく全員生還。但し、学友一名が負傷しています。




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1 コメント

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4.28 (たつ)
2016-04-28 17:10:13
おりしも今日は歴史的な沖縄奪還闘争の日です。
あれから沖縄はどう変わったのか?
なにも変わっちゃいません・・・
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