ヤコブのはしご (キリスト教徒のブログ)

プロテスタント・キリスト教徒のブログです。
日本のキリスト教に関して本音で語ります。

回心の記

2018年09月10日 | エッセイ

この世には多くの闇があり悲惨がある。絶望のさなかでは神は本当にいるのだろうかと疑うこともある。しかし、患難や苦しみが過ぎれば、闇や悲惨や絶望の中に神の深い配慮があったことを知る。だから、多くの苦しむ者よ、主を堅く信じてひたすら耐え忍べ。主は必ず救ってくださる。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」ヨハネ福音書15章。この御言葉は、キリスト教保育園を卒園した時に頂いた新約聖書の表紙の裏に書かれていた。当時6才の私には全く理解できない言葉であったが、50年近くたってもなお記憶に刻み込まれ、後に私を洗礼へと導く御言葉であった。

 小学校から大学まで私はキリスト教とは無縁であった。両親は無宗教であり、教会学校にも通ったことがなく、関心もなかった。ただ高校の時、倫社という科目で宗教や哲学に興味を持った。授業で「復活がなかったらキリスト教は存在しなかった。」と僧侶であった先生が語ったことを明確に記憶している。

大学4年の時に衝撃的な出来事があった。高校時代の親友が自殺したことだった。葬儀に行き悲しみに沈んだ。彼の人生は何だったのだろうか。生きる意味とは何なのかと考え始めた。勿論答えはみつかるはずもなかった。私は幼少期にふれたキリスト教を思い出し、近くの教会に初めて行った。

初めて行ったプロテスタント教会の礼拝はまるで理解できなかった。聖書もお祈りも説教もつまらなかった。「プロテスタントとカトリックはどう違うのですか?」と尋ねると「違いはほとんどありませんよ。」と言われた。数回通ったがまるでなじめなかった。私は通うのを止めた。

時はバブルの絶頂期。私は就職活動に奔走した。土地は永遠に上がると誰もが信じ込み、金融が全盛の時代だった。当時はネットもなく情報もなかった。どうせ企業のことがわからないなら、給料のいい所に入ろうと思って銀行を中心に就職活動をした。難関の就職先から内定をもらって有頂天になった。

就職してすぐに就職先を間違えたことを知った。銀行の商品はお金であり、金儲けが好きでないと務まらない仕事であった。不動産融資でひたすら節税の金融商品を売るというのは苦痛だった。銀行員の先輩に生意気だと言われていじめられた。また人生に悩み始めた。就職先を間違えたことから、自分の生き方がいい加減だったことを反省した。どう生きていいのかわからなかった。

人生の意味を探すためにいろいろな本を読んだ。とりわけ三浦綾子さんの本に惹かれた。「塩狩峠」もよかったが、自伝「道ありき」を何度も読んだ。三浦さんをキリスト教に導いた前川さんの無私の姿に魂が揺さぶられた。ここに本当の愛があると思った。私は再び教会に行こうと思った。

どこの教会に行こうかと思って最初にカトリック教会に行ってみた。近くに修道院と病院があった。病院に行った時に女子パウロ会の発行している小雑誌を見て心がひかれたからだ。しかし、カトリック教会での外国人の神父さんの話はよくわからなかった。次にプロテスタント教会に行くことにした。

電話帳で調べた教会を探して行ってみた。このプロテスタント教会でも相変わらず礼拝の内容はよくわからなかった。ただ、帰りがけに人の良さそうな牧師が講壇から降りてきて、「君初めてだね。」と声をかけられた。私はこの教会に通うことに決めた。今度はわからなくても我慢して通うことにした。

新約聖書を試しに読んでみた。マタイによる福音書の最初の家系図に閉口した。その後は何とか理解できた。「主の祈り」はみんなが暗唱しているようなので公園で何度も読んで覚えた。少しうれしかった。すこしづつ、説教の内容はわかるようになったが、まるで祈れなかった。どう祈っていいのかわからなかった。

教会に通い始めて数か月で洗礼を考え始めた。よくわからないが洗礼を受けないと道を究められないと考えた。牧師と日本基督教団信仰告白というものを一緒に学ぶことになった。何時間もしつこく質問した。奇跡や復活を信じるのは容易だった。神なら当然できると思った。

理解できなかったのが十字架と贖罪についてだった。何度聞いてもわからなかった。牧師は「わからなければ神の愛だと考えればいい。」と言った。とりあえずそれでわかったつもりになることにした。キリスト教の教理は難しくて短時間ですべてを理解することはとてもできないと思った。

そして再び教会に通い始めて約1年後のイースターに洗礼を受けた。1990415日だった。洗礼を受けた時に電気ショックでも走るのかと思ったら何もおこらなかった。洗礼の喜びはあったがまだ救いの確信はなかった。そして洗礼を受けた後のほうが大きな試練の連続だった。

洗礼を受けてから2ヶ月で東京へ転勤になった。新しい部署は外国送金の業務だった。銀行の仕事は相変わらず苦痛だった。そして決算の9月末に異変が起きた。遅くまで慣れない業務を続け、決算がどうしても終わらないと焦り出した。夜寝られなくなった。ある夜一睡も寝られなくて苦痛にのたうちまわった。

次の日の朝、大きな病院の精神科に駆け込んだ。鬱病との診断を受け、仕事を休むように言われた。全てが終わったような気がした。病気になって遂に銀行を辞める決心がついた。2ヶ月ほど休んでから転職先を探し始めた。しかしまだバブルの時代は続いていた。病気のことを隠せば転職は容易だった。

ある素材メーカーに転職した。仕事は楽しく転職してよかったと思った。洗礼を受けた教会で知り合った信徒と結婚した。東京では改革長老派、メソジスト派、ディサイプル派、会衆派などを転々とした。教会学校の教師も1年務めたが大変で二度としたくないと思った。教会籍も移さずお客さんであり続け、いつしかサンデークリスチャンとなった。

転職してうつ病はきれいに治った。東京に6年近くいて東北の工場に転勤した。東北の教会があまりに高齢化して衰退しているのに驚いた。この工場は、後に東日本大震災で壊滅的な被害を受けたが見事に復興した。東北に1年と少しいて、アメリカの工場に転勤した。

アメリカの生活は快適だった。大きな家と豊かな自然を楽しんだ。アメリカで長老派の教会に通ったが、アメリカ人のプラグマティックな信仰に影響を受けた。信仰深いが、生活を楽しむこととうまく両立しているように感じた。また、アメリカの大学で学んで単位を取得したが、合理的な教育制度に感心した。

アメリカでは治安の悪さや人種問題の根深さを感じた。しかしアメリカ人の合理的な思考とそれを支える教育やキリスト教との関係に興味を覚えた。このことが後に教育関係に転職するきっかけとなった。時はアメリカ人に衝撃を与えた9.11のテロ事件の頃で、教会でイスラム教を勉強しようとの声が上がった。

9.11のテロ事件の直後に日本に帰国した。久しぶりの日本に逆カルチャーショックを受けた。日本人の濃密で個性を尊重しない人間関係が息苦しかった。海外関係の仕事についたが、英語の能力に限界を感じていたのと、このままでは中国に赴任しなければならないのが嫌だった。私は再び転職を考え始めた。

最初に勤務した銀行の赴任先にあったミッションスクールは私の妻の母校だった。私は妻とその恩師の院長に会いに行った。当時その学校は経営が傾いていた。人材を欲しがっていた院長は私を雇ってくれると言ってくれた。私は安定していて優良な会社だった素材メーカーを辞めた。2003年の春だった。

素材メーカーを辞めるのは大きな決断だった。なぜかその時はアメリカにいた時の余韻が残っていて夢を追いかけたくなった。日本に理想のキリスト教教育が実現できないかと夢を見た。それが私の召命のように思えた。実力もないのに、とんでもない思い上がりだった。

学校に赴任したが、最初から管理職を任された。私のことを買いかぶったのであろう。少子化が進み生徒が来なくなった学校はすべての生徒を受け入れた。そのため素行の悪い生徒が入ってきて学校の評価は地に落ちていた。責任を巡って校長と組合、校長と理事会が激しく対立した。私は間に挟まれ苦悩した。

6月ごろから食欲が減退し眠れなくなった。そして夏休みに入って、校長に仕事を減らすよう頼んだ。職員会議でそのことが発表されると、戦闘的な組合をはじめ教師たちは一斉に私を非難した。私は遂に出勤できなくなった。再び精神科に駆け込んだ。鬱病の再発である。長くて苦しい病気との戦いが始まった。

この時の鬱病は重かった。慣れない仕事に管理職の重圧、校長との関係などに疲れ果てた。特に夢が破れたショックは大きかった。なぜあのようないい素材会社を辞めたのかと激しく後悔した。2ヶ月で復帰したが、病気の回復が十分でなく、数ヶ月してまた休職した。薬を変えても病気はよくならなかった。

何度も薬を変えているうちに鬱病から躁の症状が出るようになった。今度は双極性障害と診断が変わった。鬱病より先天的で完治が困難な病気である。躁の時は、攻撃的なメールを上司に送りつけますます職場の信頼を失った。認知が歪んで貧困妄想に苦しみ、ホームレスになる妄想にかられた。

貧困妄想にかられたため、株で財産を稼ごうと考えた。株は少しも儲からなかった。突然のリーマンショックで大金をなくした。親に泣きついて借金の返済を頼んだ。その間も病気はよくならず、休職を繰り返した。失業の危機だった。

発病から10年過ぎても病気はよくならず、病気の回復を諦めた。妻子がいたので苦しくても仕事を辞めることができず、職場にしがみつくことにした。洗礼以降教会を離れことはなかったが、信仰を失いつつあった。神に捨てられたと思った。夢も希望もなく生きるのが苦しかった。

鬱の最中は希死念慮に苦しんだが、子供が大きくなるまではどうしても死ねないと思った。遠藤周作の「沈黙」を繰り返し読んだのも、この頃であった。30代の終わりに発病して、50代に入るまでこの状態が続いた。その間も信仰は停滞し続けた。洗礼を受けた母教会に通っていたが、当時の牧師の説教に我慢できず、人柄も信用できずに飛び出した。

教会は最初に教団以外の福音派の教会に行ってみた。いい教会だったが籍を移す気になれなかった。次に教団内で別の教会に優秀な牧師がいると聞いて行ってみた。素晴らしい説教で感動した。この教会に通い始めて1年ほどでどうしても教会籍を移したくなった。家族の反対を押し切って籍を移した。今から3年前のことだった。それから回心のストーリーが始まった。

説教で信仰が養われるとはこうだとわかった。毎週の説教が楽しみだというのは洗礼を受けてから始めてだった。若い頃によく分からなかった罪というものがわかるようになった。罪がわかって始めて十字架の意味がわかり始めた。復活と再臨に対する考え方も新たにされた。霊的な体験により聖霊理解も深まって、信仰の本質は霊であることがわかった。

発病から14年が過ぎようとしていた。2年前の10月に、また長期間職場を休んだ。上司から再び降格と減給を言い渡され、失職が近づいたと感じた。この時、長年飲み続けたベンゾジアゼビン系の抗不安薬が、気分の上がり下がりの原因ではないかと思いついた。これはネットでも書かれていないが直感だった。この薬を止めないと人間としてダメになると思った。

抗不安薬は依存性が強く、止めるのは至難の技だった。少しずつ減らすことが推奨されているが、思い切って完全断薬した。予想通り反跳性不眠という極度の不眠が来たが、強い眠気がでる抗精神病薬で乗り切った。抗不安薬を止めると気分変動が見事に軽減された。狙い通りだった。

病気はゆっくりと回復した。2年経っても多少の後遺症があるが、鬱病は完治が近づいてきた。完治は絶対に無理だと思っていたので奇跡的だと思った。再び生きる意欲が回復してきた。しかしもう50代の半ばで、失った職場の信用を回復するには遅過ぎた。転職するにも年を取りすぎた。人生の後半戦をどう過ごすか考え始めた。

今、私は穏やかな日々を過ごせるようになった。長く病んだが、職を失わずに済んだ。何より家庭を壊さずに済んだ。妻子には大いに迷惑を掛けたが、見捨てられずに済んだ。子供たちも順調に育ってくれた。

そして何より今、私を支えてくれているのは信仰である。私は何度も絶望にふちにたたされたが神は私を見捨てることはなかった。幾ら祈っても病気が癒されないので祈ることもやめた。自分がこのように落ちぶれたのは神のせいだと思い、こんな神はもうたくさんだと思った。私は神を捨てたかったが、神はそれを許さなかった。そして病が癒えつつある今、私はこの長くて苦しい病気にも何か意味があったのだと思い始めている。

まず、自分の罪を自覚することができた。私はあまりにも高慢だった。実力もないのに自分の力を過信していた。私は神に叩きのめされた。病気が癒えてもなお、高ぶりの罪を犯そうとする自我がある。だから私は絶えず神の前で、自分の罪を告白し許しを請わなければならない。

病気の間、私の使命は終わったと思っていた。病が癒えたということは、まだなすべきことが残っているのであろう。それが何かまだわからない。神が私の病を癒されたのなら、なすべきことはいずれ示されるであろう。私は今静まってその時を持っている。

私の回心の経験を語った。パウロのような劇的なものではない。ゆっくりとした歩みである。でも神から背を向けていたものが再び神に立ち返ったのだから、これを回心というのだろう。

多くの人に祈っていただいた。私は祈ることを止めたが、あきらめずに祈ってくださる人たちがいた。その方たちに感謝したい。何より、このような取るに足りない私を見捨てずに救ってくださった神に感謝したい。そしてその深い配慮に感謝したい。全能の神に栄光があるように。


2 コメント

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Unknown (Joel_Yancey)
2019-03-25 13:19:06
大変なところを通っておられますね。お祈りさせていただきます。
Unknown (Raffey56)
2022-01-15 13:06:36
私は貴方の自分自身に正直な生き方に感動しました。

人は他人の立派な言葉や聖人の立派な生き方ではなく、貴方のような自分自身の思いに誠実な生き様に感銘を受け励まされるのだと思いました。

私はクリスチャンではありませんが、貴方のブログに繋がれて良かったです。 貴方のブログは Twitter 経由で繋がりました。

ありがとうございました。

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