エキュメニズムを考えた時に最も大きな壁がこの使徒継承権であると思う。ルターの宗教改革の主眼がローマ教皇庁の権威の否定にあり、「聖書のみ」もローマ教皇庁の権威を否定するために主張されたというのが私の仮説である。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 00:02
また私は万人祭司における牧師の位置付けについて考えている。使徒継承権を持たない牧師は聖職者ではなく伝道者と位置づけられる。宣教を職業とする長老である。しかし一方では洗礼や聖餐という聖礼典は牧師の役割である。牧師は何の権威によって聖礼典を執行するのであろうか?
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 00:11
牧師には権威は必要ないと主張する人がいる。洗礼も牧師が執行する必要がないという人もいる。そしてフリー聖餐。こうなると聖礼典すなわちサクラメントの根拠たる主からの委託はどうなるのかという疑問が湧いてくる。主を信じる者なら聖霊が与えられるとするなら何がその権威を保証するのか?
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 00:23
@kamisama_issyo その按手礼も秘跡ではないのが苦しいところ。使徒継承の根拠が曖昧。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 00:41
牧師は就任式において按手礼を受ける。しかしこの按手礼は叙階と異なり秘跡ではない。主から直接使徒としての権威を預けられのだろうか?司式者から按手を受けるのだから使徒継承の真似事?聖礼典の形骸化は牧師の権威が曖昧であることにも起因しているように思えてならない。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 01:35
使徒継承と牧師の権威について一連のツイートを行った。未だ御聖体を信ずるに至っていない。論理的には司祭の使徒継承権を認めれば信ずるに至るのだろうけど、御聖体の神秘は論理では認識できない。すべては聖霊が働くどうかにかかっていると思う。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 02:03
29年前に洗礼を受けた時を思い起こす。あの時私はどの程度神を信じていたのだろうか?主の復活や奇跡は信じることができたが、肝心の十字架がよく分からなかった。聖霊が働いたのかも分からない。そのうちにわかるだろうと賭けに出たような気がする。すべてを信じられるほど信仰は簡単ではない。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 02:41
@jTNaZ8AEW8LxPG1 先生はじめまして。よろしくお願いします。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 08:40
@blessedrabbit ハピウザさんありがとうございます。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 09:12
@airaensis @MichaelMikaMori ミカエルさん、きりちゃんはカトリックの教理をトマス・アクィナス的にいつも教えて頂いてる師匠です。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 09:35
なるほどそうですか。 twitter.com/plmakoto/statu…
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 10:51
ルターの宗教改革後に開催されたトリエント公会議は、第2バチカン公会議まで大きな影響を与えた重要な会議。ニカイア信条の確認、義認の確認、聖伝の重要性の確認、七つの秘跡を確認する一方、贖宥状の取引禁止などが主な決定事項。カトリック教義の再確認と教会の刷新と自己改革を促した。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 14:18
@kuroyukihime_ 同じ意味ではなかったですか?行為義認という言葉が正しいかどうかよくわかりませんが。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 16:01
@kuroyukihime_ ルターの信仰義認の反論としてカトリックは義化という言葉を使ったでいいですか?
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 16:06
@arisanmarkha すごくいい事があったみたいですね。
— ヤコブのはしご (@yakobu1964) 2019年4月18日 - 18:01