鈴鹿峠の麓、関町久我の光円寺という浄土真宗高田派の寺院です。
平資盛(すけもり)が10歳くらいの頃に、
関町久我に流されていたことから、平家ゆかりの寺とされています。
平資盛は、津市芸濃町河内地区に平家落人の村を作ったという平維盛の弟、
兄弟は平清盛の孫にあたります。
兄弟の父・平重盛は清盛の嫡男であり、ゆくゆくは清盛から重盛、重盛から維盛に
平家棟梁と太政大臣の地位が譲られる予定でしたが、
重盛が平家滅亡(1185)前の1179年に病死、その子維盛は平家の主流から外れてしまったようです。
屋島の戦いに破れた後、維盛は平家一族を離れ、
和歌山県の那智の海に偽装入水自殺を行い、自分は死んだことにして伊勢の国へと逃れ、
芸濃町河内に31人の家来と共に隠れ住んだということです。
弟・資盛は、兄の離脱後も一族と共に西国に逃れ、
壇ノ浦で滅亡したとされていますが、
一説には、戦いから脱出して鹿児島に上陸した後、
河内から十津川に逃れて、玉置山に隠れ、玉置高虎と改名して、
奈良・和歌山に玉置姓の子孫が広がったということです。
さて、10歳の資盛が関町久我に流されたというのは、
1170年、女物の車に乗った資盛が、都大路で行き合った関白藤原基房に道を譲らなかったため、
父の重盛が資盛を戒める為、伊勢国久我の庄に配流したということです。
資盛はここで土地の豪族の娘と恋し、盛国という子をもうけました。
この盛国から後に名流関氏が発祥します。
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