ヤーホ、こんにちは。

日々思うこと、笑顔を忘れずに。

自殺者

2009年03月06日 18時52分22秒 | Weblog
昨日警視庁から発表された今年1月の自殺者の数は2645人とのことだった、今年から月ごとに自殺者の数を発表するという。

これまでは年毎に発表されていた、11年連続で自殺は3万人を超えている。その多くは生活苦からのようだが、昨年後半からはリストラされてと言う方も増えてきているとのことだった。

小泉元首相の「改革なくして成長なし」の掛け声による構造改革によって生まれた雇用の改革によってもたらされたひずみのお掛けではないだろうか。

かっては会社に入社したらその会社で定年を迎えると言う事が普通だった。今は正社員になること事態が難しい状況にある。非正規社員の増大、契約社員制度など製造業、非製造業にかかわらず増大している。

正社員と非正規社員では賃金の格差が大きい。そして仕事量が少なくなる季節には、非正規の人たちは、ハイそれまでよとばかりリストラにあう。

大企業では何兆円という膨大な儲けをしているのに、働くものたちは賃金を低く抑えられているなど、あまりにも矛盾しているのではないだろうか?これら小泉氏の残したものなのだ、改革は誰のためのものだったのか? 疑問に思う人は多いだろうと思う。

まず大きく変わったのは雇用制度ではないだろうか。その結果貧富の差が大きくなり格差の増大を招いているとしか思えない。働くものの格差も広がっている。底辺に位置する人達の苦しみは計り知れないものになっているとしか思えない。結果として自殺する人もでてくるのではないだろうか?

雇用制度を見直して元に戻す。日本的雇用制度ー永久雇用にする事こそ望ましいと思う。

散歩

2009年03月05日 14時20分44秒 | Weblog
今月は弟の葬儀から始まった、心身ともに疲れてしまった。ほとんど会うことのなかった遠い親戚の人たちと合えたのは良かったと思う、親しく話し合う事ができた。

肉体的な疲労はまだ癒されない、足腰が痛い。今日今月に入って始めて散歩に出かけてみた、足首から先の感覚がない。歩くと言っても5~600メートルでしきゃない、我が家から第一保育所までそれでも足の裏が痛み感覚を失う。

今わ此のくらいが私の散歩になる、それでも自転車には載れる、三郷教室にも難なく行ける。自転車をこぐということは力を入れる事がない、体重も掛からないということだろうか? 私も不思議な気もするが実祭にそうなのだ。それゆえ私は助かっていると言える。

ボケ防止に続けているパソコン活用、休まなければならないのが残念な気がする。今はブログが私の友でもある、信じあえる友と言っていいように思える。不思議な気もしないではないが?

センター寄り日

2009年03月03日 15時26分35秒 | Weblog
葬儀後疲れがピークに達していた、今日音風の稽古日だったがKさんに疲れているので休むと伝えた。団地の人には弟の死を誰にも伝えていない。

このブログを見ている人は居ないだろう。だいたい高齢者と言われる人の中でパソコンを操作できるひとが少ないと言う事もある、私の知る限りブログをしている人は数人に過ぎない。ある意味では安心して書くことができるという利点もある、ありがたいと言っていいのか? 寂しいといっていいのか? 本当は寂しいといいたい。

そんなことから今日は団地長寿会の老人福祉センターの寄り日、疲れているが顔見せぐらいはと思い10時半ごろセンターに行く。

ヤーホさん歌を唄ってとせかれる、歌謡連合で風邪のために歌えなかった「木曽川しぐれ」を唄う事にした。午後1時半ごろようやく唄う事ができた。風邪引き後始めて歌を唄う、なんとか唄うことが出来た。

多くの友人知人に囲まれ歓談することで、ひとときの間疲れを忘れ憩うことができた。センターの寄り日はそんな意味からも有効なのかもしれない。午後3時終了、感謝しながら家路を急ぐ。

通夜と告別式

2009年03月02日 11時09分36秒 | Weblog
28日午後6時から7時まで弟「進」の通夜が柳澤禅寺(りゅうたくぜんじ)で行なわれた。寺は浄土宗・永平寺直属の寺で、東禅寺と言い同寺の檀家となっていた。柳澤禅寺は葬儀などを行なう場所として営まれていた。

私は電車の乗り継ぎなどで時間が思ったよりかかってしまい通夜の時間に少し遅れてしまった、しかし献杯には間に合った。この日来て下さった方は、親戚の方約50名、跡取り息子の会社の方、親しく付き合っていただいたご近所の方など約20名ほど多くの方に来ていただいた。ありがたいと言う他ない。

用意された膳を囲み、あまり会う事のない遠いい親戚の方とも挨拶を兼ね歓談するなど、みなさん思い思いに話し合われていたことが良かったようにおもわれる。こういう機会でないと会うことができないなどあるようにも思えた。

この会場は9時までとかぎられていたので9時にお開きにしていただいた。歓談の余韻などそれぞれが尽きない思いを胸に帰られたようにも思える。

告別式は3月1日午後1時半から2時半に執り行われた。遠方から来られた方々、ご近所の方など多くの方に見守られて行なわれた。お坊さんの読経も告別式でのもの、同時に行なわれた初七日のものと長く続けられた。

親戚の方は2世代・3世代の方も多く来ていただいたので、小さなお子さんは飽きてきたようにも見受けられたが意外とおとなしかった。

告別式も終わり、暫らくの小休止の後、最後のお別れに、故人の周りに花を手向けそれぞれの思いを胸に冥福を祈る。この後直ぐに霊柩車を先頭に、2台のバスに乗り多摩霊園の隣にある火葬場へと向かう。

刻々と変わりゆく沿道の風景に見とれながら移り行く景色を眺めながらしばし時を忘れる。霊園を右手に細い道を行く、やがて目的地に着く。バスを降り係員の誘導に従い建物の中へ入る。棺が厳かに炉の中へ運ばれ扉か閉められる。

火葬に付すあいだ休憩室へ案内される、運ばれた飲み物、お菓子などをつまみながらそれぞれの思いを胸に感慨に時を過ごす。

1時間ほどで火葬され骨と化す。炉から出された骨を見つめ、係員の動きを眼で追う、やがて骨壷の置かれているところまで誘導され故人の骨を二人一緒に骨を箸でつまみ骨壷に移す。喉仏を真ん中に頭骸骨で覆われ骨壷の蓋を閉める。

遺骨は世継ぎ人に抱かれバスの1号車に乗り込む。一路柳澤禅寺へと帰路に着く。これもほぼ1時間を要した。お清めをしてもとの場所に戻る、用意されたお清めの膳に着く、一日の労をねぎらう。やがて1時間ほどで殆どの方が自宅へと戻られた。私もまず次男の家へ、暖かいお茶を頂き長男の運転する車で帰る。

大泉から高速に乗り三郷へさらに吉川へ、我が家に戻る。高速を使っても1時間10分ほど掛かった。26日から4日間気の休まる事のない日時をすごす、やはり疲れた。これから暫らくはのんびりした日をすごしたい。