メグブログ(美咲歌芽句)
Jeane+荒涼天使
 (ex.Mr.Kite)
 



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前回のブログで(つづく)としておきながら、すぐつづかないのが
亀の時間を生きている私の私たるゆえんです。

さて、私の魂を虜にした「日本神話」に透明感あふれる美しい色とにじみで、新しい息吹を吹き込んで、本当にタイムリーに今この時代によみがえらせたことには、何か神意が働いているような気がする。そしてやはりその人が日本人ではないというのが、最初の驚きだった。
マークエステルは1943年生まれのフランス人である。
1970年にフランス政府の外交官として来日し、初めて日本の土を踏んだ途端に、
日本の美しい国土と文化、そしてその精神性に一目で恋してしまったのだという。
そして京都の清水寺で見た掛け軸の墨絵に、衝撃と深い感銘を受けて画家に転身。
同時に日本神話を知って、日本中の「気」のある様々な神社を参拝し、そこで受けたインスピレーションを絵画に仕上げ奉納するようになった。
また天皇家の伝統儀式にも非常に魅惑されたという。
以来、古事記をはじめとする日本神話の素晴らしさを、世界に紹介し続けている。
世界の神話に詳しい氏によれば、どの国の神話も素晴らしいが、その中でも日本の神話「古事記」は、物語の宇宙的壮大さにおいて比を見ないものであるという。
私も世界のおおかたの神話は読んでいるが、まったく同感だ。
一人のフランス人によって鮮やかによみがえったこの「日本神話」は、
古事記がまさに世界最高の創世神話であることを証明していると思う。

人間は言葉で出来ている。
そして白状すれば、というか去年その事実に気づいたのだけど、わたしを「わたし」たらしめている言葉が古事記だったと。
古事記の世界は単なる昔話や空想の世界ではけっしてなく、私は確かに・・・
かつて「そこにいた」という気がするのはいったい何なのだろう。
古事記を読んでいると確かな感覚でよみがえってくるものがある。
とてつもなくリアルな原初の記憶・・・。
古事記は人類の記憶を刻み込んだアーカシックレコードなんじゃないのか。
そして、じつは人間誰もがかつてそこにいたのではないか・・・と。
なぜなら、人は皆神なのだから。
だから私は今ふたたび、宮島で出会ったこの古事記に回帰しているわけだけれど、
それもただ単に回帰するのではなく、私が私自身の次なる創世神話を生み出そうとする道行きのような気がしている。
つまり、新しい良き世界を・・・私の想念で。

今、一つの文明が終焉を迎えようとしているこの時代に、
私たちは立ち合っている。そして私たちはすでに書かれた神話の中に、今生きているのだという認識を、この機に及んでもまだ持ち得ていない人は
幸せと言うべきか、それとも不幸と言うべきか。
少なくともそんな人たちは皆一様に落ち着きがなく、漠とした不安と疑心暗鬼を
抱えて、ただ意味もなく歩き回っているように見える。
それに対して、認識できている人は私が「今、新しい世界を生むための
準備をしてるの」と言っても、けっしてきょとんとした顔はしないだろうし、
「精神科へ行ってみたら?」なんてことも言わないだろう。(笑)。

神道の世界観である古事記を、おばあさんやおじいさんから、その子や孫へ連綿と語り伝えてきて、その豊かな精神性を保ち続けていた戦前の日本人は、世界にも類を見ないほどの誇り高き民族だったけれど、敗戦によって一転して「西洋コンプレックスの塊り」となったのだ。
それはアメリカのGHQによって押し付けられた、「日本人としての誇りを失わせ、西洋文化を崇拝させるための洗脳教育」が見事に成功したということでもある。
その結果、日本的なものはダサイ、西洋のものはカッコいい、と刷り込まれた
我ら戦後生まれの哀れな日本人は、外国人を驚嘆させる伝統文化を放り投げ、
ひたすら西洋に憧れたのである。
家具というものをほとんど置かない清清しい空間と、温かみのある畳の部屋を、
ひんやりと冷たいフローリングにし、西洋風の家具を所狭しと詰め込んで、西洋人のように振る舞い、しぐさまで真似て、髪は茶髪金髪に染め、鼻はシリコンを詰めて高くし、一重まぶたを二重まぶたに整形してまで西洋人になりたがっているのだ。西洋かぶれもここまで来ると、もう滑稽を通り過ぎて空恐ろしいとさえ思う。
そんなに日本人であることが恥ずかしいのか? 哀れである。

ちなみに、私は20代の頃外国人の友人が結構いたが、彼ら全員が事あるごとに
私に訴えていた。
「どうして日本の若い女性は、美しい黒髪をわざわざ西洋人みたいに赤や黄色に染めるんだ。信じられないよ。僕たち外国人にとっては、黒髪の日本女性こそが憧れの的なのに。」と首を振って嘆いていた。
彼らにしてみれば、半ば西洋的なるものに空しさを感じ、日本的なるものに憧れてはるばるやって来たのに、来てみればみんな西洋かぶれしていて、がっかりしたというのが本音だったと思う。
昔も今も、外国で高く評価されるのは日本独自のものである。
だから余計なお世話かもしれないけれど、日本の若い女性たちよ、もし外国人の恋人が欲しければ、髪は染めない方がいいと提言します。(笑)。

でもそう言う私も髪こそ金髪にはしなかったけれど、人並みに大いに西洋かぶれしていたのだけど、それでもそんな私の心中に幸いなことに、いつも一本の柱のように立っていたのが古事記の世界観だった。
まるで日本人であることは恥ずかしいことだと、暗に思い込ませるような戦後教育の洗脳を受けて育った私も、その洋魂に違和感を覚える時は数多くあった。
そんな時、その催眠状態のような呪縛のような状態から、ふっと我に返って本来の自分に立ち戻ることが出来たのは、和魂の原典とも言える古事記の存在があったからだと思う。ロックバンドで歌っていた時でさえ、その柱は少しもぶれることはなく私の心の庭にに立っていた。

この画集は2006年に出版されているが、
ここまで深く日本を愛し、日本神話を理解するマークエステルという人の魂は、
和魂そのものであり、日本に深い縁(えにし)を持つとても古い魂だと感じる。
写真を見ても、その姿や雰囲気にそこはかとない品があり、波動も優しく
穏やかでとてもいい顔をされている。
実際に会ってお話してみたい・・・などと限りなく恋心に近いものを感じながら、
今夜も私は古事記(ふることふみ)の世界に、せっせと卵を産み付けている。
感謝の卵と喜びの卵を・・・
来たるべき新つ世(さらつよ)という新創世記のために。




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今日は東京では雪が降ったそうだけど、鹿児島はこのところずっと雨模様の日が続いている。
私は今夜も柔らかな春雨の音を聞きながら、机の上に一冊のずっしりとした画集を広げている。
マークエステルの「日本神話」だ。
最近はこの画集を見ている時が、私の至福の時間と言える。
この画集と出会ったのは、今年の初詣に出かけた広島は宮島にあるホテルのロビーだった。到着して手続きを済ませ、ロビーの一角に本棚があったので何気なく見ていたら、最上段に一枚の絵が飾ってあった。私はなぜかその絵にとても引き寄せられてじっと見ていたら、それはじつは一枚の絵ではなく、一冊の大判の本が立て掛けてあるのだと気づいた。
「何だろう?これ」と思い、やっと手が届く高さからそれを下ろそうとすると、厚さもゆうに4センチはありずっしりと重く、両手でやっと持つことができた。
それは日本神話の古事記を現代語で書いたものに、墨絵のぼかしの技術を使った色彩曼荼羅とでもいうような、けっして挿絵ではない「絵画」と合体したものだった。

ページをめくっているうちに私はすっかりその絵に魅了され興奮していた。
それは完璧なまでに私の心の世界そのものだった。
物欲はもうほとんどない私だけれど、本当に珍しく心の底から「ああ、これ欲しい!」と思った。でもすぐに、「おそらく何万円もしそうだから買えないよなあ」とあきらめたのだった。
ゆっくり見ている時間もなかったので、後ろ髪を引かれつつも「ああ、すごい画集に出会ってしまった」という感動と喜びで、こうして厳島神社にやって来たのも、この画集と出会うためだったのかもしれないと思ったのだった。
宮島は美しく、人なつこい鹿たちがゆったりとその風景に溶け込んでいるのを眺めたりしながら、大晦日からの3泊4日の旅はあっという間に過ぎた。

そしてちょうどきっかりの1ヵ月後・・・奇跡は起こった。
2月1日の私の誕生日に、なんとこの画集が届いたのだ。
これを奇跡と言わず何と言うか?
発送元は第十神界。 差出人はアマテラスオホミカミ。ってか~。
まさに仰天! 天を仰ぐ。
かわいそうにニーチェは「神は死んだ」と言って、ついには発狂して死んでしまったけど、私は「神はいる」と言って、うれし涙にくれたのだった。
神さま、ありがとう。無限のありがとう。
かように、西洋の神は死んでも日本の神はけっして死なない。
それは外にいる神と内にいる神の違いである。これは決定的に重要だ。

もしも、どこかの離れ小島に長期滞在しなければならなくなった時、あるいは、もうこの地球には住めなくなって、どこかの惑星に移住しなければならなくなった時、はたまた、かなり近いような気もする次なる大洪水の前に、現代の“ノアの箱舟”に乗り込まなければならなくなったとしたら・・・。
その時、二冊だけ好きな本を持っていけるとしたら、私は迷うことなく「古事記」と「万葉集」を選ぶだろう。
この二冊は昔からの私の座右の書なのだけど、このマークエステルの古事記はまさに決定版で、私の一番の宝物となった。 (つづく)


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瀬戸内海 宮島近くの神小島



人間は本当は
この地球上に たったの一人しかいないんじゃないか。
他者など存在しないんじゃないか。と思うことがある。

見知った人も見知らぬ人も
街角ですれ違う人も
あーちゃんもけんちゃんも
みづ紀もココもミュウも・・・
過去に会った人も これから会う人も
ある日突然ネットの海で遭遇する
その言葉のみで形成された ホログラフィックな人も

いやいや、そんなもんじゃない
地球上のすべての人間
善人も悪人もひっくるめた すべての「魂を持った人間」に対して
なぜかみんな自分のような気がして
とても奇妙な感覚に陥る一瞬がある。
ただし、この地球上にはもともと「魂を持たない人間」がいる。
彼らは人間の姿をしているが、人間ではない。
邪悪な存在。
そんな「人で無し」は例外として。

それは、他人と自分は
どこか根底では共通の意識でつながっているという感覚。
人間の一人ひとりの意識は、例えるなら人間の体の細胞の一つひとつであり、
張り巡らされた脳の神経細胞、シナプスのつながりのようなもので、
それはいわば「魂のネットワーク」なんじゃないかと。
カール・ユングはそれを集合意識と呼んだのだけど。
そしてそこには細胞の、あるいは魂の集合体である一個の巨大な存在が「在る」。
つまり、そこには「一つの意思」が存在するということであり、
人間は皆、その大いなる一つの意思に貫かれているということになる。

私が他人だと認識している「あの人」あるいは「あなた」は、
本当は自分なんじゃないか・・・という感覚は、いったいどこから来るのだろう。
それはたぶん、遠く不可思議の領域から瞬時にやって来るのに違いない。

「人間は本当は
この地球上に たったの一人しかいないんじゃないか。
他者など存在しないんじゃないか。」

ワタクシ、一匹のミジンコはそんなことを思い
陸の存在も銀河の存在も知らず
それでも今日も生かされて、
元気に水の中を泳いでいるのでした。


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沈黙の中でこそ わたしは最も饒舌だ
沈黙の中で わたしは対話する
わたしが沈黙するとき それは立ち現れる

いえ、本当は
原初からそこに在りつづけているのに
会話の際には 感知できないだけ

それは名無しの存在
絶対の意思
それは父性と母性の合体した
一本の石の柱・・・意思の柱となって
わたしの心のゆにわ(斎場)に立っている

それは、わたしの過去と未来の
すべての思考を記憶し
わたしのすべての行為を記録する
アーカシャの海に
虚空に浮かぶ 永遠の海に
その冷たく柔らかい 光る水に

それが不在であったことなど
一度も無いのだ
かつても これからも


沈黙と饒舌の中で
わたしはひとりではない



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対話  


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朝・・・といっても昼近く、
うぐいすの初鳴きに目覚め、庭に出ると暖かい南からの強風に、
満開の梅が花吹雪となって舞っていた。待っていたよ!春一番。
その風は、なぜか飛鳥時代の匂いがした。
春キャベツとブロッコリーのサラダを山盛り食べて、お風呂を洗いながら、
いつものように対話した今日のメモ。

私たちは言葉をコミュニケーションの手段として、人と会話している以外の時は、
自分の頭の中でいつも自分の心と「対話」している。
この「対話」についての考察。

この内なる存在との対話は思考、つまり想念なわけだけど、
内なる存在と対話しなくなると、人は自分を見失う。
私の認識では、内なる者とは内なる神であり、良心(良神)
ということになっている。
そして、その想念は必ず実現する。つまり想念は「物質化」すると。
これは量子物理学との、いわば「科学と心の結婚」にも行き着くのだけど。
私が30代の頃から一貫して恥ずかしげもなく、へたくそな歌や詩や和歌を通して人々に提示し伝えたかったことは、まさにこのことに尽きる。
私のこの直感のみに頼った確信からすれば、普段私たちが会話ではなく沈黙している時、心の中で様々なことを想っている、
その想念が今この瞬間の世界を表出させているのだと。
だから今私たちが存在しているこの世界は、私たちの想念の物質化したものに他ならない。

その証拠に、人間の想念の変化とともに世界は刻々と変わり続けていて、
一瞬たりとも静止することはない。
つまり未来は決定してはいない。これは重要なこと。
予言が外れるというのは、こういう理由によると思う。
ならば・・・ならば、結論としては
私たち人間は悪い想念ではなく、良い想念でもってこの世界を、天国や浄土や地上楽園やユートピアや、
はたまた、神の世、弥勒の世・・・などと呼ばれている世界に変化させることが出来るということである。
未来はまさに私たち一人ひとりの想念にかかっている。
これは、やるしかないでしょう。

よろしく頼むよ、人類。


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先日の立春の朝、起きぬけのまだ朦朧とした頭で庭に降り、一段とキラキラしさを増してきた朝日を仰いでいると、ふいに妙なる香りに包まれた。
突如として天女が私の隣に立ったかと・・・錯覚した。
ゆっくりと首を回すと、玄関前の大きな梅の木にまあるく膨らんだたくさんの蕾とともに、五弁の白い花がちらほらと開いているのを見つけた。
殺伐としていた冬枯れの庭に、どの花にも先駆けて咲く梅の花は、なんだか新つ世(さらつよ)の使者のようで大好きです。
それに我が家の梅は毎年、旧暦の正月であり神界の正月でもある立春の日に、きっちりと合わせて花を咲かせる。不思議です。
言霊としての梅は、おそらく「産む」から転じる「産め」であると思う。
梅の花はまさにすべてのいのちが「張る」ところの、春の音連れ(おとづれ)です。
見ているだけでしあわせになり微笑まずにはいられません。
“三千世界いちどに開く梅の花”
いよいよの時代になりました。

ずいぶん長いことブログを更新しなかったのは、体調が悪かったのでも落ち込んでいたからでもありません。
私の脳内の無数の部屋は、普段はせいぜい三部屋ぐらいしか使用していなくて、そのほかの部屋はすべて開かずの間になっているのですが、それらの扉が去年の秋頃から、何かのはずみでいっせいにバタバタと開き始めたので、私はすべてのやるべき事を放り出して、今毎日その開いた部屋の中の様子をチェックして回ることに、孤軍奮闘している状態なのです。
あ~~、うまく説明できないのが辛いところ。
そんなわけで、元来の筆不精にさらに輪を掛けることになり、皆様にご無礼とご無沙汰の続行中です。ごめんなさい。

私は心身ともに滅法元気です。
特に心の状態には一点の迷いも悩みも不安もなく、二年ほど前までは坑うつ剤を飲み続けていたことが嘘のよう。
心が平穏で平和でありさえすれば、すべてはオーケー。
生きているのがうれしい。
生きているのがありがたい。
私はもともと陽気なタチなのだけど、最近は「あたしって女版土屋賢二だったのかしらん?」と思うほど、いつもころころと笑っているので笑いジワが増えました。
そして「類は友を呼ぶ」の法則により、私の周りに楽しい人が集まってきて、ほんとにうれしい限りです。

みづ紀、吉澤君、創士さん、真弓ちゃん、聖二君、スチュ&ココ、ジョゼ、マスミ、藤井さん、けんちゃん・・・その他メールや年賀状やお手紙いただいて、まだ返事を書けないでいる皆様、ほんとにすみません。
今しばらくお待ちください。

言葉よりも会いたい。

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ひさかたの天(あめ)の都はここにある
トーキョー・シティ 堕落した瑠璃光浄土
美しくも無慈悲な表現主義者
あるいは無気力な快楽主義者
トーキョー・シティ 今はただ
十月の絹の雨のように 静かに泣くがいい
この日の本の聖なる龍体の上に
我良しで築き上げた 極東の摩天楼や
マネーゲームのジャンキーでしかないヒルズ族の夢は
アメリカの幻影とともに
今朝 私がゆで卵を食べている間に
腐ったマンゴーのように崩壊した
ほら 見てごらん
駅前で号外を配っている男の顔には
押し殺した笑みさえ見える
「世界大恐慌」の大見出しに
みんな結構ワクワクしてる
台風と遊ぶ子供みたいに

心のどこかで私たちは
何かを早く終わらせたいと思っているんじゃないのかな
何かが壊れることを待ち望んでいるんじゃないのかな
きっとそう たぶんそう
ブラックマンデーにはいつものブラックコーヒーを
私は驚かない
それはすでに書かれた物語
唯一絶対の宇宙の歯車は回り続け
いつだって歴史は淡々と予定通りに進んでいる
淡々と淡々と
それを私は「神業」と呼ぶ
あるいは「因果応報」・・・つまり「宇宙の摂理」と
なにも恐れることはない
すべてのことは かんながら
かんながら行くマイロード
受けきって生くマイロード

新しい襟 えりすぐられたニューヨーク
そこはアメリカであってアメリカではない
チェルシー・ホテルとその住人たちへの憧れ
それはなんと敬虔なものだったことか
堕落と快楽の中に
痙攣する美と反転する真実を見た私は
真夜中の高円寺駅の高架下で
自虐と創造の神とファックして
言葉をはらみ そして産み落とした
生暖かい胎盤と羊水と血にまみれた
死と詩を・・・
その詩は神が翻訳する

今夜また 一匹のニューヨークのコヨーテを想う
魔女で聖女 シャーマンで巫女であるパティ・スミスを
彼女の髪が黒かったことは重要だ
インディアンやアジア人とのつながりに於いて・・・
その声は自分が神だと知っている者の声
類まれなるその声の力によって
ジーザスはあっさりと殺され
その呪縛から開放された人々は歓喜し
自分を信じようとしない空虚なキリスト教徒たちは震撼した
そしてパティは新しい時代の女神になった
今さらながら私はパティに敬礼する

金木犀の香りする この天(あめ)の都に吹く風は
時代と私たちのカルマが交尾して産み落とした
パンクスやロッカーズの痙攣と叫びを
今夜 神話と伝説の中に埋葬してしまうのだろう
スクリーンに甦るのは過去の私たちじゃない
スクリーンは鏡
そこに映るのは今のあなたたち
なぜなら わたしはあなたで、あなたはわたし

はるか遠く
北極星をいただいて 星の船はゆく
もうすぐ沈むとわかっている船に この世界に
自ら選んで乗り合わせた私たちは
まごうことなき人類の最終ランナー

56億7千万年の 神の見る夢の中で
この宇宙の始まりの一点
虚無という暗黒の宇宙に
ボチッと生まれた白の一点
神のザーメンのひとしずく
そのとき神は「あ」と言ったか
その一点は「ア」 言霊の「あ」
そこからすべては始まった
「あ」・「うん」・・・ アルファからオメガへ

私たちの親のそのまた親の
その根源に元返る祖先から引き継いだ
この命のバトン・・・委ねられたバトン
この引き継がれた生命(いのち)の
最終ランナーである私たちロッカーズの
あれは命がけの悪魔祓い
禊(みそぎ)の儀式だったと 見抜いた人は幸いだ

ああ 今また
無垢であっけらかんとしたこの十月の空の
あの白くふわふわした羊雲の間から
漂流人の吐いた言葉が銀色のブーメランのように戻ってくる
「墓に唾をかけるのか それとも花を盛るのか」
天に唾を吐いてみればわかることさ
私たちの見ている世界は
私たちの心の写し鏡
私たちの想念が作り上げた世界
誰のせいでもない
いつまで人のせいにするのか
いつまで社会のせいにするのか
意識が変われば世界は変わる
私は改心した そして世界は変わった
あなたはまだそこにいるの?

晴れた日に
カモたちの泳ぐ池にボートを浮かべていると
太陽が催眠をかける
太陽の活動周期はサイクル24にはいった
今日の黒点の数は18
私は強烈な睡魔に襲われて失神する
そして太陽の波動は私の
私たちニンゲンのDNAを書き換え
脳波に変化を起こす
私たちは変容するだろう
空を飛ぶものと 地を這うものに分かたれて

その夜 私は死んだように眠り
目覚めるとそこに新しい朝が降りていた
スズメのさえずりが 夜の時代の終わりを告げる

   「天(あま)照らす 日出づる国の 民草(たみくさ)は

             朝日に向かって 歩くがいい」

私は夢から覚めて あなたに「おはよう」と言う
夢は終わった 夜よ、さようなら
ヒーローたちはことごとく夜の闇に消滅し
今 アタリマエの日常とアタリマエの人々の上に
祝福の光が射すのを見る
私は準備しよう
反転する新しい世界に備えて
次なるステップへ行くんだ

振り返るな、闇の世界を
ただひたすらに光を目指せ
そして自ら光となれ
私は目が覚めて
今、もうひとつの太陽を見つけた
私の内なる太陽を
光よ、ありがとう ロックンロールよ、ありがとう
今ここに この瞬間に生きている
生かされている私たち
これがたったひとつの奇跡


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10月25日(土)、シネセゾン渋谷での「ROCKERS 完全版」上映初日、
東京ロッカーズ関係者のトーク・ショーが予定されていましたが、急きょ
トーク・ショーは31日(金)に変更になりました。
そのため私のポエトリー・リーディングは入れ替えに25日(土)になりました。
当日は「青い部屋」とのダブルブッキングになってしまったので、あわただしい夜
になりそう。
ちなみに「青い部屋」では、ペニー・イキンガーの演奏の前にやります。
出演時間は夜10時15分頃の予定。

9日には上京するので、今荷造り中で部屋はぐちゃぐちゃ。
11月5日まで滞在します。
井の頭公園の池に架かる橋のたもと、葦の茂みの中で、なぜか私が通ると必ず
「モー、モー」と鳴いてくれる、姿無きウシガエルの“モーさん”とも
また会えるのが楽しみ。
東京はもう結構肌寒いんだろうなあ。
荷物にセーターを入れようかどうしようか・・・。 


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ここ3日ばかり、庭師さんに来てもらって草刈りや庭木の剪定をしてもらっています。
先祖が残してくれた土地は中学校の敷地に隣接しているために、何度かにわたり一部を
市に買収されたけれど、それでもまだ結構な広さがあるので、草刈りだけでもまる一日かかる。
屋敷全体をぐるりと取り巻いているヒイラギや正木(まさき)、一つ葉(ひとつば)の
生け垣を剪定するのに二日がかり。あと枯山水の庭や、日本的美意識にのっとり人為的にフォルムを作られた、
一つ葉やツツジの木の剪定などにまる一日と、合わせて4日くらいはかかる一大イベントとなる。

加えて庭師さんは朝が早い。早朝8時半にはやって来るので、夜型生活者の私にとっては  
かなりきつい。眠い目をこすりながら起きて、10時と3時にはお茶とお菓子と漬け物などを
出します。都会ではもうとっくの昔にこんな習慣は廃れていると思うけれど、田舎では
まだ誰が強いるわけでもないけど、なんとなく当たり前に存在しています。
これを5月頃と11月頃の2回は最低やらなければならないので、その出費もかなり大変です。
ビンボーな私としては、いっそのことやめてしまおうかとも思うのだけど、親の代から
かかりつけにしている庭師さんは、もうウチの庭を自分の管轄下と認識していて、頼まなくても
剪定の時期が来ると様子を見に来て、「そろそろ、やりましょうかね」と言ってくるので、
むげに断るわけにもいかないのです。

それに家の中は当然の事ながら、庭がぼうぼうの荒れ放題というのは、やっぱりその住人の
“たたずまい”や心の状態を写し出すことでもあるし、あだやおろそかにはできない。
“たたずまい”というのはとても大切で、その感覚的な言葉の中には、その住人の生き方や
人生に対する姿勢、考え方までもが内包されていると思う。
同じく、“居住まいを正す”という言葉にも、とても日本的感性を感じて好きな言葉です。

足し算的にゴテゴテと飾り立てる西欧的美学(世界的美学といったほうがいいかも)とは
対照的に、余計な物を引いて引いて引き尽くし、本当に必要な物だけを残すという日本人の
引き算的美学は、ことのほかうつくしく潔く、そして清々しいのです。
この独特の美学は世界中のどこにも存在しません。
そのような潔い引き算的空間で生活している限りは、けっしてうつ病などに陥ることは
ないと感じます。
現代の日本人は「ウサギ小屋」と揶揄される狭い家や部屋に、溢れるほどの物を詰め込んで、
その物の放つ悪磁気に犯され、喰われているというのが実状でしょう。

折しも昨日友人のココがブログ「猫額洞の日々」に、“しぐさのうつくしさ”について
書いていたけれど、しぐさもやはりたたずまいや居住まいと同じく、その人の生き方や
人生に対する姿勢の表出であり、意識しなくても自然に内面からじわじわと立ち現れるものだから、とても大事です。
う~ん、結局のところ、やっぱり“品格”というところに行き着いてしまいます。
そうです。何をするにも品格がないとダメです。品格だけはお金では買えません。
なぜならそれは魂の格の問題だからです。

秋雨前線の影響で今日は雨・・・。
庭師さんが昨日置いていった長い脚立が、庭の隅に横たわって雨に濡れている。
台風15号もまた急ハンドルを切るように進路を変えて、こっちへ向かっている。

さて、先日久しぶりにブログを更新したら、それを読んだ鳥井賀句さんから早速メールが
来ました。
現代オーストラリアのオルタナティヴ・ロック・シーンでカリスマ的な人気を集める女性シンガー&ギタリストの
ペニー・イキンガーという人が来日して、10月22、23、25日の3日間
「青い部屋」でライブをやるので、その時に詩の朗読をやらないか、というお誘いでした。
ありがたくお受けしたのだけど、3日間はさすがに多すぎるので2回だけ出演させてもらうことにしました。朗読時間は10分ほどですけど。
私の出演日は
10月22日(水)と25日(土)
場所はいずれも渋谷の「青い部屋」
詳細はたぶん近々賀句さんのブログGAKUS GARAGEにUPされると思います。
興味のある方は、どうぞお越しください。


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黄金色の稲穂の海を風が渡り、その波はまるで常世(とこよ)の波の押し寄せるごとく、私の記憶を人類共通の記憶に溶け合わせてしまう。そして、その波に意識をたゆたわせているうちに、私は巫女になり言霊を降ろす。わたしはあなた。あなたはわたし・・・と。
今年、二十年(フトドシ)の稲穂は重く、うやうやしく頭(こうべ)を垂れている。きっと豊作でしょう。その敷浪寄せるあぜ道に、炎のように咲き群れる真っ赤な彼岸花は、どこかあの世の花のようで美しくまたなぜかこわい。
昔、自分が詠んだ歌を思い出した。
「いのち燃ゆ 赤きほむらよ 曼珠沙華」

昨日はお彼岸でしたね。
皆様、お元気ですか?
ずいぶん長いことブログを更新せずにいたら、生存確認の電話やメールをいただきました。ご心配をかけてすみません。私はお陰様で元気に生かされています。有り難いことです。私のような社会のはみ出し者でも、こうして生きていることを許されて、生かされているということは、それなりにきっと何か役目があるのでしょう。せめて悪のお役目でないことを祈っていますが。
願わくば「あの人でさえやれるんだから、あたしにだってできる」と思ってもらえるような、そんな存在になれたらうれしいな。

ブログを書けなかったのは単に忙しかっただけなんですが、ひとつはパソコンの問題もありました。今まで使っていたのは中古で買った旧式のmacで、動作が異常に遅くてYOU TUBEも見れなかった。そしたらある日、見るに見かねた心優しいお方がドーンと、新品のWindows Vistaをプレゼントしてくれたのです。それもノート型ではなく大画面のデスクトップ型。さすがに速い!そして画像がうつくしい!うれしくて感激しました。
初めて会った時にもそうでしたが、その時にも、その方が一瞬天使か神さまに見えたのですが、お付き合いしてみたらやっぱり天使で神さまでした。でもその後、macとWindowsでは文字変換の方法がまったく違うので、そこでもたついて今日に至っています。やれやれ。そこでまた、いくつかの言葉が浮かびます。
「猫に小判」とか「豚に真珠」、「サルにパソコン」などなど・・・。

さて、10月にはまた上京します。
昔、昔、そのむかし「東京ロッカーズ」と呼ばれた輩がいて、私もそのうちの一人だったわけですが、そのドキュメンタリー・フィルム「ROCKERS 完全版」がDVD化されて、この秋シネセゾン渋谷で上映されます。その際にポエトリー・リーディングをやってほしいという要請があったので、とりあえずはそれを理由の上京です。
私としては人生を山登りに喩えるとしたら、当時のことは山の五合目あたりの出来事であり、今はもう九合目あたりまで来たと思っています。つまり若さを失った代わりに何かを見つけて、当時よりは多少なりとも進化してるという思い、あるいは思い込みがあるので今さらという気もする。
けれどおそらく相当前からこのイベントを計画し、多額のお金も注ぎ込み奔走する主催者Iさんの人柄とその情熱が、いつも私に「いいよ」と簡単にオーケーさせてしまうのです。たとえ軽いと思われても、こういう感覚は大切にしたいと思うのです。
それに私はもともとあまり物事にこだわらないタチで、いつもニュートラルな状態でいるのが好きなのです。固執せず執着せず、人に対しても時代に対してもいつもニュートラルでありたいと。

今、時代がある一点に集束されるかのように、猛スピードで変化しているからには、ニンゲンも変化することを求められていると思わざるを得ません。
「あなたは、まだそこにいるの?」と言われて意味が分からないのは、かなり寂しいことのような気がします。
そんなわけで当日は、昔むかしのジーン(メグ)さんじゃなくて、今のメグさんの詩を朗読します。書き下ろしです。でもまだ何も書いてませーん。これから書きます(汗汗)。
ちなみに、私の出演日は
10月31日(金)。レイトショー上映前に15~20分ほどの予定で、ポエトリー・リーディングをやります。今回はドラムスのあーちゃんこと荒木康弘(EX.アレルギー、P-MODEL)とのセッションです。お楽しみに。

あと、この「ROCKERS 完全版」の他に
10月11日(土)より、2週間限定上映で「THE PUNK ROCK MOVIE」もあります。詳細は劇場までお問い合わせください。


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