河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

見えない世界

2017-08-27 22:05:55 | 絵画

「目に見えないものは信じない」と言う人は多い。その方が現実的で知的であると信じている。幽霊とか死後の世界であるとか、地球外生物であるとか、言い出すときりがないが、逆に見えているものはどれほどあるだろうか?

言葉の観念はどうだろう?見えないと思うが、その言葉が意味するところを利用して会話をし、物事を理解しようとしている。しかし見えないものは信じないとするならば、言葉の世界は信じられないことの一つということか?人はどういう捉え方をして他者と付き合っているのだろう。言葉を見えるものとして考えている人たちが居るとすればどうだろう? 文学は言葉を捉えて、架空の世界を作り出して人をその世界に引き込む。この方法なしに相手に何か伝えることはできない。複雑な意味を持つ内容であれば、我々はこの日常の現実世界でも、注意深く言葉を選んで何か伝えようとする。言葉をうまく操る人には感心する。「はあ、こんな言い方があったのか」と。文学作品のリアリティに優れた表現の芥川龍之介の文章を読んだとき、言葉の次から次へと飛び出す感性に引きずり回された気がした。そこに「世界が見える」気がしたのだ。

文学も美術も表現は錯覚で伝えている。美術は言葉ではなく形や色彩で伝えている。やはり「ないものを在るがごときに伝える」ために技巧や技法が必要であると、私は信じている。音楽も歌を歌うにせよ、楽器を演奏するにせよ技巧や技術が必要だ。音痴が歌えば聞く方は感覚が拒否して、耳障りなものとして受け止める。音が作り出す世界を感じ取る以前の問題だ。

私には音痴の世界に似たようなものがあって、先にブログに述べた「現代美術と現代アート」について、現代アートが持つ宿命的な性格故、美術でもないのに美術館で展示したがり、視覚のみならず、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などにいたるまで、フルに使って表現するというジャンルを「音痴」と同じに感じているのだ。しかし私が音痴だと言う人もあるだろう。世界でこの観念的な表現が今や「現代美術」の主流のように扱われているから、あまり現代アートに反感を感じているように書くと「排除」されるだろう。

どうしたものか?現代アート作品から「何も世界が見えてこない」のだから、私が音痴とおなじ、感覚的不能なのか? そこで「目に見えないものは信じない」というセリフは、自分に向かってくる。現代アートは目の前の「物の形、色彩などの視覚的なもの」が言いたいわけではなく、私のような素人には目で見ただけでは分からない。いや分かるためにあるのではなく「感じるため」ものなのかもしれない。しかし「私は分からない」という意味では「感じ取れない」ので作者や学芸員に聞いてみる。で、話を聞くと余計に分からなくなって・・・・。

そこで頑張って分かろう(感じよう)とすると、早死にしそうだ。長生きするのは現代アーティストと学芸員だ。私にはそこに世界を感じない以上「目に見えないもの(世界)は信じない}ということになる。

まあ、しかし実は私は星占いとか手相、姓名判断は大好きだし、バロックの巨匠のレンブラント、リューベンス、ベラスケスが私と同じかに座だと知ったときには狂喜して喜んだ。宇宙人にもあってみたい。ついでに天国や地獄に行ってみたいし、神様にも会ってみたい。

西洋美術館の地下の倉庫やトイレにはいっぱい出るそうだ。ある時ヤマト美術梱包の人夫が新館のトイレから血相を変えて帰ってきた。「いるいる、いっぱいいる・・・」。倉庫で大工仕事をしていた職人が食後の昼寝をしたら、金縛りにあったと。私はその隣の修復室で徹夜で修復をしなければならない仕事で、ちょいと朝方横に成ったら、やはり金縛りにあった。「何でも言うことを聞くから、無事仕事を終わらせてほしい」と拝んでおいたが・・・。西洋美術館の敷地はもともと徳川家大奥の女性たちのお墓があった場所に建てられているので。

あるとき、職人と一緒にエレベーターに乗ったら、「ここにもう一人乗っているよ・・・」と言う。「ひょっとして着物を着た日本髪の女性かい?」、彼は「そうだ」と言う。彼の弟はもっと色んなことが見えるという。彼らのおばあさんは青森のイタコだそうで、家族みんないろんなものもが見えるのだそうそうだ。私も見えるといいなあと思ったが、車を運転すると、知らない女性が隣に座っていたり、ふいに飛び込んできたりするから、運転できなくなる・・・そうだ。しかしもし見えたら、今描いている自分の絵の世界は大きく変わるだろう。私は今目の前に見える「生きている世界」に対して「死後の世界」が気になって仕方がない。だからそれなりに「半分死んだような世界」をつい描いてしまう。

「見えない世界」だからこそ知りたいと思う。描くことは知るためのプロセスだと勘違いさせる。生きている時しか描くことはできないが、一方で真実がどうであるか知ることはできない。まあ、自分の人生において重大な関心事がこの程度であってよかった。

貴方には「見えて欲しい世界」がありますか?

 

 

 


絵を壊すのは学芸員と修復家である

2017-08-06 01:02:34 | 絵画

美術館で運営を行っているのは学芸員であるが、美術作品を直接扱う担当者、つまり修復家がいないと学芸員が展示方法や収蔵方法、そしてそれらの作品を修復すべきかどうか、また外注の修復業務をだれにするかを決めたりするのも学芸員である。学芸員はもっぱら美術史の専門であり、資料文献を探して、机に座って読んだり、記事をまとめて紹介文を書いたりするのが仕事である。学校で美術史を専攻していた時に絵を描く作業を単位の為に履修する芸大のような大学もあるが、趣味人以下の能力しか持たない。だから美術品の成り立ち、技法材料はほとんど知らないし、興味を持っていない。

しかし、彼等が所蔵品となる美術作品を購入するときには、「物としての知識や感性」が要求されるから大変である。つまり「目利き」であることを要求されるのだが、これは長い時間をかけて本物を見て歩き、頭の中に「本物」を叩き込んでおかねばならない。机に座って「人が書いた本を読んでまとめる」ことばかりやっていると、印刷された白黒写真でしか、対象となる作品を見たことがなかったりする。恐ろしいことだが。それでも何となく「知っているような文章」を書けるのだから、もっと恐ろしい。だから「目利き」はイメージの中でしか理解できないであろうし、「本物」であるかどうかも、「何となく・・・」という判断でも、彼等には決して背信行為であるとは思えないのである。

彼らの能力の問題になる、この傾向は大学教育が欧米の理念と内容とかなり異なるから、仕方がないともいえるが・・・・欧米の研究者と面と向かって美術品について語ったことがないからであろう。そうすると「語学力」もの問題も浮上する。日本の美術史研究で求められるのは、外国語の読解力であり、翻訳までである。決してシンポジュウムで持論を発表して世界に打って出るなどとはしない。いや出来ない。

国際シンポジュウムで自身の論文を発表するには、語学力のみでなく、欧米の研究者にない「ものの見方」つまり独自の洞察力が必要であろう。さもないとシンポジュウムに呼ばれることもないから。まあハードルを上げても仕方がないが、少なくとも自分の立ち位置を見ることが出来る「合理的な理性」を持ってもらいたい。さもないとこの国のほとんどの美術館に保存や修復担当者が居ないから、美術品の運命が危うくなっている。

私の周辺にも頭の良い者は大勢いた。大学教育や論理的行動規範に欠陥が無ければ、この国の美術学会が何故に低俗なレベルで留まっていることもなかったであろうと思う。現代では「知識や感性」を補うために様々な手段があることを、大学の教授たちは学生に教えられないし、また自身が試みていない。つまり美術史を学ばなむても、科学的手法でアトリビューションは行われている。そればかりではなく、様々なぎじゅつや材料から時代特性も、広く全般に行われている。文献資料から美術史の流れを推論して確定する旧来のやり方はもはや時代遅れになっているのに、この国では一向に改まない。しかしもっと合理的な考えを持てば一気に流れが変わる可能性はある。

一つには若い者が留学によって欧米の大学、大学院、そして博士課程を経験として過ごすことだ。欧米の研究者の感覚に出合えば、おのずと基準も変わるであろう。勿論、語学力も付くし、実際の作品と触れる時間も確保できる。そこで優れたものは帰国しなくなる恐れはあが・・・。まあ帰国する前に、現地の美術館や研究機関で職に当たることが理想的だ。そうすれば帰国して日本の現状を変えられる。しかし単独ではだめだ。この国で何かするためには、ある程度の人数が必要だ。なぜなら突出すると必ずパワハラに会い、排除されるからだ。

私は西洋美術館にいるときには、「業務の専業化」を主張した。互いに専門分野で切磋琢磨して、お互いを尊重する「個人主義の基本」だ。ドイツでは当たり前のことだったが、私は「修復原理主義者」と言われた。何が「原理主義」か良く分からない者が、私の「専業主義」を揶揄したのだ。美術史系の学芸員が「調査研究に」に専念することが出来ると思っての発言も、「今までの流れを変えるな」という保守的な考えにつぶされたのだ。現場の現状を考えて未来志向しない者が大勢いる。

学芸員は美術館業務の専門家のように思われているが、決してそうではなく、一部分を請け負っているに過ぎない。だから専業化が必要で、現場主義が不可欠なのだ。現場主義こそ合理的で、美術館の発展性を担保する。

何やら昨今の獣医学部新設に話とよく似ている。獣医学会や現場の医師は「いらない」と言っているものを、外野の者たちが必要だと言っている。皆、安倍信三の応援団だが、「そこまで言って委員会」という読売系の番組で、獣医師二人をそっちのけで、おやじたちが言いたい放題で「獣医師は足りない」とか「文科省の反乱だ」どいうような批判ばかり言っていた。当の獣医師は「今のままでは獣医学科の教授が足りなくなって、まともな教育が出来ない」「日本の獣医は国際基準に達していない」、新しく獣医学科を作って「もっと悪くなる」「失業者が出る」と言っているのに、安倍自民党が加計学園ありきのビジネスの都合に合わせてやっていることをまるで当然ななことだとおやじたちはそれぞれ意見を言う。どれも現場のことは無視する政治の在り方そのものだった。連中はお金をもらって、加計に補助金(税金)が流れるようにしてやろうとしている。私は猫20数匹の面倒を見ているが、この浜田で4軒の動物病院があるが、当初猫たちの不妊、去勢手術を頼んだ医師はひどい藪で、いつも紋切り型の診察を行って診察料を取る。手術では傷口がなかなかくっ付かないで、ひどいときは二か月近く通ったが、私が傷口に人間の薬を着けて直したのだ。他の医師に見てもらって、初めて気が付いたが、最初の医師は切開するのに電気メスを使っていて、傷の治りが悪いのだ。しかも7か所以上も縫う。二度目の医師は3か所しか縫わない。しかも傷口を舐めないように、首につけるエリザベスカーラーも不要で、傷は3日目にはくっ付いている。この差は一体何か?この国の獣医のレベルは国際基準に達していないというのを聞いて、うちの猫たちに災難に遭わせてしまったと思う。獣医学部が必要だという者たちにレベルを考えろと言いたい。

現場に目が向かないととんでもないことになる。学芸員も「専門家」であるというのは難しいほど、実体の理解から遠い者が多いので、美術品の扱いまで、頓珍漢なものが生まれる。ある時イタリア美術展で借用した大理石の彫刻を、私に向かって「素手で触るな、白手袋をしろ」と言った若造が居た。それをヴァチカンの彫刻の修復家が聞いたら怒ったに違いない。「手袋を取れ!!」「手袋は滑る、滑って落としたらどうする」と。修復家にしたら「手で触った汚れを取るのは簡単だが、壊したものを修復するのは困難だ。壊さない対応が大事だ」と。美術史系学芸員の優越感が物を壊すだろう。この若造は芸大で美術品の扱い方を講義している。

修復家が美術品を壊すことも似たような問題がある。

いつの間にか、この国にも修復を大学で教えるコースが出来ている。勿論ニーズはあるから、専門教育が必要で、高等な技術を身に着ける機会が海外留学だけというのは、手間とお金がかかりすぎる。しかしこの国で誰が教えるのか?欧米の大学のコースでは、すでにインストラクターは山ほどいるため専門性に応じて講師を海外からも呼ぶことが出来る。この国に出来た学部は海外から講師を呼ぶこともしないで、未熟なレベルで僅かな教授(教授と呼ぶにふさわしいかどうか)で構成している。そこからもし自称修復家が(この資格は公的に定めがないから、名乗るのも勝手)あちこちで修復を始めればどんなことが起きるか目も当てられないのだ。大事な文化財もこれらの手にかかれば未来はない。

一月ぐらい前であろうか。NHKのBSチャンネルで放送されたと聞いたのだが。(残念だが私は実際に見ていないのだ)ある女性の修復家がヴェトナムの紙に描かれた絵画を修復していたと友人から聞いてこの記事は書いている。世界的に活躍していると言われるこの女性は、相当傷んだ紙に描かれた絵画は厚い台紙の上に貼られていて、それをじゃぶじゃぶと大量の水を使って台紙からはぎ取っていたという。本紙は薄く保存状態は非常に悪かったという。それをはぎ取った後、今度は越前和紙で裏打ちしたという。その裏打ちに供した越前和紙はおよそ一畳の大きさがあり、1600x800mmほどの本紙の大きさを一度にカバーする大きさだという。(これは普通、絵を描く画仙紙と私は推測した)この紙を三種類の色に染めて、持ち主の意見を聞いて、一点選択したという。色を付けたのは紙の色が白いと本紙の欠損部が穴が居ていて表から白く極端に見えるからだそうだ。

ここで私はこの修復処置と言われる行為に悲鳴を上げた。

①まず本紙が台紙を除去した時点で、そうとう傷んだ状態だったと聞いて、台紙の除去が適切な選択だったか、また除去方法が適切であったかどうか、考えさせられる。現代の修復は可能な限り危険な処置は行わないというのが常識だからだ。(テレビ番組としては面白くなかっただろうが)。②それから裏打ち方法について、最もやってはいけない方法であるが、本紙より厚い裏打ち紙を使ってはいけない。しかも一枚紙で一気に済ませようとしている点だが、紙の修復では本紙に裏を打つ場合、「てんぐじょう」と呼ばれる最も薄い和紙を使う、あるいは薄美濃和紙を使って、何枚も継ぎ合わせて大きな本紙に貼り付ける。これは表具では「肌裏(はだうら)」と呼ばれる。修復では必要とあれば必ず後補したものは除去できる材料技法を選択するというのが本紙に負担を与えない基本だ。そしてそれだけでは保存上強度が得られないと判断される場合には「中裏(なかうら)」と呼ばれるてんぐじょうより少し厚めの紙を打つ。これでこの先は額装にするのか、巻物にするのか、どのような展示方法や保存方法を選択するのかによって処置に余裕を残すのが普通である。最初から一発で画仙紙で裏打ちしてしまうのはいけない。将来本紙に悪い影響を与えずに除去できないから。③そしてこの裏打ちに用いた越前紙に色を付けて、欠損部からその色の着いた紙がのぞくようにしたこと。また何故保存状態の悪い本紙に色付き紙を当てたのか?何を染料として用いたのか?(貴方がワイシャツの下に色付きの下着を着ていたら、下からその色が透けて全体が灰色になって感じるだろう。これを視覚的灰色と呼ぶが、これはやってはいけないこと)しかもその本紙の持ち主に相談して、その色彩を決めたそうだが、すべての処置は専門家であるべき修復家が選択し、責任を負うのが当然だろう。素人の所有者になぜ相談したのか?

④もっとも不適切なのは、当人は紙の修復を学んだ専門家ではないことだ。この国では浅学の知識で見様見真似をする者が横行する。だから、商売に利用されるノウハウ本は決して書いてはいけないのだが、中にはベルギーの修復学校のコースを終えてそのまま帰国して、今度は大学で教える側に回ったものが居る。そしておまけに修復保存に関する本を出版したのだ。それをすでに1970年代にやった先駆者が居るから、倫理観は生まれない。この国ではずるい者が経済的支援を受け、大学などで教えたりするから、人類にとって貴重な文化財を後世に残す「倫理観」は育たない。誠実なものは理解されにくい。

さてこれで誰が美術品を壊すか理解されたと思う。

NHKの番組では登場人物を持ち上げるために、「世界的に活躍している・・・・」と紹介するが、世界的に活躍することは、海外の機関から招聘されるだけの実力がなければならない。そして国際シンポジュウムなどで専門の新しい見識を披露するだけの活躍が最低必要だ。「番組作りで、聞こえが良いように」素人をだましてはいけない。最近のNHKは外部委託で番組を作ろうとするから、チェックが行き届かないのだ。