河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

1.絵画の概念と作家の選択

2016-08-30 12:15:27 | 絵画

絵画とは何か、問い詰めると皆まちまちな考えを持っている。
問いが難しすぎると思っていて、その先を考えたがらない人が多いことに驚く。少なくとも絵を描いている人や美術史などを専門にしている人に聞いても、答えは曖昧で中途半端に思える。
そういう私も中途半端な定義しかもっていないともいえるが、すこし具体性を与えてみよう。
美術の中のジャンルでは平面に表現されたものが絵画で、立体が彫刻であるが、もっとこれらの概念に広がりを与える人もいる。しかし美術はあくまで視覚表現を基本としているので、目に見えない言葉で修飾して、感覚的な受容の妨げをするくえ表現はこの際除外しよう。
では、基本的条件の一つとして平面であることが出発点であるとしよう。わが国には六曲一双などという屏風があるが、六つに折りたためるということと、二組であるということは、我々の生活空間に溶け込んでいるためと考えるだろう。西洋にもtriptyque(三連祭壇画)というのがあって、三面で一体となる表現で、一面の作品のみが絵画であるという条件は当たらない。これらは長い歴史の中で完成してきたのである。

しかしその一面一面に求められているのは空間である。芸術的な空間である。ドイツの社会学者のアーノルド・ハウザーという人が「芸術の条件として、基本的なこととしていえるのは、表現されたものが錯覚によって、我々の住む現実から離れ、自律した世界を感じさせることが必要で、この錯覚が大きければ大きいほど受け取る側の感動は大きい」と述べている。
絵画は美術であるが、イコール芸術ではないことは誰にもわかるだろう。しかし絵画が芸術表現の一端を持ち得るためには「虚構を錯覚で現実と紛らわしいほどに感じるさせること」が必要のようだ。
もっと昔の話をすれば、14世紀にイタリアの画家、チェンニーノ・チェンニーニという人が「芸術の書」という著作に、「画家の仕事は無いものを在るがごときにすることである」と述べている。彼の時代には《聖母マリア》をあるがごときに描くのがしごとであったが、絵画の空間が確立する条件を述べていることは、今日絵画の制作に当たっている人たちに大きなメッセージとなっているだろう。
現代美術では「無いものを在るがごときにする」に対して「在るものを在るがごとき」している人たちが多いこと・・・・。現代美術作品から誰もが作者の意図したことを感じ取ることは不可能な時代になっている。物を使って観念的に表現することを、受け取る側と共有できなくなっているのである。そこで評論家や学芸員が「言葉」で、つまりまた観念で説明、解説を行う。美術であるためには視覚手段で表現すべきところを、「言葉」の力を借りて、より混乱させるのである。
正直言って、私はこの「言葉」の氾濫によって現代美術的手法から離れて、古典美術に傾倒したのである。
そのプロセスは間違ってはいないと思う。
文学も、音楽も、美術も「無いものを在るがごときにする」というのが基本であったからで、これをさせおいて感じ入るところはないと思う。

私は長い間、油彩画の修復家をやっていて、その間僅かに絵画制作も行ってきたが、画家として自立できるほど制作数も確保できなかった。国立西洋美術館を定年退職し、やっと自由に制作できるようになったはずであるが、画家としての条件には様々な厳しい難問があるのだが、これが解決できていない。
これが解決できない以上、私の絵画は三流の夢に終わるだろう。
何が問題なのか次の項目で考えてみよう。