2030年夏のX日
岬の高台にある2階のテラスから白亜の灯台がまぶしいくらいに間近に見える。気温はかなり上昇しているが冷気を包んだ涼しい潮風がそっと頬をなでていくので心地よい。熱帯林に覆われた急な下りの小道を下りるとそこはもう黒褐色の岩の連なる海である。岩に押し寄せる波の音を霧笛がときどき消していく。灯台は岬からさほど遠くない沖の大輪島の断崖の上にあって、標高70メートルに近い高さから20海里余の先まで照らしている。いつまでも飽きない心満たしてくれる風景である。
今日もいつものように岩に押し寄せる波の音や模様に見入っていると、海に近い大きな岩にもたれて、長いこと灯台の方向を見ている人がいる。他に人影もない。不思議な予感にかられて下りの小道を一気に下りた。
「こんにちは、何かお探しですか」女性は帽子を取り軽く会釈するとまた灯台のあたりを向きながら「あの灯台へ渡ることはできないでしょうか」と訊ねた。「ここから数キロ先にある集落の船主に頼むと渡れるかもしれませんね」「でも今日は無理ですね何かご事情あるようですがもう街へのバスの便はありませんよ」「いいんです。野宿しますので…」「それはいけません。夜露は身体を衰弱させます。よかったら私の家をご利用ください」
「有難うございます実は探しているんです。主人は昨年退職しました。真面目な会社一途のエンジニアでした。絵を描く趣味をもっていました。その絵も灯台の風景ばかりを描いていました。北は宗谷岬の灯台から本土最果ての佐多岬灯台までの日本の灯台50選を描き上げたいと言っていました。昨年の夏、いつものように行き先を言わずに出かけたまま帰ってこないのです。
3日目にアトリエをのぞいて見ました。机がきれいに整頓されているのが気になり引き出しを見ると私名義の貯金通帳と印鑑がありました。預金はこれから生活していくには十分なものでした。これからしばらくは帰ってこないのではと思い、捜索願も出していません。多分気ままに今日もどこかの灯台を描いているのではと思い、私はこれまで日本各地の灯台を回っています。
そして、南の果てここまでやってきました。以前、高齢化社会の人生模様はブルーに語られていましたが、私と主人はいつでも輝きを失わない生活でした。ただ、お互いに相手の心の中を読めるようになっていましたので自分の意思を抑え、無理して主人の心に合わせようとしました。嫌いなことなのに好きと答えたりもしました。
これは主人を不快にさせないための思いやりの手段と無意識のうちに心に命じていたようです。こうした二人の時間の流れはどこかに緩みをつくらないといけないのではとときどき思ってはいましたが…。でも何かが欠けていたのでしょうね」「失礼かも知れませんが、二人の幸福を高めあう心をつつむオブラートのようなものが必要だったかも知れませんね」
「オブラートね…」
急な坂道を登りながら、決して寂しさなぞ見せず、さわやかすら感じさせる語らいであった。「世間で起きていることを見ると世の中はかって空想であったことが現実のものとなっていますね。ただ、科学が進歩すればするほど、人々の互いの心のやり取りや、幸福を分かち合っていく能力が必要なのではないだろうかと思います。
どうもえらそうなことをお話してすみません。縁あってこうしてお話しする機会をもてましたのでこれから、あなたに見てもらいたいものもあります。私のホールに案内しましょう。」四角い30畳ぐらいのホールには壁面の幅いっぱいのサイズの大型有機ELテレビがある。これにバイオコンピューターがつながっていた。
「どうぞその椅子にお掛け下さいこの二台のリクライニング椅子は健康管理機でもあります。これで毎朝、血圧、脈拍、体温栄養状態などをチェックできます。これもコンピューターにつながっていますので身体の不調があれば直ちにその処方が表示されるようになっています。私の一日は毎朝この椅子でコーヒーを飲みながらの健康チェックで始まります。
このコンピューターはこれまでのパソコンと違ってとても賢いんですよ。“考える”、“判断する”、“行動する”といった人の脳の働きを支援してくれるんです。まだ完成されたレベルではありませんがね。
私は以前ダンスサークルに通っていました。そしてステップを覚えるのに大変苦労しましたが、バイオチップを内蔵したこのブレスレッドをつけていればルンバやワルツなどのイメージをつくってくれますのでとても容易に素敵に踊れます。
パートナーがいなくてもこのコンピューターの立体映像とダンスできます。パートナーに私が想像する条件を設定します。容姿、感情、好きな香水などをリモコンで操作します。これでダンス音楽の世界に酔いながら踊ることが出来るんですよ。
「あなたはダンスの経験ありますか」
ずっと以前に少しありますが踊れる自信ありません」
「ステップを忘れていても大丈夫です。知らないダンスのルーテンもこのバイオヘアピンチップを頭につけていただければアマルガメーションのイメージを作ってくれます。これまでずっとレッスンを続けてきたみたいに、容易に素敵に踊れます
これからブルースを踊ってみませんか?……」ゆっくりブルースを踊りながら、長い間、人との会話がなかったせいか、私は勝手に語り続けた。「私たちは超高齢化の時代に入ってやがて愛するパートナーをいつかは失います。それ以降を一人で輝きを失うことなく生きるためにこれまで人類が経験できなかった素晴らしい時間をこのバイオコンピューターが支援してくれつつあります。でも、どんなにこの分野が進化したとしても、人と人との思いやりのつながりの時間こそ最高の価値であることを私たちは忘れてはいけないんですね」
「貴方はここで何をしていらっしゃるのですか。」「この裏の道を少し上ると3棟の長いビニールハウスがあります。そこでマンゴ、デコボン、野菜を作っています。「お一人で仕事されているのですか」
「いいえ、岬というロボット君と二人で仕事しています。彼はハウスに常駐しています。岬にはこのコンピューターからの栽培ケージュールで温室管理、草取り、栄養散布などの仕事をやってもらっています。
3年前に退職してここに居住していますが、1日の半分はハウスで働き、残りを釣りや創作などに使っています。ときにはテラスに出てパレットで作れないような澄んだ空、青い海、灯台を眺めているんですよ。というわけで貴女が目にとまった次第です。
コンピューターに、草木に語りながらの毎日でしたが、いまこうして貴女とお話し出来ているこの時間のなんと素晴らしいことかを実感しています。お話聞いて頂いて有難う。一方的にしゃべってすみませんね。これからあなたの思いを聞かせて頂きましょう」