ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

応仁の乱 呉座勇一 中世最大の争乱を丁寧に読み解いた好著

2017年02月24日 | 読書日記
応仁の乱 呉座勇一著



 中世の歴史を扱った新書としては珍しく、ベストセラー入りした話題の書。18万部まで部数を伸ばしたそうだ。著者には申し訳ないが、読み始めたのは買ってからすいぶん後。読み終えて、もう少し早く読んでおくべきだったと反省した。

 著者の呉座氏は京都にある国際日本文化研究センターの助教をされている若手研究者。歴史の啓蒙書というと大家の手になるものが多く、それはそれで面白いが、本書は30代の若手が最新の研究成果や独自の視点を存分につぎこんだことがよくわかって、世評の高さに納得する。

 応仁の乱というと、高校日本史の授業では、京を焼き尽くした大乱だったとか、大勢がはっきりしないまま10年以上も続いたとか、この戦乱で室町幕府の力が衰え、戦国時代が始まったとか、結局、よくわからない戦乱だったという印象が強かった。

 そのやや不可解な戦乱を京都から少し離れた奈良・興福寺にいた経覚と尋尊という高僧の日記をもとに詳しく読み解く。興福寺というと国宝阿修羅像や五重塔をまず思い出すが、中世に奈良というと興福寺を指したのだという。

 興福寺は藤原氏の氏寺で、前身は藤原氏の祖である鎌足が創建した山階寺にさかのぼる。院政が始まった平安時代の白河院の時代になると藤原氏の嫡流である摂関家の子息が寺に入るようになる。

 経覚は関白左大臣九条経教の子として1395年に生まれ、12歳で出家した。当時の興福寺には100を超える院家や坊舎があったが、一乗院と大乗院のふたつが「門跡」と呼ばれ、格が高く、他の院家や坊舎はいずれかの傘下に入ったという。

 当然のことながら、僧侶にも出自による明確な差別があって、摂関家から入った僧侶は「貴種」と呼ばれ、超スピード出世する。摂関家以外の名家出身は「良家」と呼ばれたが、その下にまだ「凡僧」がいた。貴族の出自でないと、たとえ寺に入っても出世はなかなか覚束ないのだと知った。

 当時の興福寺は大和を中心に、越前など畿内の外にも広大な荘園を持ち、多くの僧兵を抱えて強大な武力を保持していた。興福寺の門主となることは莫大な財力を受け継ぎ、寺の強大な権力をわがものにすることでもあった。経覚は30歳の若さで興福寺の別当に就任している。

 一方の尋尊は摂関家の一条兼良の子として1430年に誕生した。9歳で興福寺大乗院に入り、2年後に出家している。経覚とは35歳年が離れている。時代の隔たりと同時に、呉座氏は「能動的な経覚、受動的な尋尊」と2人の正反対の性格の違いも分析しつつ、自在に時代を読み解いていく。経覚は「経覚私要抄」、尋尊は「大乗院寺社雑事記」という詳細な日記を残した。呉座氏は奈良にいた高僧2人の日記を中心に、同時代の他の資料も付き合わせながら、応仁の乱に揺れた時代を解説する。尋尊の日記は戦前に活字化されていたが、経覚の日記は最近ようやく、刊行が完結したという。

 歴史家の間では尋尊の日記への評価は低かった。それは「応仁の乱」を「天魔のしわざと言ったり、武士が公家・寺社を敬わず荘園を侵略したがうえの神罰だと言ったり」、応仁の乱について説得力ある見解を示していなかったからだ。これまでは「旧支配階級の一員として、この世相を苦々しく感じていただけ」と一蹴されていたという。

 だが、著者は「尋尊への評価が低いのは戦後歴史学が階級闘争史観を基調としたことに一因がある」と異論を述べる。これには評者も同感だ。戦後、一世をふうびした階級史観(マルクス主義史観)は上部構造、下部構造という視点に立って歴史を整理するが、ここからこぼれ落ちてしまうものや見落としてしまうものがあまりに多い。最近の歴史学が階級史観から離れて、さまざまな記録や資料に基づく実証的な検証が進んでいるのは何より大事なことだと思う。

 著者は2人を比較し、「経覚の判断は前例にとらわれない柔軟さを持っている。だが、その反面、長期的展望に欠け、その場しのぎのところがある」。一方、尋尊は「常に冷静沈着である。目の前で起こっている事象に対して軽々に判断を下さず、記録に当たり、過去の似た事例を調べたうえで方針を決定する」とその特徴を簡潔にまとめてくれる。著者の人間的な目が随所に光っているところが、本書の大きな魅力のひとつだろう。性格の異なる二人が同じ事象(たとえば戦乱の始まり方など)をどう見るかで、客観的な評価に近づく可能性が高まるということだと思う。室町時代の高僧は、600年近く後、こんな手厳しい評価にさらされるとは夢にも思わなかっただろうが。

 応仁の乱自体の解説は到底、評者の手に負えるものではない。ご関心の向きは是非、本書を手にとっていただきたい。

 ご存じの方が多いと思うが、応仁の乱では、西軍の総大将は山名宗全、東軍の総大将は細川勝元だった。そこに当時の有力大名だった畠山氏、斯波氏の一族がそれぞれの陣営に分かれて参加した。さらにそこに各地の守護大名が援軍として加勢する。周防、長門(山口県)の守護大名だった大内氏も後から西軍に加わっている。

 京都で西陣という地名は西陣織で有名だが、これももとは西軍がここに本陣を置いたからだ。本書によると、細川勝元が細川一門と畠山、斯波氏内の細川派、反山名の勢力を糾合したのが東軍。一方、西軍は山名宗全が一族と斯波、畠山氏内の山名派を糾合した勢力だったという。

 天下を2分した戦いだけあって、「応仁記」という当時の記録には東軍16万騎、西軍11万騎との記述がある。これはさすがにおおげさすぎるという研究者が多いそうだが、呉座氏は西軍についた畠山義就が7000騎といわれていて、この数字は意外に実数に近いかもしれないと述べている。といっても、このうち騎馬武者は20分の1程度、あとは雑兵といわれる足軽だったようだ。しかも、これはあくまで総動員した兵力で、開戦時の兵力は合わせて5万ほど。軍勢の招集が遅れた西軍は1、2万で、緒戦は苦戦を強いられたという。

 当時の京都は国内最大の都市だったが、それでも10万程度だったというから、国を二分する大変な大いくさだったことは間違いない。両軍5万としても兵を維持する兵糧だけで大変なものだ。支配地から京に大部隊で運び込み、それが尽きるといったん退却し、また態勢を整えるといったことの繰り返しだったろう。西軍の増援にかけつけた大内政弘は京から500㌔以上離れた長門、周防が本拠地。3万の軍勢を率い、海路と陸路に分かれ、2カ月かけて京に着いたという。応仁の乱で10年ほど所領を空け、京周辺にいたというから大変な出費と労力だったはずだ。

 大内氏というと山口市にある瑠璃光寺を思い出す。日本一美しいといわれる、15世紀に建てられた優美な国宝の五重塔が有名だ。大内氏は京文化にあこがれ、小高い山に囲まれた山口市を小京都にすべく、寺社や庭園をつくり、京から多くの文化人を招いたという。

 当初、だれもがすぐ終わると考えていた応仁の乱が10年を超える大乱になったのは、戦法の変化も大きかった。井楼(せいろう)と呼ばれる物見櫓や構えと呼ばれる要害が各地につくられ、防御態勢が発達した。さらに足軽と呼ばれる甲冑を着けない軽装の歩兵が出現し、街を焼き払ったり、略奪したり、兵糧の集積地などを襲ったりして、敵に打撃を与えるだけでなく、京の街を完全に荒廃させた。

 評者が、本書で面白いと思ったのは第一次大戦との対比だ。戦力が拮抗し、戦争はいたずらに長引き、犠牲はきわめて多大だった。相手の塹壕の下にさらに塹壕を掘るような消耗戦が続き、犠牲ばかりが増えていった。応仁の乱の両軍も戦力が拮抗し、容易に勝負のつかない消耗戦に入っていたようだ。

 当時の有力大名、斯波氏一族は東西両軍に分かれて戦ったが、西軍の斯波義廉の部下に朝倉孝景の名前を見つけた。朝倉孝景は応仁の乱勃発から4年後、西軍から東軍に寝返り、戦況に大きな影響を与える。一乗谷朝倉氏遺跡というのは朝倉氏が福井市郊外につくった中世の城下町だ。2度訪ねる機会があったが、小川にはさまれた平らな土地に平屋の城主館と庭園、上級武士の屋敷と商家が整然と並んでいた。中世に約1万人が暮らす都市だったという。戦国末期に織田信長の軍勢に滅ぼされ、街は灰燼に帰する。400年以上経って発掘された遺構と資料をもとに復元された建物を見て500年前の栄華を想像した。ゆったり流れる小川の風情が何とも懐かしく感じられた。朝倉氏はここを小京都にする夢を持ち、多くの文化人を招いたという。

 室町中期に始まった洛中洛外図を見ると、当時の人々が抱いた京への憧れがよくわかる。著者は「これは理想の京都を描いた『絵空事』で、実像と大きく懸け離れていた」と厳しいが、織田信長が描かせ、上杉謙信に送ったとされる狩野永徳の洛中洛外図上杉本や岩佐又兵衛の洛中洛外図舟木本(いずれも国宝)を見ると、当時の人々が京を理想の都として描き、そこに憧れたことがよくわかる。

 応仁の乱は都を荒廃させ、後に秀吉が再興にあたるまで、荒れ果てたが、応仁の乱を戦った地方大名の目にはわが領地で、理想都市を築きたいという強い思いがあったのだろう。

 結局、10年の長きにわたって戦われた応仁の乱はどちらが勝者なのかもわからないまま終わった。呉座氏は長い戦乱の間、疱瘡など疫病がはやって厭戦気分が広がったり、いくつかの終戦工作がもう一歩のところで頓挫したりしたことなどを紹介する。積極的にいくさを続けようという勢力は強くなかったものの、戦争終結の決定打がないまま、だらだら続いた戦乱だったのだろう。

 応仁の乱が始まった当時の将軍、足利義政は側近の言葉を信じやすく、情勢に流されてしまう傾向があり、かなり無定見だったことも混乱に拍車をかけたという。が、本書を読んで少し驚いたのは足利将軍の多くが直接政務をとり、時には敵対勢力を討つため自ら兵を率いて出陣することもいとわなかったことだ。徳川幕府では将軍は政務を老中などに任せ、大事が起きても自ら出陣するようなことはまずなかったはずだ。

 足利将軍は同朋衆に囲まれて、武芸よりも茶事や遊芸など文化的なたしなみに精を出していたというステレオタイプも正しくないのかもしれない。

 応仁の乱によって将軍の権威は失墜した。だが、「応仁の乱」以後も将軍は決して飾り物ではなく、一定の権威・権力を備えていたという。ただ将軍の威令は京都周辺の畿内5カ国に限られていた。応仁の乱の後は、「従来の政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転換を迫られ、地方の時代が始まる」。すなわち戦国の群雄割拠の時代の始まりなのだろう。

 経覚は応仁の乱の終わる4年前の1473年に没する。一方の尋尊は戦乱から31年後の1508年に没している。呉座氏は二人の日記を底本にして本書を書いたことに、「今はただ戦乱の時代をしたたかに乗り切った経覚と尋尊に敬意を表したい」としめくくっている。

 一冊を読み終え、文字の力の偉大さに感服するしかない、と感じた。興福寺の2人の高僧が自分の覚えなどのため、詳細な日記を残してくれたからこそ、後世の人間が戦乱に明け暮れた往時のことを知る手がかりができた。文字による証言の意味はとてつもなく大きい。

 これは評者も少しかかわった東日本大震災の原発事故の検証の時にも感じたことだ。大震災が貞観大津波(869年)の再来と言われるのも、当時、多賀城の政庁に勤務していた役人が大津波の記録を日本三代実録という公文書に残してくれたから言えることだ。

 膨大な日記を読み解き、関連資料をも渉猟するという大変な力業で、読者を応仁の乱の時代に誘ってくれた呉座氏に深く感謝したい。われわれにとって多くが未知の領域である中世を若手の研究者が詳しく解き明かしてくれるのはまたとない喜びだ。呉座氏の著作を読んだのはこれが初めてだが、既刊書を早く読まなければと思うとともに、さらなる研究の進展と新著の執筆に期待したい。






 




 



 

 






 

 

 

超監視社会 ブルース・シュナイアー ネット時代の個人データ監視の恐ろしい現実と対抗策

2017年02月18日 | 読書日記
「超監視社会」 ブルース・シュナイアー 池村千秋訳



 新聞の書評で取り上げられていたので読んでみた。原題は「DATA and GOLIATH The Hidden Battles to Collect Your Data and Control Your World」(データとゴリアテ あなたの個人データを集め、世界をコントロールしようとする隠れた戦い)となっている。

 著者のブルース・シュナイアー氏は暗号研究者で、コンピューター・セキュリティの権威という。在野の活動が中心だが、ハーバード大法科大学院のフェローもしているセキュリティ専門家のようだ。

 日本語の副題は「私たちのデータはどこまで見られているのか?」。これは非常にわかりやすい。全体は3部構成になっている。第1部「私たちの超監視社会」では監視されるデータ、分析されるデータ、監視されるビジネスといった章立てで、私たちが今まさに生きている「超監視社会」の現実を詳述する。第2部は「なにが脅かされるのか?」、第3部が「超監視社会への対抗策」となっている。

 パソコンやスマホの利便性を享受するわたしたちだが、その一方で、さまざまな事業者や政府組織などから24時間、365日監視されているといっても過言ではない。たとえばスマホの位置情報サービス、これをオンにしていると、知らない場所でも現在地や目的地までの方向や距離がわかって便利だが、今どこにいるかのGPSデータも刻々事業者に向けて送信されている。

 GPS機能をオフにしてもスマホを持ち歩くだけで、携帯電話会社はスマホから発信される電波で、持ち主がどの基地局のエリアにいるかを常時把握している。少なくとも数百㍍の範囲では把握できるわけだ。

 パソコンでも似たようなことが起きている。評者はグーグルのネット検索やGMAILをよく利用するが、検索の履歴や内容はすべてグーグルに送信され、記録されているし、GMAILの内容はすべてグーグルのサーバーに保存されている。これらは利用者自身が不要になっても記録され続けるのだという。

 いずれもそうだろうとは思っていたが、改めて指摘されると日常生活をのぞき見されたようで少し気味が悪い。

 ただこれらはグーグルなどが利用者の監視を目的に収集しているものではなく、事業の一環として収集し、自らのビジネスに利用しようとしている「メタデータ」なのだという。

 現代はこうしたメタデータが膨大に収集され、記録される時代になった。一昔前は、といっても20年ほど前にはここまで個人データが収集されることはなかった。インターネットが本格的に利用されるようになったのは1993年頃からだが、その当時、データ収集はここまで進んでいなかった。検索サービスや無料メールもそれほど普及していなかったし、何よりデータを記憶するための媒体容量に限界があり、物理的に対応できなかったと思う。だが、今は記憶装置の容量が天文学的に増加し、逆にコストは極端に下がっている。そのおかげで、すべてのデータを記録するコストも考えられないほど安くなった。たとえば全米で1年間に交わされるすべての音声データを記録するのに必要なコストは3000万㌦(約33億円)にすぎない。資金の豊富な政府機関なら十分負担に耐えられるし、このコストは年々、下がり続ける

 企業がビジネスのために自動収集するメタデータももちろん大きな問題だが、筆者は政府など国家機関が監視目的にさまざまなデータを収集、利用することに強い警鐘を鳴らす。

 ジョージ・ワシントン大法科大学院のダニエル・ソローヴ教授はこうした状況を「カフカ的不条理」と表現しているという。「この種のデータは、本人が知らないうちに収集・利用されることが多く、私たちはそれに異議を申し立てる権利がない。そもそも、自分に対してどのような不利なデータがあるかも知りようがない」。アメリカでも2001年の同時多発テロ以降、空港での保安検査が格段に厳しくなったが、それだけでなく、政府機関とくにNSA(国家安全保障局)やFBI(連邦捜査局)による個人データの収集や監視が著しく強化されたという。

 その一端が元NSA職員エドワード・スノーデン氏による2013年の内部告発だった。NSAなどアメリカの情報機関が日本やドイツなど友好国の要人や政府首脳の電話まで盗聴していると具体的なデータを元に告発し、世界を震撼させた。日本ではさほど大きな問題にはならなかったようだが、メルケル首相の電話まで盗聴されたドイツはアメリカに抗議し、当時のオバマ大統領が事実上の謝罪をしたほどだ。

 だが、スノーデン氏はアメリカに帰ると国家機密を漏らしたかどで懲役30年の実刑判決を受ける可能性がある反逆者で、現在はアメリカの手の及ばないモスクワでロシア政府の庇護下にある。人権抑圧の甚だしいプーチン政権に守られているのは大変な皮肉だが、母国での厳罰を考えると帰るわけにはいかないのだろう。最近の報道で、NBCテレビが「アメリカの対ロ制裁緩和の見返りに、プーチン政権がトランプ氏へのおみやげにスノーデン氏の送還を検討中」というニュースが流れて驚いた(現時点では実現していないが)。

 シュナイアー氏はスノーデン氏の告発で、アメリカ政府の盗聴や個人データの収集や監視の詳しい実態や手口が明らかになったとして、彼の行為をきわめて高く評価している。こうした点は、評価しない立場の人ではまったく意見を異にするところだろう。

 盗聴と言えば、評者も20年以上前のワシントン在勤時、興味深い経験をした。科学記者だけに在米日本大使館の科学担当アタッシェは貴重な取材源だったが、ある日、大使館に電話すると「ピーッ」という妙な音が聞こえた。盗聴とわかって、すぐ電話を切り、ランチを一緒にする約束に切り替えた。もちろん科学担当アタッシェと科学記者との間に重大な秘密があるわけはないが、当時は日米経済摩擦が大問題だっただけに、CIAかどこかの諜報担当者が「たまには聞いてみようか」と思ったのかもしれない。もちろん、こうした電話はリアルタイムで聞く必要などなく、録音し、後から日本語がわかる担当者が聞くのだろう。

 先日、マイケル・フリンという大統領補佐官(安全保障担当)が就任前、ロシア大使と対ロ制裁をめぐって幾度か電話で話した事実をFBIに追及され、辞職に追い込まれた。この時にはフリン氏はカリブ海のどこかから電話したようだが、FBIはしっかり盗聴していたわけだ。電話で幾度か話したが、制裁については話していないと言い逃れようとしたが、動かぬ証拠を突きつけられて降参したらしい。電話の内容まで把握されていては逃げようがない。

 本書にはデータ収集や監視の実例が豊富に取り上げられていて、ぞっとさせられる。中でも詳しいのはフェイスブックだ。だが評者は基本的にフェイスブックを使わないので、ちょっと紹介しづらい。

 筆者も再三、強調しているが、実例は圧倒的にアメリカのものだ。もちろん、ITやSNSの世界はアメリカ企業がほぼ独占しているので、これで十分かもしれないが、日本語版の読者としては日本のSNSを席巻するLINEにも触れてもらいたいところだ。
 
 これはまったく個人的なことだが評者が使っているスマホは中国製で、中国政府が盗聴を容易にするためのバックドア(裏口)を作っていると本書で何度も指摘されている。だとすると、筆者の電話も中国政府に盗聴されたり、ネットの閲覧履歴も把握されたりする可能性があるわけだ。以前から聞いていた話だし、中国政府の監視対象になっているとも思えないので、すぐに困るわけではないが、やはり気味が悪い。

 本書の白眉はこうした超監視社会に対抗するための具体的な提案だろう。筆者は電子的監視は価値があり、続けるべきだという立場から、いくつか具体的な提案をしている。

 その第一は「秘密を減らし、透明性を拡大すること」。アメリカ政府は情報収集活動の範囲と規模について詳細な情報を隠さずに公表すべきだ、と指摘する。次いでアメリカで監視にかかわる政府機関のNSAに対し、監督機能強化の必要性を強調する。とくに議会の監視機能の強化が重要だ、と力説している。3番目がスノーデン氏のような内部告発者を守ること、機密情報を入手したジャーナリストを守る法律も必要だと説いている(もちろん、これは大賛成)。次いで、監視の有効性は認めるとしても、対象(標的)を絞り込んだうえ、しかるべき司法機関(裁判所)の承認を受けることが重要だと指摘する。

 筆者は企業に対する具体的な提案もしている。

 わたしたちの生活を便利にするテクノロジーの有用性は十分に評価したうえで、企業にプライバシー漏洩の責任を負わせる、データの利用や収集を規制する、個人に自分のデータへの権利を与える、ことなどが重要だと力説する。

 自分のデータへの権利を与えるというのは少しわかりにくいが、企業が収集したさまざまな個人情報の中で、たとえば自分が自由に編集したり、削除したりすることができるものもあれば、それが認められないものもある、本人の閲覧が認められているものもあればそれが認められないものもある。こうしたばらばらな現状を紹介したうえで、データの取り扱いに統一的なルールを設けるよう提案する。

 技術の進歩に合わせて猛烈なスピードで発展してきたネットの世界はルールらしいルールもないまま、突っ走ってきている。いまさら、その歩みを遅くしたり、発展をとめることは出来ないだろうが、統一的なルールを作ることで、利用者のプライバシーを守ろうというわけだ。

 インターネットの普及のもとになったWWW(ワールドワイドウェブ)のシステムを考案したティム・バーナーズ=リー氏は、13世紀の英国で王権を制限したマグナカルタ(大憲章)にちなんでネットの世界のマグナカルタの創設を強く提案しているという。マグナカルタは統治者の正当性が臣民に由来するという考え方を盛り込み、王権を制限した文書で、その後のフランス革命やアメリカ独立革命にも大きな影響を与えたという。

 筆者は21世紀における権力乱用者を縛るためにも、マグナカルタのようなネット利用者の権利を守る権利章典が不可欠だと強調する。この見解には評者も全面的に賛同したい。

 ネットは本当に便利だし、生活に不可欠だが、評者のアンドロイド・スマホで必要なアプリをダウンロードしようとすると、メールアドレスや位置情報、クレジット情報などさまざまな情報へのアクセスを求められる。だが、それが本当にそのアプリに必要なものか、事業者が恣意的に要求している情報かどうかを判断する基準や十分な情報はない。事前に情報提供を許諾しない限り、アプリはダウンロードできない仕組みなので、一抹の不安を感じつつ、許諾のボタンを押している。もし統一的なルールができれば、こうした不安のかなりの部分はなくなってくるはずだ。

 本書はネットやSNS先進国アメリカでの実例がきわめて豊富でそれぞれ考えさせられる。この問題に強い関心を持つ人には必読の一冊かもしれない。

 そのうえで苦言をひとつ。本文は約380㌻、訳文もこなれていて読みやすいが、本文中にある注釈や資料が一冊の中に収容されていない。裏扉に「誠に申し訳ありませんが、紙面の都合上、原注と資料を割愛させていただいております」と小さな文字で断りがある。原注と資料はウェブ上で見てくれというわけだ。

 あわててウェブをチェックすると小さな文字で書かれたPDFが67㌻もあった。本をスリムにするために、原注と資料はつけなかったわけだ。だが、こうした形でPDFを読む読者がどれだけいるのだろうか。67㌻を印刷するのはもっと大変だ。不親切を通り越して、出版社がとるべきでない対応だと思った。草思社の本は何冊か読んでいるが、こうした形は初めてだ。本文中で興味深い実例を知って、「これはどこに載っていたのだろう」と巻末や章末の注をチェックするのはごく自然なことだ。注や資料は収録できないからウェブで見てというのは許されない対応だと思う。巻末近くで紹介されている「2000年のEU基本権憲章(資料6)」(本文368㌻)などもウエブで見るしかない。もしこうしたやり方が一般的になれば本を手元に置く意味はどうなるのだろう。67㌻を本文に収容すれば、分厚くなり、価格も上げざるを得ないだろうが、それも含めての書物ではないだろうか。出版社には猛省を促したい。







 

 



 









 




 


 


アメリカの反知性主義 リチャード・ホーフスタッター 知識人のあり方を探る古典的な名著

2017年02月16日 | 読書日記
「アメリカの反知性主義」 リチャード・ホーフスタッター 田村哲夫訳



 先日、紹介した森本あんり氏の「反知性主義」の元になった本。リチャード・ホーフスタッターという筆者の名前は聞いたことはあったが、読んだことはなかった。

 原著は1963年、アメリカで「赤狩り」として悪名高いマッカーシー旋風の記憶が生々しい時期に書かれた。翌年、ピューリッツアー賞を受賞した。邦訳出版は原著から40年後と遅い。2段組み本文380㌻という大著だけに、尻込みする翻訳者や出版社が多かったのだろう。

 図書館で借りたが、長らく眠っていたようで折りじわやしみもない。トランプ米大統領の就任で、アメリカの反知性主義が巷の話題になるまで、関心を呼ばなかったようだ。

 森本氏の著作は日本の読者を意識し、アメリカ映画の話題や写真を豊富に取り入れて読みやすい体裁だ。原著は写真や図表もなく、ちょっととっつきにくい印象だが、内容は実に濃い。ホーフスタッター氏はニューヨークの名門コロンビア大で歴史学教授を務めた人で、50代半ばの1970年に早世している。

 森本氏は国際基督教大の神学者なので、アメリカのキリスト教普及の歴史を中心に著作を書いている。元になったこの著作も、アメリカでのキリスト教布教の歴史が詳細に記されているが、著者の意図はそれにとどまらない。アメリカでの初等教育や中等教育の広がり、高等教育では職業や実用教育に偏った教育システムが結果として反知性主義を生み出す源泉になったこと、とくに南部や中西部では教育がさほど重視されず、教育者の待遇もかなり劣悪で、指導する人材を集めることも難しかった事情が具体的に記されている。こうしたことがおそらく、アメリカでの知性の軽視、知識人への反感の底流や源流になっているのだろう。

 評者はアメリカに科学記者として勤務した3年間で、全米50州のうちの40州弱を回った。しかし、科学記者という性格上、取材の中心になったのはハーバード、イェール、プリンストン、スタンフォードやMIT、カリフォルニア工科大といった、ノーベル賞学者を輩出するような名門大学ばかりで、中西部や南部に多くある職業教育を中心にした大学には足を踏み入れたことがなかった。

 ホーフスタッター氏はこうした職業教育や実用教育を重視する大学が、東海岸や西海岸の名門大学とは出自や発展の歴史をまったく異にしていることを詳しく明らかにする。こうした大学はリベラルアーツ教育を重視する名門大と違い、職業教育やスポーツ活動を徹底的に重視している。

 あるとき、取材先のテキサス州で、テキサスA&M大(Agriculture & Mining=農業と鉱業)という広大な大学キャンパスの前を通った。近くの心臓専門病院を取材に行く途中だったので、取材したわけではない。ワシントンに戻り、日本でいえば農工大といった職業教育中心の大学が南部や中西部に多いことを知った。農学部や獣医学部、鉱山学部などその地域で重要な産業に不可欠な専門家を育成する大学なのだと思う。その多くは広いキャンパスと充実したスポーツ施設を誇っている。こちらは取材で行ったのだが、オハイオ州のある州立大には巨大なフットボールスタジアムがあった。広報の担当者に案内してもらったが、見上げるような高さの10万人を収容できる巨大スタジアムが大学専用でシーズンには満員札止めになると聞いて、本当に驚いた。

 こうした大学とリベラルアーツや自然科学系の研究や教育を中心とする大学ではカリキュラムや学生の志向がまったく異なるのは当然だ。その時は気にもとめなかったが、本書を読んで、職業教育重視の大学がそれぞれの地域の切実な要請をもとに誕生した歴史を知り、アメリカの高等教育の重層的、多面的、地域依存的な側面の強さを思い知った。

 職業系、実用系の大学はハーバードなど伝統的な名門と競争することなど眼中になく、地域で不可欠な中堅レベルの専門家や実務家を養成することが本務なのだろう。

 余談をもうひとつ。イェローストーン国立公園で有名なカナダ国境に近いモンタナ州に一度だけ取材に行ったことがある。アメリカの教育に関する取材で、この州からハーバード大に進学を決めた高校生に会うのが目的だった。モンタナ州は人口100万ほどの自然豊かな州で、その年はこの高校生ともう一人が入学を許可されたと聞いた。

 中層の建物も見当たらないような人口3万の州都の、まるで西部劇に出てくるような大衆食堂で話を聞いた。全米でも著名な高校生対象の自然科学系コンテストで入賞したことが高く評価され、入学が決まったということだった。折り目正しい好青年で、ボストンに行くことを楽しみにしていた。学費の高い私学なので、奨学金でやっていくという話だった。帰ろうとすると、「ぼくがコーヒー代を払います」といきなり財布を取り出したので、「話を聞かせてもらったのだから」とあわててさえぎった。別れた後、彼が生まれ育ったこの町で暮らすことはおそらくないのだろうな、とやや感傷的な気分になったことを思い出す。

 ロッキー山脈に近いモンタナ州は山や森、湖や川の自然に恵まれている。だが、田舎では都会のような生活は望むべくもない。青年がその能力にふさわしい仕事を見つけるのも難しい。(日本で言えば)過疎の町に暮らす住民が、東海岸や西海岸で優雅に見える暮らしをする人々に、複雑な気持ちを抱いていることは疑いない。

 国土が広大で、資源に恵まれ、地方分権の強い政治はアメリカの多様性の源泉だが、一方で階層分化や国としての一体感の欠如といったネガティブな側面も生みだす。われわれはアメリカの華やかな大都市の生活を見聞きすると、それがアメリカなんだと思いがちだが、決してそうではない。

 第9章の冒頭、「ビジネスと知性」では「少なくともこの四分の三世紀というもの、大半のアメリカの知識人はビジネスを知性の仇敵としてとらえてきた。当の実業家も長いあいだこの役割を受け入れてきたため、いまでは両者が敵意をもつのは当然のようになっている」と書かれていて、びっくりする。

 続く第10章は「自助(セルフヘルプ)と霊的テクノロジー」と題されている。こちらも冒頭で、「商人の理想が衰退すると、それに代わって『たたきあげ』の理想が台頭してきた。この理想は百万長者ではないにせよ、少なくとも裕福な実業家になった無数の田舎出の少年たちの体験や野望を反映していた」と始まる。

 たたき上げというのは原著では、「the self-made man」と書かれているようだ。アメリカの立身出世物語、アメリカドリームということなのだろう。トランプ氏は一代で財産を築いたわけではないが、熱烈な支持者の多くは彼に、「たたき上げ」やアメリカンドリームの理想を見たいのだろう。こうした世俗的な成功を高く評価する気風は、残念ながら知性を軽んじる風潮にも直結するのだという気がする。

 最終章は「知識人 疎外と体制順応」と題されている。筆者は「(知識人が)社会に認められ、組み入れられ、利用されていくにつれて、体制に順応するだけの存在になり、創造的・批判的で真に有益な人間ではなくなってしまうーーもっとも活動的な若手知識人の多くが、なににもましてこうした恐怖感にさいなまれている」と指摘する。

 「このことは、彼らの立場がもつ根本的な逆説である。反知性主義を憎み、われわれの社会の深刻な弱点と考えながらも、知識人は社会に認められることで悩み、自分たちのなかに、もっと深刻な分裂を生みだしてしまうのだ」。

 筆者は激しく揺れる時代に翻弄される知識人のありように思いを巡らせている。

 「過去のリベラルな社会がもっていた長所のひとつは、多様なスタイルの知的生活を認めてきたことである。そのおかげで、さまざまなタイプの知識人を目にすることができる。情熱と反抗心によって名を馳せた知識人もいれば、優雅でぜいたくな知識人も、倹約家で厳格な知識人もいる。利口で複雑な知識人も、忍耐強く聡明な知識人も、主として観察力と忍耐力を備えた知識人もいる。ともあれ、さまざまな美点を理解するには、率直さと寛容な精神が必要だ。単一的でやや偏狭な社会においても、こうした美点を見出すことは可能である」。

 結論とはいえないだろうが、筆者は単層的で型にはまった知識人よりも、多様で重層的で個性的な知識人のありようを模索しているようにも見える。

 ともあれ、大変な労作である。この本が書かれる6年前の1957年にはソ連(当時)が世界初の人工衛星打ち上げに成功するスプートニク・ショックで、アメリカも科学技術の重要性に覚醒する。そして1961年には知性派のケネディ氏が大統領に就任し、アメリカの反知性主義はいったん影を潜める。

 だがその半世紀あまり後、アメリカを反知性主義の大波が覆っていることはご承知のとおりだ。数十年ごとに右に左にと世界を翻弄する大波に揺れるアメリカをどうとらえていけばいいのか、アメリカの良心ともいうべき、ホーフスタッター氏の名著は出版から半世紀以上を経て、ますますその輝きを増しているように思う。アメリカの深層理解のための古典的な名著だ。原著にはとても歯が立ちそうにないのが残念だが、機会があれば原著も合わせて読んで見たいと思わせる一冊だ。

 訳者の田村哲夫氏は渋谷教育学園の経営に携わる教育者。相当な時間をかけて大著を翻訳され、日本の読者にもわかりやすく紹介されたことに心から敬意を表したい。原注だけで50㌻以上におよぶ分量で、原注訳出だけで相当な労力だったと思うが、本文中の所々にある訳注も適切でわかりやすい。アメリカで大学教育を受けなければ到底、理解できないような高度な内容を日本語で読めることは本当にありがたい。本書に登場する人名の大半は評者にとってもほとんど未知だっただけに、つくづくそう思った。
 






 





 

 

 


近代天皇論 片山杜秀 島薗進 2人の碩学による刺激的な天皇論

2017年02月09日 | 読書日記
近代天皇論 片山杜秀 島薗進



 片山氏は新聞や雑誌で書評を担当する日本政治思想史の俊秀。島薗氏は日本宗教史が専門の著名な宗教学者。2人の碩学の対談による明治以降の天皇制を歴史と現実から詳しく振り返った新たな天皇論だ。片山氏は50代前半、島薗氏は60代後半と世代も専門も異なる2人だが、丁々発止の議論が良くかみ合っている。

 書店で見かけて、迷わず購入した。『近代天皇論ーー「神聖」か、「象徴」か』というタイトルもなかなか示唆的だ。昨年8月8日に発表された「天皇のおことば」に触発されたもので、巻末には「おことば」の全文が収録されている。

 NHKがスクープした天皇の生前退位の意向表明は、この国を揺るがす強い衝撃として受け止められた。それは80歳を超え、体力、気力ともに衰えを感じている天皇が「生前退位の規定がないからといって、国民は私を死ぬまで放っておくつもりなのですか」と悲鳴に似た本音を発露したことに、評者も含めて大多数の国民がたじろいでしまったからだ。同時に、憲法や皇室典範に天皇の権能はそれなりに記述されているはずだと思いこんでいたが、法律としては抜け穴だらけの不十分なものだったことに初めて気づかされたからだと思う。

 このブログでは、宗教学者の島田裕巳氏による「天皇と憲法」を紹介したが、たまたま天皇家に生まれた長子の男子であるというだけで、1人の人間が、生涯を天皇として生きるよう運命づけられた「過酷さ」に気づかされたのは驚きだった

 この対談の問題意識は、「天皇のあり方次第で日本の近代が吹き飛ぶ」という表題の序章に象徴されている。片山氏は冒頭、「おことば」の衝撃が国内の右派と左派を完全に吹き飛ばしてしまった、と指摘する。そもそも右派は「承詔必謹」(天皇の詔勅を承ったら必ず、その通りにするという意味)が愛国者の基本精神だった。ところが「伝統回帰で天皇絶対と言っているはずの右派は猛烈に天皇の意向に反発しました」。

 一方、「日本が天皇のいない共和国になることを夢見ていたはずの左派リベラル層が、今上天皇の『お言葉を』熱烈に支持した」「こんな『ねじれた時代』が来るなんて、一昔二昔前に誰が予想したでしょうか」。片山氏は「天皇の存在と近代社会の精神、あるいは天皇と戦後民主主義、その関係をきちんとつめてこなかったこの何十年間のツケを見るような気がします」と自省を込めて語る。

 島薗氏もその問題意識を共有する。「日本の民主主義は危機的な状態です。そのような危機をもたらしているもののひとつが、国家権力を宗教的な価値観と結びつけ、明治憲法に回帰することをよしとする宗教ナショナリズムです」と述べる。氏は、最近注目されるようになってきた日本会議という右派勢力に支えられた安倍政権の危険性を厳しく指摘する。

 なるほどとうなづいたのは安倍首相が2013年の伊勢神宮の式年遷宮の際、「遷御の儀」というクライマックスの儀式に8人の閣僚と共に参列したという「事件」だ。

 不勉強で知らなかったが、現職首相の式年遷宮参列は1929年の浜口雄幸首相以来、史上2度目のことだという。島薗氏はこの時から2年後の1931年には満州事変、6年後の1935年には「天皇機関説事件」が起き、日本が戦争に突入していった、と戦前の歴史を振り返る。2016年のG7サミットが伊勢志摩で開催されたことも、「天照大神を祀った伊勢神宮が国家神道における最高位の施設であるという文脈を見落としてはならない」と指摘する。

 残念ながら「遷御の儀」は気づかなかったが、安倍首相が伊勢志摩サミットにこだわり、各国首脳まで伊勢神宮に案内したことは、「憲法の政教分離の規定に反する疑いのあるグレーゾーンではないか」と気になっていた。

 第一章の「ジレンマは明治維新に始まった」では「王政復古」と「文明開化」の2枚看板を掲げた明治維新の矛盾が指摘される。

 明治新政府は「王政復古」のスローガンのもと、「祭政一致」を押し進める。制度的には新しい皇室祭祀が次々に定められ、それに合わせて国民の祝祭日も制定されていく。国民の時間感覚が次第に皇室祭祀と深く結びついていく。その一方で、国家神道は宗教ではないという理屈をこねあげることで、「祭政一致」と「政教分離」を併存させる。片山氏は1890年に発布された「教育勅語」が国民を天皇崇敬に導いていった、とその役割の大きさを指摘する。

 そもそも江戸時代の民衆にとって天皇が大きな位置を占めることはなかった。ところが、そこから半世紀あまりを経た太平洋戦争の時代になると、少なからぬ人が天皇のために命を投げ出す決意をするようになる。その過程で大きな役割を果たしたのが、国家神道を国民の間に行き渡らせる仕組みをつくりあげることだった。

 島薗氏は「(明治時代に政治を牛耳った)元老政治ができなくなる大正、昭和になると統治システムが機能不全になると同時に『教育勅語』で育った民衆の宗教ナショナリズムを軍やメディアが増幅し、国家が振り回されるようになってしまった」と述べる。

 評者が個人的に興味深く感じたのは第2章の「なぜ尊皇思想が攘夷と結びついたか」だ。評者は数年前、茨城県で新聞記者の仕事をしたことがあるので、水戸藩の尊皇攘夷思想についてはわずかながら知っているつもりだった。だが、なぜ水戸でこうした国粋思想が生まれたかについてはきちんと考えたことがなかった。片山氏はこれに、なかなか説得力のある議論を展開する。

 水戸藩は徳川御3家の一角を占めるものの、尾張、紀州が大納言なのに、格下の中納言とされた。尾張、紀州は将軍を出す家柄だが、水戸は明文化されていない「副将軍」として将軍を補佐する一段低い役割に甘んじざるを得なかった。こうした状況の中、家康の孫で、第2代藩主となった水戸光圀は、将軍家を守る水戸藩の役割が重要なのは、単に将軍家を守るだけでなく、天皇から与えられた征夷大将軍の位を守ることが、引いては天皇を守ることにつながると考え、水戸藩の「尊皇」の大義にたどりついたのだという。

 すなわち「尊皇」によってこそ、水戸藩の思想的立場が確立すると考え、その立場から、大日本史の編纂にも力を尽くしたのだと解説する。言ってみれば水戸藩の「御3家格落ちコンプレックス」といった感情が尊皇に走る結果になったというわけだ。今、思えば、水戸にはそういう雰囲気を感じさせるところもあった。水戸黄門の隠居所のあった水戸市に近い町では、黄門人気はさほどではなく、その前の支配者、佐竹氏の方に人気があったことに不思議な気がしていた。

 本題に戻ろう。第3章「『天皇の軍隊』と明治天皇の神格化」ではなぜ、靖国神社が必要とされたかが詳しく説明される。1873年には国民皆兵を目指す徴兵令が出されたが、戦って死ぬことが仕事の武士とは違い、農民を兵士にするには相応の名分が必要になる。片山氏は「そのための宗教的な仕掛けが靖国神社であり、天皇のために外国と戦って死んだ人間は平等に祀られることになった。その意味では靖国神社は『四民平等』時代に対応した慰霊施設としてつくられた側面も大きい」と指摘する。

 2人の碩学が豊富な識見をもとに明治以降の歴史を詳しく振り返る中で、ギクリとしたのは第6章の「戦後も生きている国家神道」だ。

 島薗氏は研究の専門分野である国家神道の復活や復権にきわめて強い危機感を持っている。一般的には日本を破滅に追い込んだ国家神道は1945年にGHQが出した「神道指令」で解体されたと言われている。だが、氏はこの見方に異議を唱える。国家神道は皇室祭祀、神社神道、国体論の3つの要素で構成される。だがGHQは皇室祭祀は天皇家の私的祭祀として手をつけず、国家と神社神道の結合は解体したもの、皇室祭祀はほぼそのまま維持された。このため、皇室祭祀と神社神道の関係を復活させようとする動きが絶えないという。

 「ここ数年は、この皇室祭祀に特別な意味を持たせて、『神聖な国体』の復興をめざす勢力が力をつけてきている。そして、神道、とりわけ伊勢神宮と靖国神社の国家機関的側面を強めようとする動きも活発化している」と警告する。

 片山氏は、天皇の退位をめぐる政府の有識者会議のヒアリングで、桜井よしこ氏が「天皇の役割は国家国民のために祭祀を執り行って下さること、天皇でなければ果たせない役割を明確にし、(天皇が強く希望する)ご譲位ではなく、摂政を置くべきだ」と述べたことを問題視する。ここには天皇家の私的な祭祀を戦前のように国家的なものと位置づける考え方が明確になっている。片山氏は「神道行事こそ天皇を天皇たらしめるもの、神社神道の思想がストレートに反映して、戦後の建前がいつの間にか吹っ飛んでいる」と指摘する。

 島薗氏も「今、安倍首相がやろうとしていることも、(GHQの神道指令をひっくり返す)その路線に沿ったものです。「(2013年の伊勢神宮の遷御の儀に参列したことに触れて、これは)国家的な行為であり、政教分離に反している疑いが濃いです。そうすることで、伊勢神宮の国家的な地位を強化しようとしているわけです。これは神聖国家をめざすもので、国民主権や基本的人権、とりわけ良心の自由、思想信条の自由、信教の自由を脅かしかねないものです」と語気鋭く批判する。

 片山氏も「安倍首相の行動というのはまさに戦後レジームの脱却に沿ったものです。戦争に負けて、日本はアメリカから憲法、戦後民主主義、教育、個人主義的な価値観を押しつけられた。また、東京裁判では、戦勝国の都合で一方的に裁かれた。それをチャラにして、リセットしたい。(中略)だから国家神道の復権であり、戦前回帰だという話になるわけですが、別の言い方をすれば、アメリカの呪縛から逃れたいということでもあります」と呼応する。

 ところがその一方で、安倍首相は日米同盟を強化するため、安保法制を強行採決し、それをアメリカ議会で演説して公約している。

 「つまり安倍首相は脱アメリカと親アメリカという矛盾したことをやっているということです。この構造は明治の旗印そっくりじゃないでしょうか。『王政復古』と『文明開化』。それを現代的に表現すれば、脱アメリカと親アメリカになるのです」。

 安倍政権の抱える根本的な矛盾は片山氏の指摘する通りだ。

 島薗氏はさらに踏み込む。「片山さんの言う脱アメリカというのは、私の危惧するところでは、東アジア的な権威主義国家体制への回帰を帰結しかねません。つまり安倍政権の国家主義的な物事の進め方というのは、国家や集団の秩序を尊ぶ儒教文明や東アジア官僚国家の伝統に回帰しようとしていることです。(中略)明治国家の2枚看板である『王政復古』と『文明開化』は西洋的な国民国家をモデルとすると同時に、中華帝国の日本版をつくろうとしたと見ることができる」「一方、現在の中国共産党も伝統から切れているように見えて、中華帝国的な権威主義はそのまま受け継いでいる。そう見ると、現在の日本と中国は敵対していると同時に、似たもの同士の国家体制とみることもできます」。こちらもうなづける議論だ。

 終章のタイトルは「神聖国家への回帰を防ぐために」だ。

 片山氏は「近代日本は経済の仕掛けとしては西洋流の『弱肉強食型』の資本主義を選択しますが、そうすると必然的に貧富の差が生まれ、放置すると国のまとまりが壊れるので、福祉政策を導入して、階級の和を保たせないといけない。しかし、福祉のための元手の蓄積が追いつかないから、『皇恩』とか『恩賜』とかで、身もふたもない言い方をすると金額の少ないところを天皇・皇族の権威で下駄を履かせて大きく立派に見せてごまかす」。「そうやって、『国民あっての国』といった理屈よりも、『天皇あっての国』という演出プランで明治・大正とずっとやってきたから、昭和になるともう修正が利かず、(中略)『近代的国家理性喪失状態』と言ってよい破滅的状態に至った」と述べる。

 「この過ちをくりかえしませんということで、今度は『天皇のための国民』ではなく『国民のための天皇』にして、『現人神としての天皇のおんために身を捧げる』理屈を封印するというのが戦後憲法と『象徴天皇制』のプロジェクトだったと思うのです」。

 その視点から両氏は「天皇のおことば」を改めて振り返る。

 片山氏は「おことば」を読み解く中で、「父である昭和天皇の未完に終わったとも言える『人間宣言』を、ほとんど原理主義的とも言える苛烈さと言いますか、極めて倫理的に厳しく貫徹しようとすると『おことば』になる。当たりは柔らかいけれども、内容は強烈です」と評価する。

 島薗氏も「おことば」に宗教的な内容が含まれていることは認めつつ、「あくまで人間として他者のために祈るという天皇の在り方が、ぎりぎりのところで、成立が難しくなってきた民主主義を支えつつ、神聖国家への回帰を防ぐ防波堤の役割を果たしているのです」と応える。

 さらに、「今上天皇は、神格化を拒むかたちで水平的な天皇像を象徴天皇と考えています。だから、民主主義と調和的なのですが、問題は今上天皇の『お気持ち』を汲んで、平和憲法と戦後民主主義を守るような政党が見当たらないことです」と現在の政治状況を厳しく批判している。
 
 巻末の「対談を終えて」で片山氏はこうしめくくる。

 「天皇と前近代性の結びつきを否定して、近代民主主義の合理性にかなうように天皇像を改めてゆく。敗戦以来の歴史に即すれば、その道を追求するのが戦後日本の道理であり、『人間宣言』→『お言葉』の方向を追求するのが戦後民主主義の大義でしょう。その道は昭和天皇と今上天皇によってずっと試され、戦後憲法体制になじみ、実を挙げてきたと思います。(中略)たしかに民主主義と天皇制は究極的相性はよくありません。しかし、近代民主主義国家として今のところもっとも長続きしているのは、極端に傾かず王室と民主主義的政体を宜しく両立させてきたイギリスであるという歴史的事実もあります。丸山真男は『戦後民主主義の虚妄に賭ける』と言いました。今上天皇の『お言葉』に深く説得された私としては、象徴天皇制の虚妄に賭けたいと思います」。

 明治以降の天皇制の歴史と現実を振り返る中で、出てきた結論というべきだろう。評者もこの結論を支持したい。

 政府の有識者会議のヒアリングで、半数もの有識者が天皇の生前退位を支持しなかったというバイアスのかかった人選があった。加えて妙にきな臭さを感じる政治や社会の潮流。歴史的事実に基づいた冷静な議論が今ほど重要な時代はないと思う。

 その意味で、両碩学の議論は問題への理解を深めていく上で、大きな助けになる。この問題に関心を持つ方すべてに強く一読を勧めたい。

 評者は元科学記者で医学分野も長年取材してきたが、東京慈恵会医科大(慈恵医大)病院の成立に明治天皇の皇后が関与していることはまったく知らなかった。「慈恵」というのは天皇、皇后が慈愛の心で貧民を救済することで、慈善を目的にしたこの病院に、皇后は1887年、2万円を下賜し病院の総裁にもなって病院の拡張に寄与した。後生、この下賜は「『以って皇室の仁光を内外に掲げ、皇室の徳沢を民心に及ぼさんこと』を意図したもの」(1925年、「皇室と社会問題」)と讃えられた。こうした事実のひとつひとつを知っていくことが、天皇制のありようへの理解や問題意識の形成につながっていくのだと思う。

 素晴らしい好著だ。両氏が次々に挙げる例証も豊富で、明治以降にこんな事実があったのかと驚かされることばかりだ。明治以降の歴史書は何冊か読んだつもりだが、天皇制という基軸で整理すると、歴史がこうきれいに見えてくるのかと納得した。対談形式なので、専門性の高い、なかなか重い内容ながら読みやすく構成されている。現在、喫緊となっている諸問題を考えていくには、この国の歴史をきちんと振り返って知っておくことが不可欠だと痛感した。