ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

ネアンデルタール人は私たちと交配した  驚きのサイエンス・ノンフィクション

2016年01月07日 | 読書日記
「ネアンデルタール人は私たちと交配した」(スヴァンテ・ペーボ、野中香方子訳、文藝春秋)



 確か昨夏の新聞書評で取り上げられていたのを見て、何と奇妙なタイトルなのだろうと思っていたが、読了して妙に納得した。筆者はドイツ・マックスプランク研究所で、進化人類学研究所の設立に関わったスウェーデン人の生物学者。

 研究の話を軸にした自伝という体裁だが、あまりに赤裸々に自分のことを語っているのでまずびっくり。まったく知らない名前の人だと思って読み始めたが、実は著名なスウェーデンの医学者で、生理活性物質プロスタグランジンの発見で、1982年にノーベル医学・生理学賞を受けたベルイストレーム博士の婚外子なのだという。著者は大きくなるまで父親が二つの家庭を持っていたことを知らなかったという。

 それが関係しているわけではないが、もともと著者はホモセクシャルで、異性にはあまり関心がなかったという。研究所の指導的な立場に着いてから、同僚研究者の妻と親しくなり、ついには同僚が離婚、その女性と結婚して(著者は初婚)、男児をもうけた。現在の奥さんは最初の結婚ですでに2児をもうけていたという。日本人研究者でも離婚、再婚は少なくないが、ここまでスキャンダラスな展開は少ないだろうと思った。

 もちろん、これはペーボ博士の研究には関係のない話だ。彼はスウェーデンの名門ウプサラ大医学部出身で、もともとは古代エジプト学に強い関心があったというが、この分野の学問の進展のあまりの遅さにしびれをきらし、二重らせん発見以来、革命的とも言える進歩が続いている分子生物学を使った進化人類学の道に飛び込んだのだという。

 ただその道のりは容易ではなかった。古代エジプト学の熱烈なファンだった彼は当時のミイラからDNAを取り出し、その配列を解読したと1985年に発表したが、実は彼が解読したのは現代人のもので、ミイラからサンプルを取り出すさいか、分析する際に現代人の遺伝子が混入してしまったのだ。専門用語でコンタミと呼ばれるこうした混入は現代の研究者にとってもきわめて大きな問題で、2014年、日本の科学界を揺るがした理研の「STAP細胞事件」は小保方氏がこのコンタミを誤認したか、そもそも意図的ともいえる混入があったかのどちらかだと考えられている。

 そういえば評者がワシントンで現役の科学記者をしていた20年ほど前、琥珀の中に閉じ込められていた昆虫(蜂だったかハエだったか)のDNAを解読したといった類いの発見が科学誌やNYタイムズなどで大々的に報じられたことがあった。なかば「本当かいな」と眉につばをつけつつ、仕方がないので小さな後追い記事を書いた記憶がある。ペーボ博士は自からの失敗からこうした数百万年前のDNAが解読できる可能性はないと知りつつ、メディア受けのする怪しい発表を横目に、黙々と自分の研究を続けていたのだという。

 彼が最初に取り組んだのはこうしたコンタミの可能性を限りなく少なくする研究手法の開発だった。まず汚染の恐れがきわめて少ないほぼ完全なクリーンルームを作って、研究室からコンタミの可能性を極力排除した。標本を取り扱うときにもクリーンルーム環境が維持できるよう作業に当たる研究者にも指導を徹底した。それでもコンタミが完全には排除できないとみて、逆にコンタミが起きればすぐにそれとわかる研究手法も同時に確立した(これはすごいと思う)。

 そうした研究の苦労話はもちろん興味が尽きないが、評者にとってもっとも面白かったのは研究者同士の激烈な先陣争いとそのお先棒をかつぐ著名な科学誌などの動きだった。

 欧米の科学誌の世界でイギリスのネィチャー、アメリカのサイエンスは抜きんでた存在だが、ペーボ博士をはじめ、世界の有力な研究者がいかに自分の研究成果を売り込み、また科学誌側も画期的な成果が出そうだと分かると研究者に接近してくる様子が実に生々しく描かれている。

 訳者によるとペーボ博士は非常に穏やかな性格のようだが、学会の出張先で「ひょっとすると自分たちは同じ標本を手に入れているライバルに出し抜かれて、何年かの苦労が水の泡になってしまうのではないか」という疑念にとらわれ、眠れぬ一晩を過ごす場面も出てきて、研究者の産みの苦しみを実感させられる。

 それにしても現生人類が数万年前に絶滅したネアンデルタール人と交配していたというのはあまりに素っ頓狂な思いつきのようにも思える。もちろん、これは2010年5月に専門家の査読を経た上でサイエンス誌に発表された論文なので、しっかりとした科学的根拠があることは間違いない。ただ、今から数万年前にタイムスリップするわけにはいかないので、この言説は、ネアンデルタール人のDNAの解読結果をもとに現生人類のデータとの違いを探し、ヨーロッパに住む人とは2%から5%程度の間で、私たちのDNAにネアンデルタール人のDNAが残っている、と推論したことを根拠にしている。

 分析したDNAはミトコンドリアDNAと呼ばれる母系から受け継ぐ遺伝子なので、DNAの痕跡は母系によって代々受け継がれていったものだ。もちろん、人類とはいえ、現生人類と絶滅した人類とが数万年前にセックスして子どもを残していたということ自体、おぞましいと考える人も少なくないだろう。

 ネアンデルタール人は骨格しか残っていないので、具体的にどういう相貌だったかも分からない。私たちがいま、思い浮かべるのは教科書に載っていた、背中を少し曲げてやや腰を落とした想像図しかないだろう。現生人類から見てそれほど魅力的には思えないが、実際どうだったのかは骨格以外の手がかりがないので何とも言えない。洞窟などにまとまった形で骨が見つかっているので、当時から埋葬の習慣があったのではないかとも考えられている。だが、なぜ数万年前に突然絶滅したかも謎のままだ。

 ただ、この本を読んでさらに驚いたのはドイツで最初に発見され、ヨーロッパ地域では広く生息が確認されているネアンデルタール人が、さらに東の西シベリア方面に生息していた証拠も見つかっているという。とすると、ネアンデルタール人はもっと広い範囲に生息していた可能性が高い。

 しかもロシアの人類学研究者からの標本の提供で、ロシアとモンゴルの境界のアルタイ山脈にあるデニソワ渓谷というところで、古代人の人骨が見つかり、やはりDNA分析した結果、ネアンデルタール人よりも古い人類の祖先とわかったという。こちらは「デニソワ人」として2010年にネィチャーに論文が発表されている(研究者も科学誌をうまく使い分けている)。

 こうしたスケールの大きな研究を知ると科学の醍醐味を教えてもらったようで、実に爽快な気分になる。だが、おそらくこうしたユニークな研究は日本からは生まれないだろうなと少し残念な気持ちにもなる。ネアンデルタール人のDNAの解読などというテーマで、日本できちんとした研究費がつくとも思えないし、まともな研究者が取り組もうとしても奇人か変人扱いされて、学会やほかの研究者からはろくに相手にされないことだけは間違いない。ということから言えば、ペーボ博士を研究の責任者に据えて、惜しみなく研究費を援助したマックスプランク研究所に感謝するほかないのだろう。

 新たな知見が加わるにつれて、人類の謎は深まるばかりだ。それとともに、ネアンデルタール人が本当に絶滅してしまったのだろうかという気もしてくる。実は、ネアンデルタール人はわれわれの中に深く深く、生き続けているのではないだろうか。読んでみて、まったく驚きのサイエンス・ノンフィクションだった。機会があれば是非、読んでみていただきたい。