ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

「ラオスにいったい何があるというんですか?」 旅行好き作家の情報たっぷりの紀行

2016年06月20日 | 読書日記
「ラオスにいったい何があるというんですか?」 村上春樹



 2015年11月に発売された村上春樹さんの紀行文集。発売直後、近所の本屋で手に取って、買おうと思いながら、なぜかそのままにしていた。ラオスの寺院で子犬が無心に昼寝しているかわいい表紙に「何だろう」と思って手に取ったが、そのときは買わないままだった。

 半年以上経って読んだのは、父の日に息子からkindleをプレゼントされたからだ。たいくつな毎日をこれでまぎらわせてみたら、といった気持ちだろうか。

 最初のkindleに入っているのは漱石の「坊ちゃん」だけ。何か別のものを読まなくちゃと思って、読みやすそうなこれを購入した。1500円。紙の本より少し安いようだ。データのダウンロードも大して時間がかからず、すぐに読み出せた。

 春樹さんはとっても好きな作家だ。年齢が近いせいもあるのかもしれないが、感性がわりあい似ている印象だ。評者は滅多に小説を読まないが、近作は大概購入している。「色彩のない多崎つくると巡礼の年」も面白かった。

 でも本当に好きなのはエッセイだ。「ラオスにいったい何があるというんですか?」は紀行文を集めた一冊。あとがきを見るとJALのファーストクラスの機内誌「アゴラ」に掲載されたものが中心らしい。たまにJALで海外へ行くことはあるがファーストクラスには縁がないので、春樹さんが定期的に寄稿されていることは知らなかった。

 春樹さんのエッセイは大変読みやすい。そのうえ、おさめられている紀行文の最初が、仕事でアメリカにいたとき、取材で何度も訪ねたボストンから始まっているので余計身近に感じられる。ボストンにはサミュエル・アダムスという伝統のビールとおいしいシーフードがあるので、食生活も日本人になじみやすい。春樹さんはこのどちらも好きなようだ。

 ボストンは米国の大都市だが、ニューヨークやシカゴ、ロサンゼルスといった巨大都市とは一線を画している。チャールズ・リバーという川が街なかを流れていて、学生たちがボートをこいだり、河畔をジョギングしたり、何となくのんびりしている。ケンブリッジという隣町も含め、ハーバード、MITなど世界的な大学が集まっているのも街の雰囲気を形作るのに役立っていると思う。

 余談になるがプリンストン大のプリンストン、イェール大のニューヘブン、スタンフォード大のパロアルトなど有名な大学のある街はそれぞれ個性的な味わいがある。英国のオックスフォード、ケンブリッジもそれぞれが豊かな歴史に育まれた大学町だ。

 春樹さんはこのボストンで何度もボストンマラソンを走ったらしい。ボストンマラソンには参加したことも見たこともないが、2度目に米国に滞在したニューヨークではニューヨーク・シティ・マラソンがあって、セントラルパーク内のゴール近くで大勢の男女が懸命に走るのを見物した。

 ボストンはいい街だったな、と思いながら読み進めていると、次はアイスランドだった。アイスランドは機会があれば是非行きたいと思っているところだ。日本からの直行便はないので、ヨーロッパの主要都市から乗り継ぎで入る。大西洋のど真ん中の、もうほとんど北極圏という位置にあるので冬は寒くて行けない。春樹さんも9月に行ったそうだが、かなり寒かったようだ。アイスランドは、このあたりから大西洋の海洋底を形作るプレートがわき出している大地の裂け目があるので、ほかの地域では絶対見られない光景をいくつも見ることができるはずだ。ブルーラグーンという巨大な露天風呂(もちろん水着着用)も世界的に有名だ。春樹さんによるとこれは実は近くの地熱発電所の温排水らしい。大きさも小さな湖くらいあるそうなので、温泉好きとしては是非入ってみたい。

 次に紹介されているのはオレゴン州とメーン州にあるポートランドだ。オレゴン州は西海岸にあり、カリフォルニア州のすぐ北に位置している。リベラルな風土で、もう20年以上前、州法で安楽死を認めるというので取材に出かけた。ポートランドは人口3、40万くらいの深い森に囲まれた落ち着いた街だ。立派な音楽ホールがあって、年末だったのでバレーの「くるみ割り人形」を見た。春樹さんはこの街にある有名なレストランへ食事に行くのが目的だったようだ。ポートランドは海に面してはいないが、海が近く、カリフォルニアほど有名ではないものの、おいしいワインもできる。春樹さんはこの両方を堪能したらしい。本当にうらやましい。メーン州のポートランドに行く機会はなかったが、米国ではロブスターの産地として名高い。メーンロブスターはボストンでも食べさせる店が多い。

 4章目の「もしタイムマシーンがあったなら」というのはニューヨークにある古いジャズクラブの紹介だ。ブルー・ノートと並んで有名なヴィレッジ・ヴァンガードを詳しく紹介している。春樹さんはここの女主人と懇意らしい。どちらにもNY滞在中に行っているが、個人的にはこの後に紹介されているバードランドの方が好きだ。ジャズクラブというと隣の客とひざを付き合わせるような狭い店が多いが、バードランドは春樹さんが書いているように「最新の設備を備えたナイトクラブに近い店」だ。料理もわりあいちゃんとしていて、米国南部のケイジャンという田舎料理が売り。スパイシーなケイジャン料理とおいしいビールを飲みながら、ジャズの生演奏を聴くのはこたえられない。

 表題になっている「ラオスにいったい何があるというんですか?」はラオスに行く乗り継ぎで、ベトナムのハノイに一泊したとき、ベトナム人に不審そうな顔で聞かれた言葉なのだという。確かに地図で見るとラオスは南北に長いベトナムとカンボジアの間に挟まれた内陸の国だ。仏教国で、ビエンチャンが首都というくらいしか知識がない。春樹さんはそこからルアンプラバンというメコン川沿いの街を目指している。表紙になった犬はお寺で昼寝しているところを撮影されたらしい。ルアンプラバンは日本でいうと奈良のような古都で、多くの仏教寺院が集まっている世界遺産の街だ。

 春樹さんはこのルアンプラバンで、街の人がするように早朝、集団托鉢に出る僧侶たちに餅米を寄進したり、自由気ままにお寺をめぐったりしたという。

 ベトナムでの問いかけに、春樹さんは「僕は今のところ、まだ明確な答えを持たない」と述べたうえで、「(街で見たり経験したりした)それらの風景が具体的に何かの役に立つことになるのか、ならないのか、それはまだわからない。結局のところたいした役には立たないまま、ただの思い出として終わってしまうのかもしれない。しかし、そもそも、それが旅というものではないか。それが人生というものではないか」とつぶやいている。これにはまったく同感だ。

 海外の街が続く中で、国内では唯一、熊本が収録されている。東京するめクラブという気の合った仲間との再会のためらしい。学生時代以来、48年ぶりの再訪だったという。案内を得て漱石の旧居を訪ねたり、近くの人吉までSL旅行をしたり、廃校になった海上に突き出す小学校を訪ねたり、熊本県庁のくまモン担当を訪ねたりと気の向くままの旅になっている。

 だが、熊本編の終わりの方に、「阿蘇に行く」という節で、八代市近郊の日奈久温泉にある、しにせ旅館に泊まったというくだりがあった。阿蘇山近辺をドライブし、焼きトウモロコシをほうばったというくだりもある。「漱石からくまモンまで」が文藝春秋のCREAという雑誌の2015年9月号に掲載されているので、春樹さんが熊本を訪ねたのは2015年の夏前くらいなのかもしれない。もちろん、このときには2016年4月、この地域を2度の激震が襲うということはだれも知らない。評者も日奈久という固有名詞は今回の地震を引き起こした断層の名前として初めて知った。図らずも、熊本地震が起きる直前の平穏な時代の熊本とそこに住む人々の記録になってしまったわけだ。

 地震、火山の噴火、洪水、台風など自然災害が頻発する日本列島に暮らし、各地を見て歩くのは、(もちろん国内だけのことではないだろうが)後から振り返ってみると、その人にとってなかなか厳しくしんどい経験になってしまうのかもしれない、とつくづく思った。だからこそ歩かなければいけないのだろうという気もしてくる。心優しい春樹さんは熊本のことを日々、真剣に案じているだろう。その思いをきちんと共有しておきたい。

 余談ながらkindleはなかなか読みやすくて便利だ。目も疲れにくい。一台に千冊以上入るようなので、旅行に行くときには重くてかさばる本をもっていかなくてもすむ。これはとても便利だ。もちろん、60年以上紙の本になじんでいる守旧派の評者には紙の手触りや香りは何にも代えがたいのだが。