ミルパパの読書日記

大手メディアで長年、科学記者。リタイアした現在はなかなか言うことを聞かない大型犬の相手をしながら読書にふける。

中国政治からみた日中関係 国分良成 中国政治に翻弄される日中関係の実像

2017年06月01日 | 読書日記
中国政治からみた日中関係 国分良成 中国政治に翻弄される日中関係の赤裸々な実像



 国分良成氏は横須賀市にある防衛大学校校長。長く慶応義塾大学法学部教授を務めた中国政治の専門家だ。評者は科学報道が専門で、アメリカを中心にした国際報道にも携わったが、中国政治や日中関係については門外漢だ。それだけに日中関係をめぐる近年の不協和音やきしみはよく理解できないままだった。

 著者は「まえがきーー本書のねらい」で、「本書のテーマは、日中関係の悪化と改善の変動要因を探ることにある。従来の研究はそれを主として日本外交の観点から考察するものが多かった。日本側に視点を置いたほうが資料も圧倒的に多く、多元主義的なアプローチが可能だからである。そのことから、日中間のいわゆる歴史問題に焦点をあてた研究が必然的に多くなる」と指摘する。

 「歴史問題を中心主題に据えると、日本の歴史問題に対する姿勢に世界の関心が向かわざるを得ない。日本国内には極端な意見まで含めて多様な意見が存在し、それらがオープンに議論されているからである。それに比して、中国の対日姿勢は体制的要因もあり、表面的には一つに見える。そのため、中国内部の分析は手薄となってきた」。

 「本書の主たる分析対象は、中国の国内政治である。本書は、日中関係の変動要因が主として中国の国内政治にあるとの仮説に立っている。中国は近年の経済成長と市場経済の展開により、たしかに社会は多様化・多元化し、人々の意識も大きく変化している。しかし政治体制についていえば、中国共産党による一党独裁体制に大きな変化はなく、政治の多元主義は排除されている。政治の基本は権力であり、中国では派閥間の激しい権力政治が奥底で恒常的に進行している(中略)権力交代のメカニズムやルールが存在しない中国において、共産党の下野はない」。
 
 中国研究者なら当たり前のことだろうが、中国の実情を知る機会の乏しい非専門家はガツンと頭をたたかれたような気分になる。

 続いて「中国政治を理解する上で、最高指導者とその周辺の指導者たちの思惑、関係、行動は依然として決定的に重要である。『人治』と言われるゆえんである。そして、国内政治における権力ゲームの帰趨が外交、とりわけ対日政策にも相当な影響を与えるであろうことは想像に難くない。本書は、対日政策の場合、それが相当大きいと仮定している。中国共産党は権力の歴史的正統性を抗日戦争の勝利に置いており、日本との関係は微妙な要素をもともとそこに内包している」。

  チャイナ・スクールという言い方がある。外務省で中国専門家を指す言葉として使われたのだと思うが、新聞社にも似たグループがあった。チャイナ・スクールの多くは中国への留学歴があり、中国語が堪能なほか、中国文化に対する強いあこがれがあった。ロシア・スクールと言われるグループもあるにはあるが、チャイナ・スクールほどは目立たない。

 国分氏はこうした狭いサークルの発想から、かなり自由なように見える。それは中国への留学経験もあるが、それより先にアメリカに留学し、アメリカで中国研究の研究手法を学んでいるからだとも思える。

 氏は序章の「地域研究としての中国政治」で、その謎解きをする。

 戦後の中国政治研究で、アメリカでは1960年代、毛沢東革命がソ連の経験のコピーかどうかで大論争があった。ソ連と同質であるという主張と、中国共産党は民族主義者の集まりで、ナショナリズム的色彩が強く、ソ連とは性質が異なるという主張が激突したが、その後、後者の正しさが証明された。このころ、日米の研究交流は比較的頻繁に行われていた。当時は、容易に中国に入国することができなかったからだ。その後、中国との直接対話が容易になるにつれ、日米の研究交流は 減少していったという。

 当然のことながら、日本の中国政治研究は戦前を否定するところから始まった。「戦後は意識的に政治から距離を置こうとする傾向が強くなったのは事実だが、ある意味ではその反動として逆に政治化されてしまったのが中国政治研究であったともいえる。そこに一定のイデオロギーや政党の影響力が大きくなったからである」と分析する。

 国分氏はあえてタブーにも踏み込む。「戦後日本の学問風土を考えるうえで、マルクス主義の影響を無視することはできない。今ではあまり語られなくなったが、おそらく社会科学者・人文科学者のかなりの部分がそうであったといえるほどその影響を受けていた。中国は共産革命によって成立した社会主義体制であり、このことからも当然にマルクス主義者にとっては近づきやすい研究対象であった。したがって戦後の中国研究の世界では、マルクス主義もしくはそれに共鳴する立場の研究者が多く関わっていた」。

 こうした状況が変化するのは1960年代後半に始まる文化大革命をめぐってだった。ソ連派と中国派が鋭く対立し、それは日本国内の学生運動にも大きな影を落とした。その後、1989年に起きた天安門事件はさらに大きな衝撃を与える。「それまで日本では、中国に対して批判的な言説を語ることを控えるような社会的雰囲気が戦前との関係であろうか、どこかに存在していたが、事件後はそうした空気も一挙に消え去ってしまった。その意味で、冷戦終焉と天安門事件はそれまで暗黙に覆っていた中国に対する政治的、イデオロギー的なヴェールを解き放つことに大きく寄与したのであった」。

 氏はこうも続ける。「以前の傾向に対するこうした反動からか、あるいは日中関係の悪化のためか、今日では中国の否定的な側面ばかりを照射する傾向が逆に強まっているように思われる」。

 文革というと評者にとっては学生時代の出来事だが、工学部にいた評者にとっても首をかしげざるを得ないことがままあった。科学技術論の高名な専門家が文革当時、中国で流行した「土法の思想」を紹介していた。「民衆の土着の知恵に学べ」という論旨だったように思う。たとえば製鉄の分野では、大がかりな高炉を作らず、手作りの炉でも十分実用に供する鉄ができるというたぐいの話だった。だが、実際にできた鉄は不純物が多く、使い物にならなかった。この専門家を注目していただけに、結末には大いに失望した。

 筆者は中国政治研究の課題として、いくつかの項目を提起するが、中でも最近は中国政治研究における権力中枢への分析が縮小し、代わりに政治社会状況など権力や体制周辺の分析が主流となる研究のドーナツ現象が起こっている、と指摘する。国分氏は逆に権力中枢の分析をもとに、中国の政治体制を読み解く。

 評者がもっとも興味深く読んだのは1989年に起きた天安門事件のくだりだ。その2年前、改革派として期待を集めていた胡燿邦総書記が失脚していた。その2年後の4月、名誉回復されないまま胡氏が死去したことに端を発した、学生による追悼デモへの参加者は増え続けた。5月には100万人を超え、20日には北京市の一部に戒厳令が発令された。共産党指導部は6月3日夜、装甲車や戦車を先頭に戒厳部隊を天安門広場に突入させた。無抵抗の学生に軍は発砲し、多数の犠牲者が出た。今も全容は不明だが、数百人から数千人が命を落としたことは間違いない。

 「天安門の虐殺」は映像を通じて世界に広がり、中国は国際的信用を失墜した。だが、その後は最高実力者、鄧小平氏の改革開放路線により経済発展の成果を分配していくことで、国民の不満を交わす懐柔路線に転じていく。

 「1949年10月1日に誕生した中華人民共和国は、中国共産党の絶対的な指導のもとで、半世紀以上の歴史を刻んできた。(中略)この半世紀以上の歴史を数人の指導者だけで語れることは、日本の首相がその間、何人入れ替わったかを想起すれば驚きともいえよう。日中両国の政治状況は、この点の比較だけでも両極を成すのである」。

 日本の状況だけをもとに日中関係の変化を分析していくことには大きな限界がある。

 筆者は天安門事件前後の鄧小平、江沢民時代を締めくくるのに、「この時期を特徴づける対外路線を一言でいえば、それはその後頻繁に使われることになる『韜光養晦(とうこうようかい)』であった。自身が弱いときはじっと頭を下げて時を待つという意味である。逆に言えば、中国が力をつければやがて頭をあげるのであり、21世紀に入ってそれが徐々に現実のものとなっていった」。

 現代中国を考えるうえで、天安門事件以上に忌まわしい記憶といえるのが文化大革命である。筆者は第5章の「習近平体制と文化大革命」で、半世紀前に起きた文革について詳述する。

 「現在の中国では、中華人民共和国史ですら自由に語ることはできない。建国以来の共産党史の中に権力の正統性としては語ることのできない暗部があまりに多いからである。(中略)今日、文革に関しては『不要惹一身騒』(面倒なことには巻き込まれるな)と語られる傾向がある。これはつまり、文革のような臭いものには蓋をしておけ、という意味である」。

 文革時代、辛酸をなめつくした幹部の一人が習近平氏の父で当時、副総理を務めていた習仲勲氏だったという。

 文革に関する中国共産党の正史は1981年に採択された「歴史決議」だ。ここでは文革を「指導者が間違ってひき起こし、それが反革命集団に利用されて、党と国家と各民族人民に大きな災難をもたらした内乱である」としたうえで、「この全面的な長期にわたる左寄りの重大な誤りについては、毛沢東同志に主な責任がある」と結論づけた。「毛の『晩年の誤り』とすることで、中華人民共和国の父を温存する道を残したのである。全面否定すれば、中華人民共和国の自己否定につながらざるをえない」。

 文革の犠牲者はどれくらいだったのか。本書では1982年に開かれた中央政治局拡大会議で当時の葉剣英全人代常務委員長が報告したとされる数字を挙げる。「大規模な武闘事件による死者が約12万3700人、250万の幹部が批判され、そのうち不正常な死が約11万5000人、都市の各界人士481万人が攻撃され、そのうち不正常な死が68万3000人、農村では地主・富豪を中心に不正常な死が約250万人、約1億1300万人が程度の違いはあれ政治的打撃を受け、約55万7000人が行方不明になったという。これらの真偽は定かではないが、合わせると約342万人の死者と55万7000人の行方不明者となる」(香港の雑誌「開放」2012年10月号から)。

 まことにおぞましい数字というほかない。しかもその事実を公に語ることができない状況がいかに深刻なものであることか。

 国分氏は文革の本質を「端的にいえば、それは権力闘争であった。社会矛盾も顕在化したが、それは権力の迷走が大きな引き金となった。権力闘争の核心は毛沢東の後継者問題であった。毛沢東は1950年代から劉少奇、鄧小平らを後継者として選び、50年代末からは第2線に退いた。しかし任せたはずの彼らの政策や態度を見るにつけ、毛は不信感の虜となり、文革を発動した」。

 評者は、残念ながら文革については乏しい知識しかない。「文革の本質は権力闘争である。その根っこには老いゆく毛沢東の焦燥感があった。『毛沢東の焦慮と孤独』(中略)、これほど文革の本質を的確に表現したものはない」。明快きわまりない指摘に目から鱗が落ちる思いだ。

 毛沢東後は鄧小平がキングメーカーの立場についたが、その後の指導者についての短評も簡潔で的確だ。

 「鄧小平はまず胡燿邦を後継者に引き上げた。しかし、胡の自由主義的で大胆な改革方針は長老保守派から疎まれ、87年1月には鄧小平の同意のもとで失脚した。つづいて鄧は趙紫陽を後継者に選んだが、89年の学生運動を支持したことで孤立し、天安門事件を契機に失脚した。天安門事件の直後、鄧小平は『思想のしっかりした』江沢民を次期後継者にする提案に賛同し、自らそれを推進した。(中略)江沢民は一貫して権力に固執した。市場経済化が進む一方で党の許認可権限も拡大し、経済的利益も拡大した。権力は利益に直結した。(中略、その後をついだ)胡錦濤は中央政治局においても少数派で、集団指導体制を推進したが、そのことで結局は江沢民派に屈した。この間、江沢民派に国有企業の独占を許し、そこから私的利益を吸い上げることを止めなかった。こうして政治腐敗が蔓延することとなった」。

 「胡錦濤から習近平への権力の移譲も不透明であった。鄧小平のような存在がなく、政治舞台の背後での権力闘争と談合の中で決めるしか方法はなかった。(中略)江沢民派は実質権力の維持に奔走したが、胡錦濤時代の集団指導体制の失敗を目撃した習近平は、江派の頭目たちを政治腐敗を理由に次々と追い込んでいった」。

 第5章の「習近平体制と文化大革命ーー連続と非連続」は中国共産党の権力闘争の一端を簡明に解説してくれる。全体を読むのはどうもという読者にもぜひ、一読を勧めたい。


 さてここからが中国国内政治に翻弄される日中関係の本題である。評者がなるほどと思ったところだけでも振り返ってみる。まず反日姿勢が強かったことで知られる江沢民時代。1998年11月の訪日で、江氏は小渕首相との首脳会談だけでなく、宮中晩餐会でも歴史問題を大きく取り上げ、日本側の「過去の『軍国主義』」を痛烈に批判した。

 これは晩餐会がテレビ中継されたうえ、共同宣言に署名が行われず、日中の不協和音が世界的に注目された。国分氏は事前の折衝で、日本側が中国が強く要求した「おわび」に言及しなかったことが理由のひとつだというが、あえて江沢民氏の出自についても触れる。実父は日本軍と親密な関係を築いていた汪兆銘政権の幹部で、氏も日本の影響の強かった南京の大学に通い、日本語を勉強したともいわれている。だが、それでは共産党に入党できないため、共産党員で、日中戦争のときに死んだ叔父の養子に入って、そのころから日本に強い反感を抱いていたという説がある。

 訪日の少し前にあたる1995年は第二次大戦終結50年という節目の年だった。この年、江氏はモスクワで開催された反ファシスト勝利50周年記念大会に出席した。「江沢民は帰国後、当時中国で人気のあった日本のテレビ・ドラマや映画を締め出して抗日戦争関連のドラマや映画を大量に流す方向に変えた。それは92年の社会主義市場経済の導入以来、共産党や社会主義に対する関心が急激に低下し、94年からは愛国主義教育を強化していたが、これを強化させて共産党の権力獲得の正統性として抗日戦争勝利を強調し始めたのであった。つまり抗日戦争の主体を共産党とすることで、中華人民共和国を戦勝国として位置づけようとしたのであった」。

 本書ではくりかえし指摘されるが、「周知のようにこれは事実に反しており(中華人民共和国の成立は1949年10月1日)、抗日戦争の主体はあくまで国民党であった。江沢民は無理やり歴史の解釈を共産党中心に置き換えたのであった」。

 尖閣諸島の国有化をめぐって、日中両国の関係が悪化、中国で反日デモが激化し、日本資本のデパートや商店が焼き討ちされた2012年のことは記憶に新しい。ここでも国分氏は中国の国内事情の存在を指摘する。デモが激化したのはこの年8月後半だった。これは毎年、北京郊外の保養地北戴河に最高幹部が集まり、人事などを協議する北戴河会議で胡錦濤派の優位が崩れ、江沢民派が逆転したのと軌を一にするという。「デモの首謀者は当時の公安系統の権力を掌握していた政治局常務委員の周永康であったとの情報が香港を中心に多く出ている。周は胡錦濤指導部を混乱に陥れる目的で裏組織などを動員して反日デモを拡散させた」。


 「翌13年5月には、尖閣を中国の領土と主張するためか、沖縄がもともと中国(清)の属国であったかのような言説が中国社会科学院の研究者らによって『人民日報』に掲載されたが、これは江沢民個人の直接の指示であったと伝えられている」。巻末の注釈では「江沢民の指示については、当時北京において広く共有されていた情報である」という。

 中国報道に携わっている記者も表面的な事実を伝えるだけでなく、そのニュースがフェイク(偽物)でないのかどうか、ニュースの意図や背景、ひいては中国指導部内部の権力闘争の推移や帰趨についても見極める目を持たなければいけないのだろう。

 反日デモについては個人的な経験がある。たまたま京都に出かける用事があって、鴨川にほど近い小料理屋で食事をした。隣合わせた一組の客が中国での反日デモの話題になり、焼き討ちでひどい被害をこうむった商業施設の会社の人だと知れた。失礼とは思ったが、最後に「あのときは本当に大変な思いをされたでしょう。よく頑張られましたね」と伝えると、びっくりしながらも、涙を流して喜んでくれた。中国に進出する企業は数多いが、政治的リスクもはなはだしいことを思い知らされた。

 反日デモの首謀者とされる周永康氏も14年7月、巨額の収賄と女性問題を理由に失脚した。

 氏はこう結論する。「『反日』は江沢民という存在を超えて、党と国有企業が癒着した既得権益層全体の体制維持のイデオロギーとなったということである。現体制のこれ以上の改革を否定し、中国共産党の独裁体制を強化する。そのために党の歴史的正統性である抗日戦争学習を強め、ナショナリズムを鼓舞する。しかしその本質は、それによって指導者の個々の既得権益を守ろうとすることに他ならない。歴史からしても日本が最も叩きやすく、しかも日本を叩いても誰も失うものがないと考えていたふしがある。そうした方法を手動したのは、いうまでもなく江沢民とそのグループであった」。

 だが、国分氏は改めてわれわれに警告する。「もっとも注意しなければならないのは東シナ海の海と空である。現状を見る限り、中国が海上と航空における軍事的な勢力拡大を止めることはなさそうである。これは別に習近平政権になって新たに決めた方針というより、おそらく鄧小平時代から長年にわたって中国が少しずつ進めてきた長期的な軍事戦略路線に沿ったものであろう。中国の大国への夢の中で、軍事力増強も重要な柱として含まれているからである」。

 こうした視点を持った国際政治学者が幹部自衛官を教育する防衛大学校の最高責任者であることはありがたいことだ。幹部自衛官の中にはタカ派も少なくないだろうが、国際政治の現実を冷静に踏まえない限り、国の防衛を構想し、構築することなどありえないと思うからだ。

 中国問題や日中関係に関心を持つ人に、必読の一冊ではないだろうか。あとがきを読むと1990年ごろから最近に至るまで、さまざまな機会に発表された論文を編集し直したもののようだ。多くは専門誌への発表だったので、今回、岩波現代全書の一冊に入って、広く読まれる機会を得たことは何よりという気がする。時代ごとに整理された各章ごとに「まとめ」があり、そこだけ読んでも流れはほぼ理解できる。終章にも「まとめ」がある親切な構成で、これは氏の人柄を物語るものかもしれない。