合歓の俳句少し。
谷空にかざして合歓のひるのゆめ 長谷川素逝
ひとさそふごとく水ゆく合歓ゆふべ 藤田湘子
花合歓に夕日旅人はとどまらず 大野林火
いずれも合歓の花の雰囲気が出ている。合歓の花は、咲いていても眠っているような感じである。花と言われている部分は、長い雄しべの集まりであり、長い睫毛のようでもある。
大野林火の句もいい。夕陽を受けた花合歓との、この瞬間の出会いと、流れてゆく旅人の時間と。大野林火の代表句、
ねむりても旅の花火の胸にひらく
が私は好きだが、同じように、見えない時間が感じられる。
合歓の花にはたしか淡い香りがあったように思うがと、もう一度確認のため、先日の合歓の木を見に行ってみた。あわれあわれ、花は既に枯れて茶色くなり見る影もない。花の盛りは短いのだった。
うつくしい花もつ合歓は折れやすく吾のいのちを盗みかねつも
山崎方代
下の句の大仰な言い様がなんか芝居めいているが、方代だから許せる。変な深読みをすれば、合歓の木に首吊りの縄でもかけたか、ともとれるが、そんな味気ない読みより、いのちは魂ととるべきであろう。
たしかに合歓の花には魂があるかのような、人の心を奪うような妖しさがある。
さて、私の好きな小中英之にも三首あった。
洪水の空にあふれて合歓あわきねむりもそよげまがまがしき夜
『わがからんどりえ』
咲く花の合歓うすくれないの昼つかた黒縄(こくじょう)へ風吹きこむごとし
『翼鏡』
合歓の葉に囁きあれば応へつつ夕雲しばし茜してゐよ
『翼鏡』
正直、小中英之の歌はほとんど、意味をたどるのでなく、感覚的に受け取るものが多い。これらの合歓の歌もそうだ。「洪水の空」「まがまがしき夜」「黒縄」といった不穏なものに対して、合歓は救いとして捉えられていると思う。
一首目と三首目は擬人化である。三首目など、囁きは誰のものか、応えつつは誰かなどわかりにくい。しかし、囁きを合歓ととり、応じるのを夕雲ととると、その照応が美しい情景として浮かぶ。
合歓の葉が眠りにはいるころのかそけさに囁きを感じ取る感性、「茜してゐよ」と夕雲に呼びかける心には、やはり前二首と同じようにどこか鬱屈したものを感じる。
なんにしても、合歓に魅せられる人はそれだけで好きになる。川辺や野や谷にじっと佇んで、合歓と魂の交歓をしようとする人はそれだけで魅力的である。