かま猫のひとり言

日々感じたこと、または私の好きな一首、一句

秋の気配、大西民子の歌

2011年09月08日 17時02分13秒 | つれづれ

 この数日、明け方が涼しい。昼間の日差しは強く、残暑は厳しいが、空気の乾きに秋を感じる。
 いつの間に9月に入ったのかと思うほど、あるいは、この8月何していたか思い出せないほど、時が虚しく過ぎていく。

 真つすぐに立つといふこのさびしさよ花の終れる向日葵の茎
                        大西民子 『野分の章』

 夜となれば血管の浮く手の甲をさびしみてひとりの夕食を終ふ
                         同上

 大西民子は私の好きな歌人の一人だが、小中英之の歌と違って、ほとんど意味の分からないものはない。平成6年に亡くなっているが、多くの女性歌人(特に中高年)に支持され、好かれて来た。
 人生そのものが、短歌とともにあり、第一歌集の『まぼろしの椅子』から遺歌集『光たばねて』までを読み通すと、大西民子という女性の一生が自伝のように伝わってくる。しかし自伝と違う。読者に想像の余地、共感の喜びや苦しみを託してくれている、短歌という形式ゆえんの幸甚を思う。

 眠れない夜など、幾たび『大西民子全歌集』を開いてきたことだろう。有名な歌は数限りなくあるが、そうでない何気ない歌も、心に沁みてくるものが多い。若いころ前川佐美雄に師事し、その後、白秋の弟子木俣修の「形成」に拠った民子の歌は、当然写実ではない。「写真のような歌でなく心の中で描く絵のような歌を」と前川佐美雄に言われたとどこかに書いていたが、そのとおり、日常の心揺らぎ、孤独感、喪失感などを独特な表現で具象化した歌が多い。
 初期の私小説的なものからどんどん深化して、幻想的であったり、抽象的なものも多いが、誰にも分かるような言葉で表現されるので、多くの人を魅了する。寂しい歌が多い。というか、寂しさに耐え続けた人生だったのだろうと思う。
 しかし、不幸な境遇に屈することなく、一人の職業人として働き続け、かつ文芸としての短歌を追求し一流の歌人たらんとした一生だった、と言える。歌も好きだが、一人の女性の生き方として尊敬する。

 2月に亡くなった歌人石田比呂志氏についても思ったが、実人生において、自ら孤独という境涯を(それが必然であったとしても)選び取った時点で、後世に名の残る歌人として立っていく覚悟を決めたのではないだろうか。民子はエリートでいい仕事にも就け、芸術的才能にも恵まれていた。一方石田比呂志は秀才だったと思うが、幼少期の家の不運や思春期の躓きで、食べていくことの辛酸をなめつくした。学歴と職業コンプレックスをばねに努力を続けて生きた。
 まったく違うのだが、共通しているのは、ともに十代の多感なときに石川啄木に出会って短歌を志していることである。そして、民子の場合は苦しい婚を経てずっと独り身をとおし、石田比呂志も、二度の婚の後あえて孤独を引き受けている。現実的、俗的な幸せ(例えば家庭など)を手にしたら自らの歌が腐ってしまうことを知っていたのだと思う。

 大西民子の実人生は苦しみに満ちていたかもしれない。石田比呂志もこの数年寂しい歌が多かった。しかし、子や孫に囲まれて幸せな暮らしに到っていたら歌人石田比呂志はなかっただろうし、もちろん歌人大西民子も、短歌史に残ると思える歌の数々も生まれなかっただろう。

 心が弱っているとき、虚しさに押しつぶされそうなとき大西民子の歌に救われることは多い。こんな気持ちを民子だったらわかるだろうと勝手に思うからか。あるいは、心の中の先生(これって私淑か)に対話を試みるような気持ちになるからか。
  
誰もが知っているような歌だけでなく、ああこんな歌もあったのか、これも共感するといった歌を見つけ直して読むのは楽しい。付箋をつけたり赤鉛筆の線を引き直したりして、何十回と開いてきて私の『大西民子全歌集』はぼろぼろである。

 今のまに反故の類ひも焼きおかむ身を絞り人を恋ひし日ありき

 どこまでも崩せば崩れてしまふゆゑ寝る前の髪をきりきりと巻く

 眠られぬ夜々のあとまた生きてゐるのみに足らむと思ふ日つづく
                          『野分の章』

 みちのくの干潟思へば草の穂も秋の気流になびかふころか

 いそしみていそしみてなほ足らざるは時間の如し力のごとし
                          『風水』

 大西民子は盛岡の生まれである。大正13年。そして、昭和19年には釜石高等女学校の教師となっている。昭和22年に釜石工業高等学校の教師大西博と結婚し、子を産むが死産。昭和24年には、二人で埼玉県大宮市に移り住む。生涯故郷に戻り住むことはなかったが、さまざまに故郷は歌われている。そして釜石は、後に去っていく夫といまだ幸せだったころの思い出の地である。
 とはに続かむ幸と思ひきリアス海岸の入江の街に君と住みつつ
 バス降りて十字路をよぎり来る君よ夕陽の中のわれに手をあげて
                          『まぼろしの椅子』

 民子が生きていたら、東北の今回の大震災をどう受けとめただろうか。係累は誰もいず墓もない(”みどり児の墓は根雪にうもれゐむ・・・”という歌があったが、家族の墓は民子が埼玉に建てている)。しかし、数年の教師時代の教え子たち(若いころの歌によく詠まれている)を思わずにいられなかったのでは。そして記憶の街が破壊され消失することの思い。何を考えどんな歌を作っただろうか、あるいは作らなかっただろうかなどなど、時々思う。

最後に有名な歌

 石臼のずれてかさなりゐし不安よみがへりつつ遠きふるさと
                           『無数の耳』

                     


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2 コメント

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ふるさと大西民子 (イシカワ ロウ)
2011-11-15 20:33:42
身に染む秋、身にしみる大西民子のうた。ふるさとの写真と共にどうぞ。
懐かしの大西民子 (イシカワ ロウ)
2011-11-16 17:01:21
大西民子についてこれだけの鑑賞ができる人、やっぱり相応のご年齢しょうネエ・・。80数歳とか・・・。
近頃さっぱり大西民子さんのお噂をききませんからネエ・・・。