かま猫のひとり言

日々感じたこと、または私の好きな一首、一句

合歓の花 三

2011年07月21日 20時47分55秒 | つれづれ

 前々回の、古泉千樫の合歓の歌

 たもとほる夕川のべの合歓の花その葉は今はねむれるらしも

は、歌集『屋上の土』のなかにあった。千樫の歌集では『川のほとり』(大正14年刊)だけが生前出版されたもので、後に弟子たちによって、『屋上の土』『青牛集』が編まれる。千樫は明治19年に千葉県安房郡に生まれ、明治41年、22歳で上京して伊藤左千夫の弟子になる。
 この合歓の歌は、明治43年の作とされていて、「合歓の花」という一連四首の冒頭の一首である。続く三首は

 夕風にねむのきの花さゆれつつ待つ間まがなしこころそぞろに

 夕川の上げ潮の香のかなしきに心はもとな君がおそきに

 ねむの花匂ふ川びの夕あかり足音(あおと)つつましくあゆみ来らしも

 相聞の歌である。
 
上京した千樫は、しばらくは左千夫のもとで家業(搾乳業)を手伝ったり、旅行について回ったりする。慣れない都会生活で今後の目途も立たず、不安なときを過ごしていただろうと思われる。やっと「心の花」の石榑千亦の世話で帝国水難救済会に就職し、アララギ(明治41年10月創刊)の編集も手伝い、長塚節、石原純、斎藤茂吉、島木赤彦、岡麓、などの歌人たちとの交流も始まる。また、森鴎外主催の観潮楼歌会にも左千夫に随って出席するようになっている。
 
このような生活の安定を手に入れてやっと故郷に残してきた恋人山下喜代子を迎えるのだが、そのときの思いが、この合歓の花の一連に表れている。
 
故郷での二人の仲は周囲から祝福されるようなものではなく、それも出郷の理由であるかのような苦しいものであった。新しい土地で新たな出発をしたかったであろう。千樫24歳、喜代子34歳の結婚である。

 千樫は、伝記によれば生活力旺盛とは程遠いタイプで、性格も優柔不断で頼りなく、軟弱な印象である。他のアララギ同人たちと出自も違うが(中程度の農村の出で、15才のときに小学校の代用教員になり、歌も独学で身につけている)、都会に出てからも世渡りがうまいわけではないから貧しいままである。子も亡くす。後に石原純との恋愛事件になる原阿佐緒と恋に落ちたりもする。年上の妻、喜代子の苦労は容易に想像できる。
 
大正13年には、北原白秋らの「日光」創刊に加わったことをもって、アララギからも排除されている。その後病気になり昭和2年に42歳の若さで死ぬ。
 
傍から勝手に思えば、不遇な生涯にも見える。歌人としても社会人としても、茂吉のように華々しい評価を得たわけではなかった。がしかし、松倉米吉ら田舎出の貧しい職工労働者を名の残る歌人たらしめえたのはやはり、貧しい都市生活者であった千樫ゆえだと思う。(私は、千樫から松倉米吉なる存在を知り興味を持ってかなり調べた時期がある。) 米吉に関しては、後世の私から見れば、千樫が師としてもっとしっかりしてたらなあと勝手に思ったりするが、やはり千樫との出会い、そして親友高田浪吉との出会いは米吉にとって幸運なものであったろうと思う。米吉は早く病没するが、千樫の弟子たちは青垣会を作り、それぞれに歌人として立っていき、千樫の功績を留める。弟子には恵まれたのだ。

 若いころ兄弟弟子だった茂吉が、千樫の没年に詠んだ歌がある。「古泉千樫君を弔ふ」という詞書で

よろこびて歩(あり)きしこともありたりし肉太(ししぶと)の師のみぎりひだりに

というのがある。この歌が私はとても好きだ。師はもちろん左千夫である。

 左千夫も晩年は赤彦や茂吉に背かれる。左千夫も人間的には破綻の多かった人のようだが、その人間っぽさが千樫と同じで魅力である。そして私は、歌もけっこう好きだ。
 千樫は柔かさ、左千夫はおおらかさ、節は繊細さ。単純には言い切れないだろうけど、そんなところがそれぞれに好きである。
 そして、左千夫と千樫の出身は千葉だが、風土が生んだ歌風の傾向もあるのではないかと思ったりする。


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