かま猫のひとり言

日々感じたこと、または私の好きな一首、一句

ブログの位置づけ

2011年06月29日 10時18分57秒 | つれづれ

  昨日、パソコン教室のブログの授業で、ブログパーツの入れ方を学んだ。実際に2つ選んで入れることになり、私は花の時計と鳥のカレンダーを入れた。
 正直、私は、自分のブログに画像もイラストも入れたくない。花と野鳥ならまあ許せるか、といったところだ。出来るだけシンプルにしておきたいと思う。

 そもそも私は典型的なアナログ人間である。否、アナログ猫か。猫は元来アナログだろう。
 パソコンもこの10数年、学ぶチャンスはいくらでもあったのに気が向かなかった。仕事の場合を除けば不自由はしなかった。
 紙媒体のほうがはるかに好きである。

 例えば一つの言葉の意味を調べるのに、重い広辞苑をどさっと出して、畳の上に半ば腹ばいになりながらめくる。あったあったとその言葉を見つけても、その前後の言葉などが気になって読み始める。そこで思いがけない発見をしたりする。調べようとしていた言葉のことなど忘れていたりする。さらに古語辞典や漢和辞典を繰る必要が生じてまた棚からどさっどさっと出す。畳の上が開きかけの辞書類でいっぱいになる。(テーブル兼机の上はとっくに隙間がない)
 植物図鑑のときも同じである。手持ちの何冊かの図鑑をあれこれ調べるが、あとでメモとろうと思って開きっぱなしで重ねる。そのままほかの事をするので片付かない。
 いつも机上にはスペースがなく、床には足の踏み場がない。

 要するに、私は、きわめて散漫で、効率の悪い、無駄ばかり寄り道ばかりのことをしてしまうのである。それが良いとか悪いとかでなく体質なのである。
 当然生き難い。
人生もそれで終始するのだろう 

 最近は時間がなくなったが、わざわざ図書館まで出かけて行って、重い図鑑や資料を出して、時間をかけて書き写したりメモをとったりをよくやっていた。コピーもよくとった。(昔、図書館のコピーは高かったな)
 現地に行くというフィールドワークも好きだった。足で調べるというか、体を動かして自分で調べたものは身に(頭にではなく)残る気がする。残らなくてもいい。そうすること自体に意味があるのだから。
 でも、集めた資料や記録を引越しの度に捨ててきたことと、
そういう分野で仕事につながるものを見つけておかなかったことは悔しいし、不覚であった。

 仕事さがしのためパソコン教室に通うことがなかったら、パソコンはやっていないだろう。ブログももちろんやってないだろう。
 動機はともかく、始めてしまったこのブログを、私は、人への発信というより自分のためと位置づけている(そもそも敢えて発信したいことなど今のところない)。
 単なる日記と違って、不特定多数に向けて発信する文章には責任が生じると思う。たとえ読む人があってもなくてもである。また、単なるお喋りにもしたくない。
 それを心に留めながら、私が文章を書くとしたら、それは、(私淑する亡き小中英之にならって)鎮魂のため、季節のため、そして、ゆかしい言葉や地名に出会うため、としたい。  

 生きていることそのものにも言える気がする。

 


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2 コメント

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無題 (shiyu-)
2011-06-29 23:34:16
はじめて覗きに来ました。
「鎮魂のため、季節のため、そして、ゆかしい言葉や地名に出会うため…」って、まさに「その言や良し」です。

不特定多数に向けてというより、今日の、今の、生きている、自分自身に向けて…

(おまけ)「一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 山崎方代」

時々、覗きに来ます。
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方代の歌、私も好きです (かま猫)
2011-06-30 09:07:52
shiyu-様
コメントありがとうございます。正直、この日の分、削除しようかと思って開きました。生意気すぎる文なんで。
 そうですね、今の自分に向けて…ですよね。
 南天の実の歌、放代の歌の中でも大好きなものです。実のころに挙げようと思っていました。
 ともかく、短詩型を好きな方に読んでいただけてうれしいです。
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