評価点:53点/2007年/アメリカ
監督:ザック・スナイダー
感情と欲望があふれた映像世界。
スパルタの王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、大国ペルシアからの脅威にさらされていた。
ある日、ペルシアから来た大使が、降伏を勧めてきたのに対し、王は無残にも殺してしまう。
三万もの大軍を引き連れてきたペルシアの王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)はスパルタに迫らんとしていた。
スパルタのクセルクセス王は、ペルシアからの派兵を迎え撃つべきだと考えるが、旧態依然としたスパルタの神官たちは、戦争を認めなかった。
神官に刃向かえない評議会は、王の提案を拒否してしまう。
迎え撃つべきだと考える王と同意見の兵士たち300人は、命を顧みず、戦地へ赴くが…。
「マトリックス」以来の映像美が話題となった作品だ。
監督はあの「ウォッチメン」のザック・スナイダー。
聞く人聞く人、みな勧めてくるので、借りてみた。
スパルタとペルシアの歴史には明るくないので、史実かどうかまではわからなかったが、歴史的スペクタクルを魅せる映画ではないことだけはわかる。
ある意味、予備知識なしで観られるので、万人受けはするだろう。
男臭い戦争映画が好きなら、きっとはまれるだろう。
問題は予告編でも見られるが、色を抑えた映像世界だ。
これが肯定できなければ、多分、あまりおもしろいとは感じられないだろう。
▼以下はネタバレあり▼
というのは、僕が全く楽しめなかった理由が、映像世界が不自然に感じられたからだ。
若い人は大丈夫なのだろうかと勘ぐってしまうのは、年をくったからなのだろうか。
僕は少なくとも、まずあの独特のトーンで展開される映像によって全く感情移入できなかった。
あの映像世界は僕に「CASSHERN」というトラウマを思い起こさせる。
おそらくそれと同じく、予算の都合上、どうしてもCG処理せざるを得なかったのだろう。
それにしても、あの均一化された世界には同化できない違和感を覚えてしまう。
あの均一化された世界には、色が欠落しているだけではなく、世界観そのものが欠落している。
「300」という映像テクストには、感情と欲望以外の要素が徹底的に、そして決定的に欠落してしまっている。
意図的なのか、どうなのかはわからないが、スパルタという国を暗示しているのかどうなのかそれもわからないが、その欠落ぶりは驚くべきものだ。
たとえば、300人で戦場に赴く、という設定だが、彼らはあまりにも軽装過ぎる。
それは史実に基づいていないといった意味の批判ではない。
彼らは長期戦どころか、本当に「散歩」でも行くかのような身軽な荷物しか持ち合わせていない。
そのため、戦争が2、3日続くことさえ疑わしく、どうやってそのリンゴを手に入れたのか気になって物語に同化できない。
生きるという要素が全く描かれない気持ちの悪い世界を生きているわけだ。
それは戦場以外の描写についてもいえる。
明らかにセットだろうというのは、我慢するとしても、彼らの日常が全然伝わってこない。
評議会なるものの意味合いも、レオニダス王の立ち位置も、軍の発言力も、説明してくれない。
映画の軸がそこにないことはわかるが、スパルタという具体的な歴史性ある固有名詞を用いる限り、そのあたりの背景はある程度説明するべきだった。
説明しないので、守るべき者が、レオニダス王の妻子のみで、三万の敵兵が襲うおうとしているペルシアがひどくちっぽけに見えてしまう。
戦場に重さがないのだ。
とくに、評議会での言い訳みたいなやりとりが、余計にその薄っぺらさを強調する。
セロンが妻を欺き、襲うわけだが、彼にキャラクター性が与えられていないから、欲望のままに突き進むオオカミのように見えてしまう。
また、理性の欠如も異常に見える。
妻子を守ろうとするレオニダス王には感情しかない。
隊長が殺されてしまった息子を嘆き悲しみ、敵軍に突っ込んでいく姿は、この映画の全体を象徴する。
スパルタという国の気質だといわれればその通りなのかも知れないが、敵を殺しまくった挙げ句に、戦場に引き連れた息子が殺されて怒り狂うという野生性に、不自然さを感じざるを得ない。
実はラストで一気に理性が示される。
なぜ300人で攻め入ったか、この物語が誰に向けて語られているのか、ということが明らかにされる。
要するに、レオニダス王は、1万人のスパルタの兵士たちを奮起させるために、名誉の犠牲となったわけだ。
それが示されることで、世界観が一気に広がり、そして負けたというバッド・エンディングをやがてはペルシアを退けるだろうというハッピー・エンディングに転倒させてしまう。
負けが、一気に勝ちへというカタルシスを得るラストになっているわけだ。
その意味で、王が実は理知的な人間だったことを暗に述べていることにもなる。
だが、このラストだけでは払拭しきれない疑問がわいてくる。
一つは、なぜ一年間もの間スパルタとペルシアは大きな衝突なく関係を保っていたのか、ということだ。
兵力がそれだけあれば、一年のブランクは必要なかったはずだ。
僕自身が歴史に明るくないので、そういった疑問がわくのかも知れないが、腑に落ちない。
また、300から一万という数の落差によるカタルシスもあるわけだが、たった300の軍勢を引き連れて、それが国の明暗を分けるかのような戦いをしていたのかと思うと、解せない。
少なくとも、ペルシアも、スパルタが一万程度の軍勢を持っていることは、戦う前から知っていたはずで、それなのに、300の軍勢が一国の全ての戦力であるかのようなやりとりをしていたのは理解しがたい。
王を倒せば、すべて解決できるかのような先の戦いは、一気に価値を失ってしまう。
さらに、レオニダス王は自分が死んでしまった後の世界に対して、何ら方針を示さなかった。
もし、スパルタの評議会があのヘタレによって、降伏という道を選んでいたら、1万人の兵士たちはみな、奴隷になっていたわけだ。
それを妻子や他のスパルタを信じて託したことは理解できるにしても、あまりにもハイリスクな賭に見える。
いずれにしても、ラストによって明かされるレオニダス王の「理性」も結局は説明不足すぎて、理性とは感じがたい。
やはり感情と欲望のみが渦巻く映像世界であることは変わりがない。
背景やキャラクター性があまりに乏しく、人間味もない感情と欲望のみが溢れているため、肝心のアクションにも乗れなかった。
映像としては確かに圧倒的なものを感じるが、そのような驚きだけでは、これだけCGが進化した現在において、映画を引っ張れるだけの力はない。
要はそれをどのように生かすか、どのように魅せるかの問題だ。
その意味でこの映画は僕は全く楽しめなかった。
「CASSHERN」にしても「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」にしても、避けているのは映像の不自然さがどうしても受け入れられないからだ。
「300」もそんな予感がしたが、的中してしまった格好だ。
監督:ザック・スナイダー
感情と欲望があふれた映像世界。
スパルタの王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、大国ペルシアからの脅威にさらされていた。
ある日、ペルシアから来た大使が、降伏を勧めてきたのに対し、王は無残にも殺してしまう。
三万もの大軍を引き連れてきたペルシアの王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)はスパルタに迫らんとしていた。
スパルタのクセルクセス王は、ペルシアからの派兵を迎え撃つべきだと考えるが、旧態依然としたスパルタの神官たちは、戦争を認めなかった。
神官に刃向かえない評議会は、王の提案を拒否してしまう。
迎え撃つべきだと考える王と同意見の兵士たち300人は、命を顧みず、戦地へ赴くが…。
「マトリックス」以来の映像美が話題となった作品だ。
監督はあの「ウォッチメン」のザック・スナイダー。
聞く人聞く人、みな勧めてくるので、借りてみた。
スパルタとペルシアの歴史には明るくないので、史実かどうかまではわからなかったが、歴史的スペクタクルを魅せる映画ではないことだけはわかる。
ある意味、予備知識なしで観られるので、万人受けはするだろう。
男臭い戦争映画が好きなら、きっとはまれるだろう。
問題は予告編でも見られるが、色を抑えた映像世界だ。
これが肯定できなければ、多分、あまりおもしろいとは感じられないだろう。
▼以下はネタバレあり▼
というのは、僕が全く楽しめなかった理由が、映像世界が不自然に感じられたからだ。
若い人は大丈夫なのだろうかと勘ぐってしまうのは、年をくったからなのだろうか。
僕は少なくとも、まずあの独特のトーンで展開される映像によって全く感情移入できなかった。
あの映像世界は僕に「CASSHERN」というトラウマを思い起こさせる。
おそらくそれと同じく、予算の都合上、どうしてもCG処理せざるを得なかったのだろう。
それにしても、あの均一化された世界には同化できない違和感を覚えてしまう。
あの均一化された世界には、色が欠落しているだけではなく、世界観そのものが欠落している。
「300」という映像テクストには、感情と欲望以外の要素が徹底的に、そして決定的に欠落してしまっている。
意図的なのか、どうなのかはわからないが、スパルタという国を暗示しているのかどうなのかそれもわからないが、その欠落ぶりは驚くべきものだ。
たとえば、300人で戦場に赴く、という設定だが、彼らはあまりにも軽装過ぎる。
それは史実に基づいていないといった意味の批判ではない。
彼らは長期戦どころか、本当に「散歩」でも行くかのような身軽な荷物しか持ち合わせていない。
そのため、戦争が2、3日続くことさえ疑わしく、どうやってそのリンゴを手に入れたのか気になって物語に同化できない。
生きるという要素が全く描かれない気持ちの悪い世界を生きているわけだ。
それは戦場以外の描写についてもいえる。
明らかにセットだろうというのは、我慢するとしても、彼らの日常が全然伝わってこない。
評議会なるものの意味合いも、レオニダス王の立ち位置も、軍の発言力も、説明してくれない。
映画の軸がそこにないことはわかるが、スパルタという具体的な歴史性ある固有名詞を用いる限り、そのあたりの背景はある程度説明するべきだった。
説明しないので、守るべき者が、レオニダス王の妻子のみで、三万の敵兵が襲うおうとしているペルシアがひどくちっぽけに見えてしまう。
戦場に重さがないのだ。
とくに、評議会での言い訳みたいなやりとりが、余計にその薄っぺらさを強調する。
セロンが妻を欺き、襲うわけだが、彼にキャラクター性が与えられていないから、欲望のままに突き進むオオカミのように見えてしまう。
また、理性の欠如も異常に見える。
妻子を守ろうとするレオニダス王には感情しかない。
隊長が殺されてしまった息子を嘆き悲しみ、敵軍に突っ込んでいく姿は、この映画の全体を象徴する。
スパルタという国の気質だといわれればその通りなのかも知れないが、敵を殺しまくった挙げ句に、戦場に引き連れた息子が殺されて怒り狂うという野生性に、不自然さを感じざるを得ない。
実はラストで一気に理性が示される。
なぜ300人で攻め入ったか、この物語が誰に向けて語られているのか、ということが明らかにされる。
要するに、レオニダス王は、1万人のスパルタの兵士たちを奮起させるために、名誉の犠牲となったわけだ。
それが示されることで、世界観が一気に広がり、そして負けたというバッド・エンディングをやがてはペルシアを退けるだろうというハッピー・エンディングに転倒させてしまう。
負けが、一気に勝ちへというカタルシスを得るラストになっているわけだ。
その意味で、王が実は理知的な人間だったことを暗に述べていることにもなる。
だが、このラストだけでは払拭しきれない疑問がわいてくる。
一つは、なぜ一年間もの間スパルタとペルシアは大きな衝突なく関係を保っていたのか、ということだ。
兵力がそれだけあれば、一年のブランクは必要なかったはずだ。
僕自身が歴史に明るくないので、そういった疑問がわくのかも知れないが、腑に落ちない。
また、300から一万という数の落差によるカタルシスもあるわけだが、たった300の軍勢を引き連れて、それが国の明暗を分けるかのような戦いをしていたのかと思うと、解せない。
少なくとも、ペルシアも、スパルタが一万程度の軍勢を持っていることは、戦う前から知っていたはずで、それなのに、300の軍勢が一国の全ての戦力であるかのようなやりとりをしていたのは理解しがたい。
王を倒せば、すべて解決できるかのような先の戦いは、一気に価値を失ってしまう。
さらに、レオニダス王は自分が死んでしまった後の世界に対して、何ら方針を示さなかった。
もし、スパルタの評議会があのヘタレによって、降伏という道を選んでいたら、1万人の兵士たちはみな、奴隷になっていたわけだ。
それを妻子や他のスパルタを信じて託したことは理解できるにしても、あまりにもハイリスクな賭に見える。
いずれにしても、ラストによって明かされるレオニダス王の「理性」も結局は説明不足すぎて、理性とは感じがたい。
やはり感情と欲望のみが渦巻く映像世界であることは変わりがない。
背景やキャラクター性があまりに乏しく、人間味もない感情と欲望のみが溢れているため、肝心のアクションにも乗れなかった。
映像としては確かに圧倒的なものを感じるが、そのような驚きだけでは、これだけCGが進化した現在において、映画を引っ張れるだけの力はない。
要はそれをどのように生かすか、どのように魅せるかの問題だ。
その意味でこの映画は僕は全く楽しめなかった。
「CASSHERN」にしても「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」にしても、避けているのは映像の不自然さがどうしても受け入れられないからだ。
「300」もそんな予感がしたが、的中してしまった格好だ。
管理人のmenfithです。
返信が遅れて申し訳ありません。
ご指摘の通り、重箱の隅をつつくような文章と言われても仕方がありません。
このまま理解されないのは悲しいので、ちょっと言い訳させてもらいます。
僕の批評は、アラを探しながら観て、その結果を書いているのではありません。
逆です。
僕は素人なので、アラを探せるほど映画を観ているわけではありません。
観ている途中で、これはおもしろくない映画かも、と予感することはあっても、アラを探しながら観ているわけではありません。
僕にとっては、見終わった瞬間の読後感とも言うべき感覚が、どこからくるのかを探す試みが、批評という作業です。
つまり、僕の中にあるのは、「この映画がおもしろい(おもしろくない)のはなぜか?」という問いです。
上にあるのは、この「300」では、おもしろくなかった、という主観的な感想が第一にあって、その理由を追及していくと、こういう結論に至るのではないか、という文章であるわけです。
だから、僕の批評の出発点は、あくまでも主観的な読後感です。
かりんさんがこの映画を楽しめたのなら、それでいいわけです。
僕の批評は、客観的で、絶対的な文章に見せるためのレトリックを使っているので、アラを探しているように見えるかもしれませんが、映画を観ているときに、そんな余裕はありません。
評価の高い映画の批評を読んでいただければわかるかもしれませんが、僕の文章の前提にあるのは、読後感というパトスです。
なぜだろう、というところから
そういえば300も
映像的に似てたような、と思い、
この批評のコメントにいるわけですが
メンフィスさんは
300はおもしろくなくて
告白はおもしろかったというのが
面白いな、と。
ややこしいですが。
告白のあの
映像の撮り方や
ああいう世界観の
必然性はあるとは思うんですが、
全部が人事というか
エディプスコンプレックスも
母親殺しも
復讐も
当の事件の顛末さえも
とにかくすべての登場人物の感情が
どうでもいいと思えてしまったのは
映像のせいではないか、と
こういうのを感情移入できなかったというんですかね。
松さんの演技も独特で、すこし舞台を思わせるし
殺された母親をはじめすべての登場人物の描き方に
「わざとのように」リアリティがないのは、独特で。
全編通してのリアリティのなさは、
あれはどういう意図なんでしょう?
>nさん
「告白」は確かにあのラストの映像はどうかと思います。
あれをもっとうまく見せることができたら、もっと評価を上げても良かったのですけれども。
僕の評価が高かった理由は「告白」のところで明かしています。
あまりご指摘の点については触れていなかったような気もしますが。
また「300」の監督が映像こてこての映画を撮るようです。
僕はたぶん見にいかないだろうと思います……。