Earthen Vessel

つちのうつわ

隣人愛を思う

2006年05月26日 23時59分09秒 | view
今いろんな本が読みかけなのだけど
その中に「キリスト教を問いなおす」(土井健司著,ちくま新書)という本がある。
ひさしぶりに手にして目で追ってたら、これがとても読みやすくて止まらない。
いかに歴史上のキリスト教を問いなおし
今現在のキリスト教に考察と展望を与えるか。
そして、いかにキリストの教えを未信の人に伝えていくかを考えさせられる。

ここで「キリスト教」といったのは「隣人愛」を含んでいる。
よく聞く言葉であるにもかかわらず、どうも意味が広いこの言葉。
国語辞典で調べてみると
①キリスト教で、神の子たるべき同類の者への愛。
②身近な人々への愛情。
とあった(一番目の定義はいくつかの解釈ができそう)。

まぁ意味や解釈はともかく
隣人愛といえば、大方思い出すのが聖書に登場する「良きサマリヤ人」の話。
イエスが律法家の問いかけに対して語ったたとえ話だ(ルカ10:25~37)。

強盗に襲われて瀕死の人が道ばたに倒れている。
その人に三人のひとびとはそれぞれ出会った。
ユダヤの祭司である彼はその傷ついた人を見るとそそくさと通り過ぎていった。
レビ人である彼も祭司と同じくその人を見捨てていった。
しかし、サマリヤ人である彼はその人を見て、憐れに思い、介抱してあげた。
倒れていた人はおそらくユダヤ人として描かれている。
ユダヤとサマリヤは敵対していがみ合っていたものの
この場面ではサマリヤ人がユダヤ人を助けるという
いわばあり得ないハプニングが起きている。

律法家は「私の隣人とは、だれのことですか」(29節)と問うた。
彼は主なる神を何よりも愛し、隣人を自分自身のように愛することを
知っていたはずである(27節)。
だが何故、彼はなおもイエスに問いかけたのか。
それは自分の正しさを示そうとしたからだ(29節)。
彼にとって神が愛せよと求める隣人は同胞であるユダヤ人だったのだろう。

誰かが傷ついてるのを目の当たりにしても
素知らぬ顔で避けようとする自分がいる。
そしてどんなに愛していると口先で言っても
相手を心の底から顧みられない自分がいる。
神の律法に従えないのは僕の罪だ。

このまま出来ないことへの後悔に留まることもできる。
ただ、そこからは良いものが生まれない。
僕らは他者と自分との関係の中で
心が思わず動かされるような
「例外」のある現実に生きている。
いのちを与える愛はどこから来るものなのか。
改めて考えてみようと思った。

あなたがたといっしょの在留異国人は、あななたがたにとって、
あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。
あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。
あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。
わたしはあなたがたの神、主である。 (レビ19:34)




衝突

2006年05月23日 00時03分53秒 | view
「話し合うことを避けている」

あるスポーツ番組を見ていたらこんな言葉が聞こえた。
サッカーW杯日本代表の中田英寿選手が取材に答えていた。

日本代表はW杯に向けてどう対応してゆくのか・・・
チームに欠けているものは一体なんなのか・・・
インタビューではいろんな問題が飛んでいたけど
中田選手は簡潔に答えていた。
「気持ちの問題」だと。

W杯を二度経験し今やチームの中核ともいえる存在感をもつ中田。
代表を担う次世代メンバーの本領を見出し、共に動き、共に成長する中で
彼の感じた必要性は、話し合うことだった。
言い換えればそれは「ぶつかり合うこと」。

練習や試合を通して次々と浮かんでくる問題点。
これを改善するためにはポイントを意識して受け止めること、討議が必要になる。
しかし、メンバー同士はおろか、監督を交えた話し合いももたれなかった。

このままでは勝てない、取り返しがつかなくなる、と中田は憂いた。
なぜ今の選手は話し合うことを避けるのか、と感じていた彼だったが
一人の選手と互いに意見を熱く交わすことがあった。
それから一人また一人と少しずつコミュニケーションは膨らみ
今や監督を含めたチームでの討議を目指しているところだという。

人と人とがぶつかり合うことはあまり好まれていない。
僕も含めて「和」を大切にする日本人ならではの性質かな。
だけど平和が本当に平和かなんてわからない。
耳障りの良い言葉の中にはどんな思いがあるものか。
怒りをおぼえるような言葉に真実が込められていることは結構ある。
自分本位では答えは見つからないものだ。

衝突したっていい。
ただ相手を大事にすることを心がけよう。

私は自分の子どもに対するように言います。
それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。
(Ⅱコリント6:13)




散髪

2006年05月22日 23時40分12秒 | happen
あ。髪を切りました。

今回は床屋(理容室)に行ってみました。

やっぱ男なら床屋でバリカンっしょ♪

とか思った。

坊主を試みる勇気はまだないorz





















関ジャ○∞の錦戸クンみたいな

黒髪さわやか系に密かに憧れます。




メールに滅入る

2006年05月18日 22時10分20秒 | view
メールをするようになってだいぶ久しいと思う。
早い人はポケベルからの付き合いだろうか。
デジタルな手紙は人と人とのコミュニケーションを容易なものとした。
僕もその恩恵にあずかり遠くに離れている友達と連絡を取り合ったりしている。
本当に便利だし簡単でいい。親指だけで済むんだもん。
昔みたいに何日も馬に乗って届けることはないのだから。

ただ、何かがズレてるのは気のせいかな。
ことばが伝わっているようで
本当に伝えたいことがうまく伝わっていないみたいなんだ。
だって相手が傷ついたり誤解をさせてしまったりしている。

「!」とか絵文字がないからって
別に冷ややかに見ているわけじゃない。

あなたと話す喜びが隠れてるけれど
実は、今すぐあなたに会って話したいくらいうれしいんだ。

メールは、顔が、表情が見えにくい。
きっと何かで改善しても改善しきれない壁があるのだろう。
僕らは見えない罠に捕われてはいけない。
つまり目に入ったことばが敵ではない。
受け止めて、真意を求めないと。

不意に相手を傷つけてしまい、電話越しにゆるしてもらった夜。

良い返事をする人には喜びがあり、
時宜にかなったことばは、いかにも麗しい。 (箴言15:23)




福音

2006年05月14日 23時59分07秒 | view
僕たちはどんな書物も自由に手にし、誰にもはばかることなく読むことが出来る。
あらゆる本が知恵を得させてくれる。
また先人の経験を自分のものとして教えてくれる。
一体、人はこの世でどれだけの真理なる知恵と出会えることだろう。
僕はあまり本を読まない方だし
それに決して世の中のすべての書物を読みふけったわけでもない。
でもこれだけは言える気がする。
たぶん「真実」を示すものは限られてくるんだろうなって。
そして、僕が今まで出会ってきた微少な本の中でも
聖書とはそんな類の一冊であると思ってる。

人は自分のアイデンティティをうまく言葉に出来るかわからない。
だから人に書かれた本もそのカタチがこんがらがっていたり
時を経て考えが変わったりというのが往々にある。

だが聖書はどうか。
聖書はその中で自身の存在意義を鮮やかに定義し
その思想のカタチは、まさに神がかりといえるほどに変わらない。

≪聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する
 信仰による救いを受けさせることができるのです。
 聖書はすべて、神の霊感によるもので、
 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。≫ Ⅱテモテ3:15b~16

聖書は、キリストを信じることによって人は救われると語る。
そして、救いを得させる神の子イエスとは誰かということを説いている。

≪ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
 私たちはこの方の栄光を見た。
 父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
 この方は恵みとまことに満ちておられた。≫ ヨハネ1:14

誰かが「私は神だ、私があなたを救ってあげよう」と言うならば
僕らは冷ややかな目で彼を見るだろう。
彼が偽り者であるとその言動からすぐに察しがつくからだ。
およそ2000年前のイスラエルにおいても
そのように人々の前で宣言した人がいた。
ナザレのイエスはご自身の神性、救い主キリストであることを隠さなかった。
後にも先にも彼のように権威をもって語る人はいなかった。
彼は気がふれていたのか。
いや、そうじゃない。
彼は自分の存在を誰よりもよく知っていた。
だから自分を指してこう言えたんだ。

≪・・・わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
 わたしを通してでなければ、
 だれひとり父のみもとに来ることはできません。≫ ヨハネ14:6

ある本が人を救ったのならば 
聖書はその何倍もの人を永遠のいのちへと導いてきたことだろう。
地が消えようとも神のことばは消えることはない。
悪魔が世の著書を用いて攻撃してきても
決して破れることなき神の著書。
僕らの主なるイエス・キリストは今もなお生きている。
私という生きた文脈に語りかけてくださるのがその確かな証だ。

光あるうちに聖書に親しもう。

どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。
あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
これこそ悩みのときの私の慰め。
まことに、みことばは私を生かします。 (詩篇119:49,50)




家族旅行

2006年05月09日 23時59分34秒 | happen
両親と姉と僕の家族4人で日帰り旅行に行ってきました。
何年かぶりの家族旅行。
これまで失ってきた交わりの時を取り戻すかのような感じでした。
さてどうして平日に外出できたのかって?
まぁ、僕は時間が空けられる人だし
みんな火曜日はお休みの日だからです。
さぁ向かうは館林と足利のフラワーパーク。
小山経由で車を走らせること1時間半。
平日にもかかわらずいずれの園内も人がいっぱいでした。
今が見ごろの花たちに心が癒されます。
その美しさを少し分かち合いましょう。

























ここまで観てくれてありがとう。
花ってイイですよね~。
観ていて飽きないものはなかなかないと思います。
そのままでも輝いている花のように
その時を懸命に生きたいものです。


※おまけ




帰り際「日本縦断中」と旗をかざす自転車を発見。



to You

2006年05月08日 23時44分18秒 | view
しばらく顔と顔を合わせていないあなたへ。

お元気ですか?

きっとやさしいあなたのことですから

誰かを励ましながら

あなたの毎日を暮らしていることでしょう。

ながらく連絡をとっていませんでしたね。

僕は元気です。



伝えるのが遅くなってしまったことがひとつあります。

今、僕は遠いところへ出て来ているんです。

ここではうまく伝えられませんが

いろんなことがありました。

でも、どうぞ心配はしないでください。

励ましてくれる彼はいつもそこにいますから。

あなたのそばに。僕のそばに。

また今度ゆっくり話をしましょうね。

いのちがいつもあなたと共にありますように。



追伸。

あなたがくれたことばは

今も僕の中に燃えています。



・・・いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番すぐれているものは愛です。 (Ⅰコリント13:13)