今いろんな本が読みかけなのだけど
その中に「キリスト教を問いなおす」(土井健司著,ちくま新書)という本がある。
ひさしぶりに手にして目で追ってたら、これがとても読みやすくて止まらない。
いかに歴史上のキリスト教を問いなおし
今現在のキリスト教に考察と展望を与えるか。
そして、いかにキリストの教えを未信の人に伝えていくかを考えさせられる。
ここで「キリスト教」といったのは「隣人愛」を含んでいる。
よく聞く言葉であるにもかかわらず、どうも意味が広いこの言葉。
国語辞典で調べてみると
①キリスト教で、神の子たるべき同類の者への愛。
②身近な人々への愛情。
とあった(一番目の定義はいくつかの解釈ができそう)。
まぁ意味や解釈はともかく
隣人愛といえば、大方思い出すのが聖書に登場する「良きサマリヤ人」の話。
イエスが律法家の問いかけに対して語ったたとえ話だ(ルカ10:25~37)。
強盗に襲われて瀕死の人が道ばたに倒れている。
その人に三人のひとびとはそれぞれ出会った。
ユダヤの祭司である彼はその傷ついた人を見るとそそくさと通り過ぎていった。
レビ人である彼も祭司と同じくその人を見捨てていった。
しかし、サマリヤ人である彼はその人を見て、憐れに思い、介抱してあげた。
倒れていた人はおそらくユダヤ人として描かれている。
ユダヤとサマリヤは敵対していがみ合っていたものの
この場面ではサマリヤ人がユダヤ人を助けるという
いわばあり得ないハプニングが起きている。
律法家は「私の隣人とは、だれのことですか」(29節)と問うた。
彼は主なる神を何よりも愛し、隣人を自分自身のように愛することを
知っていたはずである(27節)。
だが何故、彼はなおもイエスに問いかけたのか。
それは自分の正しさを示そうとしたからだ(29節)。
彼にとって神が愛せよと求める隣人は同胞であるユダヤ人だったのだろう。
誰かが傷ついてるのを目の当たりにしても
素知らぬ顔で避けようとする自分がいる。
そしてどんなに愛していると口先で言っても
相手を心の底から顧みられない自分がいる。
神の律法に従えないのは僕の罪だ。
このまま出来ないことへの後悔に留まることもできる。
ただ、そこからは良いものが生まれない。
僕らは他者と自分との関係の中で
心が思わず動かされるような
「例外」のある現実に生きている。
いのちを与える愛はどこから来るものなのか。
改めて考えてみようと思った。
あなたがたといっしょの在留異国人は、あななたがたにとって、
あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。
あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。
あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。
わたしはあなたがたの神、主である。 (レビ19:34)
その中に「キリスト教を問いなおす」(土井健司著,ちくま新書)という本がある。
ひさしぶりに手にして目で追ってたら、これがとても読みやすくて止まらない。
いかに歴史上のキリスト教を問いなおし
今現在のキリスト教に考察と展望を与えるか。
そして、いかにキリストの教えを未信の人に伝えていくかを考えさせられる。
ここで「キリスト教」といったのは「隣人愛」を含んでいる。
よく聞く言葉であるにもかかわらず、どうも意味が広いこの言葉。
国語辞典で調べてみると
①キリスト教で、神の子たるべき同類の者への愛。
②身近な人々への愛情。
とあった(一番目の定義はいくつかの解釈ができそう)。
まぁ意味や解釈はともかく
隣人愛といえば、大方思い出すのが聖書に登場する「良きサマリヤ人」の話。
イエスが律法家の問いかけに対して語ったたとえ話だ(ルカ10:25~37)。
強盗に襲われて瀕死の人が道ばたに倒れている。
その人に三人のひとびとはそれぞれ出会った。
ユダヤの祭司である彼はその傷ついた人を見るとそそくさと通り過ぎていった。
レビ人である彼も祭司と同じくその人を見捨てていった。
しかし、サマリヤ人である彼はその人を見て、憐れに思い、介抱してあげた。
倒れていた人はおそらくユダヤ人として描かれている。
ユダヤとサマリヤは敵対していがみ合っていたものの
この場面ではサマリヤ人がユダヤ人を助けるという
いわばあり得ないハプニングが起きている。
律法家は「私の隣人とは、だれのことですか」(29節)と問うた。
彼は主なる神を何よりも愛し、隣人を自分自身のように愛することを
知っていたはずである(27節)。
だが何故、彼はなおもイエスに問いかけたのか。
それは自分の正しさを示そうとしたからだ(29節)。
彼にとって神が愛せよと求める隣人は同胞であるユダヤ人だったのだろう。
誰かが傷ついてるのを目の当たりにしても
素知らぬ顔で避けようとする自分がいる。
そしてどんなに愛していると口先で言っても
相手を心の底から顧みられない自分がいる。
神の律法に従えないのは僕の罪だ。
このまま出来ないことへの後悔に留まることもできる。
ただ、そこからは良いものが生まれない。
僕らは他者と自分との関係の中で
心が思わず動かされるような
「例外」のある現実に生きている。
いのちを与える愛はどこから来るものなのか。
改めて考えてみようと思った。
あなたがたといっしょの在留異国人は、あななたがたにとって、
あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。
あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。
あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。
わたしはあなたがたの神、主である。 (レビ19:34)