百万人の福音3月号の巻頭頁にひとりの陶器師を取材した記事が掲載されている。
はじめは目にも留めなかった記事だったけどふと読んでみるといろんな意味で心が熱くなった。
陶器師の椿巌三さんは栃木県益子町で陶芸の修業を積み、後に独立。
隣町の茂木町に「ベウラ陶房」を主宰し
現在は日々自然素材を生かした陶器作りに励んでいる。
益子は焼き物が盛んで休日となると観光客で賑わう小さな町だ。
僕はこの町で生まれ育った。だから記事に故郷の名を見た時は本当に驚いた。
さらに驚くことには椿さんの製陶所の所在地が茂木であるということ。
茂木は僕が三年間通った高校のある馴染み深い町だ。
身近な所に主にある兄弟がいるとは。
世間はやはり狭いみたいだ。
まぁひとりで勝手に親近感抱いて興奮しつつ読み進めていったわけだが
「陶芸の魅力」をほんの少しだけ味わえた気がした。
それが以下の文章。
「粘土は神と人間の関係を分かりやすくするために地上に置かれたのではないかと思われるほどに
陶器の製作工程と神の人間に対する扱いは実によく似ていることに気づかされます。
(中略)
粘土は確かに様々な、時にきつい扱いを受けますが、
それはすべて完成に向けて必要な作業であり、その工程の裏には、
器へと作り上げようとする陶器師(神)の愛、完成への希望という福音があることも大きな特徴です。」
(p.3~4引用/『陶芸と聖書』,椿巌三著,いのちのことば社)
陶器師は自ら造った器に欠けを見出すとそれを砕き
再び新たな器へと造り変えることがあるとどこかで聞いたおぼえがある。
また、成形の際は微妙な手の動きに気をつけて
粘土の塊を美しい器に成り立たせてゆくテクニックも必要とされる。
大胆さと繊細さが交じり合うものの
その意志には陶器への愛が貫かれているように感じられる。
僕たちも土で造られた者だ。
あらゆる季節の中で練られ、砕かれる。
しかしそのままではないんだ。
栄光の似姿へと変えられるという陶器師なる主の約束に希望がある。
いのち与えられていることが感謝でならない。
それは愛の証しだから。
※ちなみに「ベウラ」というのは、聖書に出てくる「神が支配し、礼拝される地」という意味だそうな。
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 (イザヤ64:8)
はじめは目にも留めなかった記事だったけどふと読んでみるといろんな意味で心が熱くなった。
陶器師の椿巌三さんは栃木県益子町で陶芸の修業を積み、後に独立。
隣町の茂木町に「ベウラ陶房」を主宰し
現在は日々自然素材を生かした陶器作りに励んでいる。
益子は焼き物が盛んで休日となると観光客で賑わう小さな町だ。
僕はこの町で生まれ育った。だから記事に故郷の名を見た時は本当に驚いた。
さらに驚くことには椿さんの製陶所の所在地が茂木であるということ。
茂木は僕が三年間通った高校のある馴染み深い町だ。
身近な所に主にある兄弟がいるとは。
世間はやはり狭いみたいだ。
まぁひとりで勝手に親近感抱いて興奮しつつ読み進めていったわけだが
「陶芸の魅力」をほんの少しだけ味わえた気がした。
それが以下の文章。
「粘土は神と人間の関係を分かりやすくするために地上に置かれたのではないかと思われるほどに
陶器の製作工程と神の人間に対する扱いは実によく似ていることに気づかされます。
(中略)
粘土は確かに様々な、時にきつい扱いを受けますが、
それはすべて完成に向けて必要な作業であり、その工程の裏には、
器へと作り上げようとする陶器師(神)の愛、完成への希望という福音があることも大きな特徴です。」
(p.3~4引用/『陶芸と聖書』,椿巌三著,いのちのことば社)
陶器師は自ら造った器に欠けを見出すとそれを砕き
再び新たな器へと造り変えることがあるとどこかで聞いたおぼえがある。
また、成形の際は微妙な手の動きに気をつけて
粘土の塊を美しい器に成り立たせてゆくテクニックも必要とされる。
大胆さと繊細さが交じり合うものの
その意志には陶器への愛が貫かれているように感じられる。
僕たちも土で造られた者だ。
あらゆる季節の中で練られ、砕かれる。
しかしそのままではないんだ。
栄光の似姿へと変えられるという陶器師なる主の約束に希望がある。
いのち与えられていることが感謝でならない。
それは愛の証しだから。
※ちなみに「ベウラ」というのは、聖書に出てくる「神が支配し、礼拝される地」という意味だそうな。
しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 (イザヤ64:8)