Earthen Vessel

つちのうつわ

陶器師、主よ

2006年02月28日 23時59分16秒 | view
百万人の福音3月号の巻頭頁にひとりの陶器師を取材した記事が掲載されている。
はじめは目にも留めなかった記事だったけどふと読んでみるといろんな意味で心が熱くなった。

陶器師の椿巌三さんは栃木県益子町で陶芸の修業を積み、後に独立。
隣町の茂木町に「ベウラ陶房」を主宰し
現在は日々自然素材を生かした陶器作りに励んでいる。

益子は焼き物が盛んで休日となると観光客で賑わう小さな町だ。
僕はこの町で生まれ育った。だから記事に故郷の名を見た時は本当に驚いた。
さらに驚くことには椿さんの製陶所の所在地が茂木であるということ。
茂木は僕が三年間通った高校のある馴染み深い町だ。
身近な所に主にある兄弟がいるとは。
世間はやはり狭いみたいだ。

まぁひとりで勝手に親近感抱いて興奮しつつ読み進めていったわけだが
「陶芸の魅力」をほんの少しだけ味わえた気がした。
それが以下の文章。


「粘土は神と人間の関係を分かりやすくするために地上に置かれたのではないかと思われるほどに
陶器の製作工程と神の人間に対する扱いは実によく似ていることに気づかされます。
(中略)
粘土は確かに様々な、時にきつい扱いを受けますが、
それはすべて完成に向けて必要な作業であり、その工程の裏には、
器へと作り上げようとする陶器師(神)の愛、完成への希望という福音があることも大きな特徴です。」

(p.3~4引用/『陶芸と聖書』,椿巌三著,いのちのことば社)


陶器師は自ら造った器に欠けを見出すとそれを砕き
再び新たな器へと造り変えることがあるとどこかで聞いたおぼえがある。
また、成形の際は微妙な手の動きに気をつけて
粘土の塊を美しい器に成り立たせてゆくテクニックも必要とされる。
大胆さと繊細さが交じり合うものの
その意志には陶器への愛が貫かれているように感じられる。

僕たちも土で造られた者だ。
あらゆる季節の中で練られ、砕かれる。
しかしそのままではないんだ。
栄光の似姿へと変えられるという陶器師なる主の約束に希望がある。
いのち与えられていることが感謝でならない。
それは愛の証しだから。

※ちなみに「ベウラ」というのは、聖書に出てくる「神が支配し、礼拝される地」という意味だそうな。

しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。 (イザヤ64:8)




まじわり

2006年02月25日 22時34分18秒 | happen
C-Voiceメンバーで東京ディズニーシー(TDS)に行ってきました。

8:50 現地急行中(朝早いよ~とボヤク僕ら)
9:30 舞浜駅到着 (ピッカピカやん)
10:00 TDS受付,CVツアーに合流(どうもおくれました)

それにしても
まさか自分がまたこの地を訪れようとは・・・。
だってオトコひとりで来ることなんてまずないし
ましてや野郎たちがこぞって行くなんてのも考えられない。
もう来ることもあるまいなんて思ってたんだけどなぁ。

でもまぁともかく・・・

TDS、たのしかったなぁ☆

そう。ここに来るのは高校の遠足以来二回目。
今回はある程度時間に余裕があったからいろいろ楽しめました。
個人的には 『センター・オブ・ジ・アース』 に興奮。
ジェットコースター系が好きなんです。
ただ、同じ乗り物系の『アクアトピア』は“どんぶらこー、どんぶらこー”
目がぐるぐる回って微妙にげんなりしてました、僕。
ミュージカルの『マーメイドラグーンシアター』は何気に感動。
アリエルもセバスチャンもすごい。拍手。
その他にもさまざまなアトラクションを堪能し
だいぶ歩き回ったなぁと思い始めたその頃、僕らはあるイベントに足を急がせました。

16:30 『ディズニー・リズム・オブ・ワールド』開演

いろんなリズムに乗せたダンスがすごかったです。
打楽器の巧みなビートがカッコよかったぁ。

そしていつの間にか日は傾き寒風が肌をさす時間。
きょう一日を共に過ごしたみんなと記念写真を撮って解散しました。
まじわりのひと時が与えられたことに感謝感謝です。

※学生の懐を援助してくれた社会人のみなさんに祝福がありますように。



ひとりもわるくない

2006年02月18日 23時51分48秒 | view
「最近おもいっきり笑ったり泣いたりしたっけなぁ」と思う。
そうだ。思えば人との交わりが少なくなった。
交わりを自分から絶ったのか或いは絶たれたのか実際は分からないけど
今の自分にとっては孤独に身を置くのが適当なのかもしれない。
考えたり整理することのできる時間が与えられていることに
まずは感謝したいと思う。

ひとりの時間が増えて思ったのは関係のバランス具合だ。
【ヨコ】の関係と【タテ】の関係がうまく釣り合っているのかどうか。
ひとつ気づいたのは
僕には人と人との【ヨコ】の関係を先に求めるきらいがあるということ。
たしかに、その信頼のつながりの中で
人は練られ、成長してゆく。
ひたむきに本来あるべき姿を目指すためにこの関係は大切だ。
しかし一歩間違うと
人に依存するという関係にもなりかねない。
だから人には絶対者なる神との【タテ】の関係が必要不可欠なんだ。

人は神と出会い自分を知る。
世界を知る。
探し求めていたいのちがそこには泉のように湧いている。
これまで人に求めても足らなかったものがすべて満たされるようになる。
それが神様のことば。そして神様との会話だ。
毎日聖書を読んで、祈りをささげることは僕たちのいのちとなる。
人間関係やその他の問題に悩む時こそ
「答え」にきいて「答え」を受け容れる者であろう。

孤独の恵みは深い。
人との交わりが豊かなものになるためにも
その恵みを知ってゆきたい。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
「私は大いに悩んだ。」と言ったときも、私は信じた。 (詩篇116:9~10)




静養

2006年02月17日 23時59分38秒 | happen
月曜日から五日間実家に帰省していた。
大事な先約があったにもかかわらずそれをキャンセルしてまでの帰省。
それにはワケがあった。

「両親と向き合って話す」

これが理由。
そんなんいつでも話せるやんと言えばそうなんだけども
僕にとって「今」その対話が必要だと感じムリを言って帰省させていただいた。

今思えば両親と話せる時間はたくさんあった。
話そうと願えば話し合える機会は十分にあったはずだった。
でも僕はずっとそこから逃げて来た。
父への恐れ。母への恐れ。
僕は両親と向き合うのをひたすらに避けて来た。

でもはたと気づいた。

僕は両親を恐れ避けていたんじゃない。

自分自身の現実を知ることから逃げていたんだ・・・。

たとえるなら、現実というのは巨大なアスレチック場のよう。
自分にとって得意なステージと苦手なステージがある。
チャレンジしてみたい未知な所もいっぱいあるだろう。
うまくいかず大胆にこけてしまうこともあるかもしれない。
すり傷も切り傷も当然できるさ。
でもそれがイイ経験になって後に活かされるはずだって僕の拙い経験が言っている。

今回両親と長々と話し込んだわけではなかった。
しかしお互い納得して話ができたように思う。
避けていたものとひとつずつ向き合えたことが本当に感謝だ。
今後の対話に期待して祈っていきたい。

※とりなし祈ってくれた人々に感謝して。

「さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。 (ホセア6:1)




嘘はつけない

2006年02月09日 23時53分22秒 | view
人間とは便利な生き物だ。
見えてるのに見えないふりをしたり、見えていないのに見えてるふりができる。
その瞳に映るものは本当?それとも嘘?
誰も答えを知らない。
それは自分自身の内側にあるものだから。
見えるものをそのまま見るのも、歪めてしまうのもこのココロ。
僕の罪は姑息なまでに真実を闇に隠そうとする。

でもさ・・・わかってたんだ。
本当のことを隠しても隠してもキリがないんだよね。
無かったことにしたくてもそれは決して無かったことにはならない。
現実としての弱さを見よう。
まずは砕かれることだ。
願えば動き出す。

目をまっすぐ前に注げ。
あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ。 (箴言4:25)