国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

再び大盤振る舞い(写真42枚)

2016-01-07 | 結婚@Bolivia〜来日

この日は早朝から観光です。ホテル前の大通りを大型車が何台も通りすぎていきました。タイヤを多数積んでいることからダカールラリーの後方支援部隊と思われます。



公園の周りにも停まっていました。これからレース車の後を追うんでしょうね。





市内の移動にはバスを使いましたが、フロントガラスのヒビはナミビアで慣れっこになっているので気にしません。一方これは・・・・・

もっと写真を撮っておけば良かったのですが、日本のお下がりをタリハでもコチャバンバでも見ました。(24年前に旅した時もそうでした。)ただし右ハンドルの車は走行禁止なのですべて左ハンドルに改造されています。メーターの類だけ右に残っている車も目にしました。






朝食の後、中央市場へ。父がこの直後に迷子になりかけて焦りました。(声を限りに呼んで事なきを得ました。)



チョリータさん達はいるだけで絵になりますね。(なお地域ごとに特色があり、ラパスでは山高帽なのに対してコチャバンバでは明るい色の麦わら帽子になり、タリハでは下画像のように花飾りを付けるとのこと。)






続いてサン・ロレンソという近郊の町へ。ここでは公園が博物館になっており昔のチチャ(どぶろく)製造用のかめや蒸留器などの模型が展示されていました。


その先の屋台で懐かしい食べ物が目に入ったので所望。パラグアイではエンパナーダ(empanada)ですが、ボリビアではサルテーニャ(salteña)。ただし、これはボリビアで普通に食べられているサルテーニャ(salteña boliviana)ではなく、内部に汁気のない "salteña tucumana" (トゥクマン風サルテーニャ)とのこと。ちなみに「サルテーニャ」という名前自体は(アルゼンチンの北部に位置する)「サルタの」という意味なのですが、どうやらサルタがこの食べ物の発祥の地のようです。(ついでながら、アルゼンチンでは "empanada tucumana" とか "empanada salteña" といった呼び方をするようです。ややこしい。)初めて食べた父も結構気に入っていましたし、私もパラグアイ在住時代によく食べていたエンパナーダの味に近かったため懐かしさを感じながら美味しくいただきました。

何にしても "salteña tucumana" が売られていることで、当地がアルゼンチンに近いということを意識させられました。(今更ですがタリハ県とサルタ州は接しています。)そういえば、移動の車中で耳にした音楽もアンデス風のものよりはポルカなど3拍子系の曲の方が多かったような。(ここでもポルカが代表的舞曲の一つであったパラグアイを連想したのでした。)

いったんタリハに戻って次はCasa Viejaへ。最初聞いて「古い家って何だろう?」と思ったのですが、要はワイナリーです。


途中で給油しましたが、これはレースクイーンか何かのつもりでしょうか?





建物もブドウ畑も雰囲気は満点。国内外から観光客が大勢来ており、お目当ての試飲は順番待ちでした。





ここで昼食を摂ってから再びタリハに戻り、しばらく土産物を物色した後、中央広場に面したレストランへ。前日空港でお会いした岡野さんと14時に約束していたのですが、時間ピッタリに来られました。先月までメキシコで仕事をされており一時帰国中(2月から再びメキシコ)とのことでした。お時間を取っていただいたことに感謝しています。

テレビ出演のことを少し訊きましたが、やはり事前に依頼があり、突撃取材ということはさすがにないようです。ただし、タレントさんが本当に自力で来られたのかどうかまではわからないとのこと。(ちなみに私がこの番組の出演者とお会いするのは2度目なのですが、ナミビアの藤本さんの場合は局側がストーリーを勝手にこしらえていました。千原せいじは国内便の飛行機に乗れば首都から3時間ほどで済むところを、わざわざ道の悪い陸路を使うことで日本からの所要時間に上乗せをしていましたし、途中に寄った赤い肌の先住民(ヒンバ族)の村というのも藤本さんの任地とは全く関係がありませんでした。それでタイトルが「赤い肌の先住民の村に住むたった一人の日本人」ですから捏造もいいところ。岡野さんが出演された回のタイトル「南米ボリビア アンデス山脈 峻険な山々に囲まれた町にいる日本人 どんな土地に住んでいるのか?」にしても「何だかなぁ」と言いたい気分。タリハは都会だし、周囲の山もアンデス山系ではありませんからね。悪質なヤラセではないから目くじらを立てるのは野暮なのかもしれませんが・・・・脱線ついでながら、一昨日の日記に登場していただいた野原さんのところにも同種のテレビ番組と思われる出演依頼が何度もあったそうですが、煩わしいので全て断っているとのことでした。)

このままボリビアで暮らすのか、いつか日本へ帰るのかも今はわからないとのことでしたが、そういうものだと私も思います。ただ日本へ行く(帰る)にも家族4人分の飛行機代を貯めるのは容易ではないようです。金額を聞いて少し驚きましたが、今回私が利用したような安い航空券が使えないからです。これは他人事ではありません。私がLindaとボリビアへ来る(帰る)場合にも西回り、あるいはカナダかメキシコ経由にするしかありません。「本当に酷いことをする国だ!」と思い出す度に腹が立ってきます。

元パラグアイのシニア隊員女性(名前はEikoさんだったような)も来られていましたが、「今この人と電話が繋がっていますけど」と見せられた携帯電話の画面には懐かしい名前が! パラグアイ時代に調整員としてお世話になった(ついでながら隣の家に住んでいた先輩の同期だった)Iさんでした。現在も調整員としてラパス勤務ながら間もなく任期を終えて帰国されるのだとか。昔話や私の結婚話をした後、決まり文句の「またいつかどこかで会いましょう」でお別れしました。(具体性なしですがそういうものでしょう。縁のあるなしを私たちは決めることはできませんから。)




預けておいた荷物を取りにホテルに戻ってみたらテレビでダカールラリーを放送(生中継)していました。タリハを発ってウユニへ向かっているとのこと。後で聞いた話ですが、ボリビアではどの町でも大歓迎を受けて感謝している(あるいは感激した)といったコメントが出場者やサポートスタッフの多くから出されていたそうです。(他の国では違っていたのでしょうか?)



夕方の便でコチャバンバに帰還しました。下は100万ボリビアーノの夜景です。
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