ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

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2016-01-16 10:12:11 | Weblog
 土井一郎です。
10年にわたり書き続けてまいりましたこのブログですが、今回をもちまして終了とさせていただきます。
理由は私自身の病気療養のためであります。

先日、信頼できる医療機関による精密検査の結果、膵臓がんであるとの告知を受けました。
今後は医師の指示に従い治療に専念したいと考えております。

このブログはジャズプレーヤーの立場から、音楽に向き合う姿勢や考え方を提示したものです。
ジャズを演奏し聴き感じそして楽しむためにはどうしたらよいか?
実際には難しく思われることがそんなでもなく、簡単だと思って通り過ぎてしまうようなことが重要であったりします。
書き進めていく過程で資料を確認したり、アルバムを聴きなおしたりして私自身非常に勉強になりました。

音楽は世の中の出来事と密接に関わっています。
しかしその中で世間とは隔絶された時間と空間、いわば「浮世離れ」したところも音楽の魅力です。
なので極力その時々に起こった事には触れずに書いてまいりました。
そして1)他人の悪口は書かない。2)自分自身の宣伝はしない。 この二点を守って続けてきました。

まだまだ発信したいこともございますが、このへんが潮時かなあ・・・とも感じています。
長い間ありがとうございました。

               2016年1月   土井一郎

How About You? Ⅳ

2015-12-13 03:51:48 | Weblog
多声部音楽はポリフォニックに近づくほど複雑で理解するのがやっかいになる。いわゆるホモフォニックな音楽は単純だけどわかりやすくて力強い。和声だけに絞って考えてみると、半音的なものは複雑で全音的なものはわかりやすい。これは音楽だけではなくて他の芸術、もっと言えば人間のまわりにあるものすべてに存在する対比だ。もちろんイエスかノーか?というような二者択一の問題ではないが、どちらよりか?という傾向はある。音楽、ジャズに関して考えてみよう。ある二種類のリハーモナイズを思いついたとする。そのふたつのコードがレベルの高い内容ではあるが複雑で伝わりづらいものと、わかりやすくて力強いけどちょっと単純なものであったら・・・。どちらを選ぶかはセンス、全くの自由だ。でもその選択には無意識にジャズという音楽の価値観が大きく影響していることを認識しておいたほうがいい。つまりジャズの本分ともいうべき「Hip&Crazy」だ。ジャズが生まれて100年、モダンジャズという名前ができてからでもすでに80年近くが経過した今、こんな標語みたいな言葉を引っ張り出すのもどうかと思うが、文化にはやはりなんらかの裏付けがあり、またそれが必要なのだ。人間の価値観は生きている時代の空気に大きく左右される。ジャズの価値観も数十年前とは変わってきた。でも変わらない、変えてはいけないものもある。HipでありCrazyであり続けないとジャズはジャズでなくなってしまうのだ。

How About You? Ⅲ

2015-12-01 03:08:49 | Weblog
この曲は4度進行を基本とした機能和声で整然と管理されている。シートミュージックのコードのままでもジャズとしての演奏ができなくもないが、やはりリハーモナイズしたほうがいい。この曲特有のある程度の定番のリハーモナイズはあるが、どの程度やるかはミュージシャン個人の判断だ。もちろん機能和声にとらわれず12音的な和声があっても差し支えはない。でもリハーモナイズで頭に入れておかなければいけないのは「調性」だ。調性の問題を根本的に考えると、ひとつの調性は聴覚のよりどころとなる主調の和声とそれと関連づけられる和声とのバランスによって理解の度合いが変わってくる。だからリハーモナイズには全体を通して聴覚に「調」を感じさせるための設計図が必要なのだ。もちろんリハーモナイズにはいろんな目的がある。不安定な調性をわざと意図する和声があってもいい。でもこうやればこうなる、という裏付けがないと、そのリハーモナイズは筋の通らない主張をするレベルの低い音楽なってしまい、それではリハーモナイズの意味がなくなってしまう。トニックとなる和声を変化させるのはリハーモナイズの定番ではあるが、主調となる和声が正しい位置に存在し、そしてある程度反復してあらわれ、近親和声がまわりからサポートする形がないとそもそも楽曲が成立しなくなるという調性音楽の原則を忘れてはだめだ。インプロヴィゼーションをやっているときのジャズミュージシャンは特別な聴感覚の世界にいる。ある意味一番正しく音楽の良しあしを判断できる状態にあるのだ。リハーモナイズや楽曲のアレンジはアドリブをやってから決める、これがジャズミュージシャンの特権ではないだろうか?

How About You? Ⅱ

2015-11-24 02:38:56 | Weblog
音楽の構造は垂直方向と水平方向で表される。つまりそれが「楽譜」だ。それぞれの方向には目盛がある。実際の音楽は楽譜で表される目盛の精度ではもの足りないので、もっと細かい目盛を使ってニュアンスを加えたりもする。和声法と対位法、ポリフォニックとホモフォニック、これらの対比もイコールではないが、音楽が二つの目盛で表現されるということと無縁ではない。このふたつの方向には曲それぞれ場面によってどちらかに優位性がある。で、その割合は千差万別だ。でもその割合によって音楽そのものの良しあしが決まるものでもない。問題は楽曲から受けるその時その時のどちらかの優位性の感覚をインプロヴィゼーションをやる上でどう消化するか?ということだ。あるコードの響きがインスピレーションを与えてくれる時もあるし、メロディーの特徴的な音程やリズムパターンが良いインプロヴィゼーションにつながることもある。コード進行だけを与えられても、メロディーだけを知っていてもアドリブは出来ない。これは当然のことのように思っているが、インプロヴィゼーションというのは、楽曲の垂直方向と水平方向の情報をちゃんと知って、それらからインスピレーションを受けて初めて成立するものなのだ。で、その受ける情報のインパクトはある時は垂直方向が強かったり、ある時は水平方向が強かったりする。ジャズを学ぼうとするとどうしてもインプロヴィゼーションの方法論を自分なりに掴みたいという気持ちになる。それはそれでいいのだが、楽曲のどこから何を感じるか?というのが実は「アドリブの結果」に直結する大問題なのだ。

How About You?

2015-11-17 04:20:55 | Weblog
1941年、Burton Laneの作品、歌詞はRaiph Freed。いろんなヴォーカリストが歌っているが、元来はコメディの中の歌詞なので、歌詞を変えて歌っている人が多いようだ。シナトラはFranklin Rooseveltが出てくるところで、James Duranteといういわゆるエンターティナーの名前を出している。なんともコメントできないが、これがシナトラのチョイスだ。まあこういう風に歌詞を自分のセンスやその時代に合わせて変えるのは、ほかの曲でもあるが、「How About You?」という歌詞はもちろんそのままだ。このタイトルの意味はともかくワンコーラスに5回出てくるこの言葉にいろんなメロディーがくっついている。最初は5度上行、それを半音上にずらしてまた5度上行、前半の終わりに長3度下行。後半も5度上行があって最後は短7度下がって短2度上がる。まあこれはラシドと音階的に上がって解決するのをひっくり返しただけだけど・・・。おおまかに3種類のメロディーラインがこのタイトルの歌詞に用意されているわけだ。で、どれも全く違和感はない。というのは、言葉によってはかなりメロディーラインを制限されるものがあって、特にそれがタイトルであったりすると、慎重にメロディーを組み立てないとその部分が不自然に聞こえると音楽そのものの価値も下げてしまうことがあるからなのだ。歌詞と音楽どちらが先でも同時でも問題はないが、結果的に歌詞と音楽の不一致はその楽曲をダメにしてしまう。カンタータとソナータ、お互い相容れない部分を持つ芸術を融合させるのは作曲家の永遠のテーマだ。作曲家には想像以上に「歌う」という能力が要求される。これは実はジャズミュージシャンにも言えることなのだ。

Time Remembered
Prestige
Prestige

When I Fall In Love Ⅳ

2015-11-10 01:06:06 | Weblog
複数の声(声部)が同時に進行するいわゆる多声部音楽がいつ頃から始まったのか?明確な時期はもちろん特定はできない。でも12音の完全な平均律が整備されるまでがすごく長くて、12音が理論上も確定してからの音楽の変化、発展のスピードがすさまじいことは確かだ。いっぱいある声(声部)のうち一番高い音が旋律、メロディーだ。もちろん旋律も多声部の中のひとつではあるが、音楽を印象づけるもっとも重要な声部であることも確かだ。これがホモフォニックな考え方であるともいえる。「旋律は流れる水で和声はその流れの中にあるゴツゴツした岩である。」ヒンデミットのこの考えに立てばメロディーに対する綿密な工夫は避けては通れない。メロディーには一定の「区切り」が絶対必要でそれをモティーフと呼ぶ。で、それを印象づけるには人間の感性に対するもっとも簡単な手段として「繰り返し」がある。この「When I Fall In Love」も明らかに最初のモティーフを繰り返している。繰り返しにはリズムパターンと音程という要素がからんでくるから完全な繰り返しではない場合も多いが、それが繰り返し(リフレイン)であるかどうか注意深く見抜かなければならない。そして楽曲全体を見た場合、こういうモティーフ(動機)となるフレーズの種類が何種類あるか?というのが重要なのだ。これは人間の記憶力が関係してくる。あまりに種類が多いと覚えきれない、でも少なすぎると音楽が単調になる。この程度問題が難しいのだ。インプロヴィゼーションにも同じことが言える。一曲のアドリブの中にいっぱいのアイデアを詰め込んでも無駄だ。音楽としての説得力はかえって弱くなる。人間の感性に適したアイデアの量と時間、これに気をつけないとインプロヴィゼーションはやってるほうも聴いてるほうもただ疲れるだけになってしまう。

When I Fall In Love Ⅲ 

2015-11-03 01:43:01 | Weblog
この曲はジャズスタンダードとして認知されている曲であるからもちろん付随する全体のサウンドやコード進行もジャズとしての価値観に裏打ちされたものが同時に認められている。それは4度進行を基本としたコード進行とそれのリハーモナイズ、そしてそのコードに加えられたテンションだ。一方メロディーだけに注目するとこれは確固たる調性を持った7音音楽だ。つまり、もとになるメロディーと調性を司るカデンツアはいわば古典的な音楽構造でそれに「何か」を加えているだけなのだ。実は調性音楽の基本となるカデンツアの起源は意外と古く、12世紀だと言われている。まだピアノなんて影も形もない。音楽を組み立てる上でこのカデンツアが重要性を増してきたのは18世紀前半ラモー以来だ。時間の経過と音楽の変化のスピードがピンと来ないがこれは産業技術の発達による楽器の変化、12音平均律の完成が大きく影響している。とにかく18世紀後半以降音楽は加速度をつけて変化しだしたのだ。現在では調性そのものを否定する音楽もそしてインプロヴィゼーションを主体とするジャズもすべて音楽として認知されている。音楽というのは何が変化しないで何が変化するのか?見極めるのが本当に難しい。過去の優れた作曲家はその時代の感覚を自分の「言葉」としての音楽で表現してきた。過去のその音楽を求める聴衆に提供する立場のプレイヤーであれば研究して練習そして表現、それにつきるが、インプロヴィゼーションは違う。自分がその時代の感覚の表現者なのだ。これがジャズの価値のすべてだ。博物館に入ってはだめだ。

スティーミン
マイルス・デイヴィス,レッド・ガーランド,ポール・チェンバース,フィリー・ジョー・ジョーンズ,ジョン・コルトレーン
ビクターエンタテインメント

When I Fall In Love Ⅱ

2015-10-28 00:24:22 | Weblog
インプロヴィゼーションを展開していくうえでコードネームは、便利なアイテムではあるが、インプロヴィゼーションのためのものはどうしても2拍や4拍ごとの即興演奏を想定したものになりやすく、元の歌には合わない場合も多い。演奏するほうがちゃんと分けて考えて切り替えれば問題ないが、いろんな理由で引っかかることもある。この「When I Fall in Love」の2小節目、メロディーはトニックの音のまま終わる。歌詞は「Love」だ。コードはドミナント、ベースは5度の音。当然サスペンションさせなければ歌とバッティングしてしまう。アレンジャーなら当然そのための処置をする。ヴォーカルアルバムのストリングスを使ったアレンジだと歌もバックの音もズーッと伸びるから内声のトニックの音を半音下げることはあまりできない。このケースだとその前からベースラインも変えて1度と5度だけにしないとおかしくなる。でもジャズのコンボ演奏になるとⅠ-Ⅵ-Ⅱ-Ⅴと最初から2回やってしまうケースもある。まあ歌があるときはピアニストが注意して4度の音をキープしていれば問題ないし、ドミナント7thにコードがなってしまったときでも歌手が音を伸ばさなければ気にはならない。でもそんなこと関係なく声を伸ばすひともいるから要注意ではある。この場所は音楽的な「細部」にこだわってヴォイシングしている人と気にしてない人と過去の例を聞くと半々だ。ケースバイケースということにしよう。サスペンション、アンティシペーションは多声部音楽の技術の中でももっとも微妙で味のある技術だ。これにあまりに無頓着なのはよくない。わかりやすく区切られたアドリブ用のコードネームからでもそういう部分を読み解きインプロヴィゼーションにも生かすことは可能だ。楽曲の理解度にかかっている。

<STAR BOX>ドリス・デイ
Sony Music Direct
Sony Music Direct

When I Fall In Love

2015-10-17 02:37:27 | Weblog
Victor YoungとEdward Heymanの作品。映画「One Minute To Zero」の中で初めてに使用され、最初にヒットしたのは1952年にDoris Dayが歌ったヴァージョンだ。その後数え切れないぐらいの歌手がこの曲を録音し何度もヒットさせている。そしてジャズミュージシャンの間でもジャズバラードとして定着しているthe Standardだ。形式はA-B-A-C、32小節。まず気が付くのはメロディーにシャープ、フラットが全くない。もちろん和声は工夫をこらしてコードづけをするから、スケール以外の音も出てくるし、一時的にトナリティーが変化したりもするがメロディーに魅力がないと、ヴォーカリストは許してくれない。歌曲としての魅力を身をもって判定するのはやはり歌手なのだ。シャープフラットがないともちろん簡単に歌えるがそれは「退屈」と紙一重という問題をはらんでいる。微妙なところなのだ。そしてジャズミュージシャンがインプロヴィゼーションの素材として認識しているということは、ジャズの演奏にも耐えうるスタンダード曲としての体力も持っているということだ。歌や演奏に適しているかどうかの判定の基準は説明が難しい。具体的にここがどうのということもできるが、それは一部分でしかない。ほとんどは歌手や演奏家の音楽家としての直感だ。そしてそれが徐々に世界中に広まっていく。優れた音楽家は曲選びの優れた直感を持っていると言って間違いないと思う。

ポートレイト・イン・ジャズ
ユニバーサルクラシック
ユニバーサルクラシック

My Romance Ⅳ

2015-10-07 01:44:53 | Weblog
音楽上の「音」というのは縦と横に関係性をもって存在している。同時に2つ以上の音が存在する和声も同じだ。そのルールが和声学だ。音のもとになっている音波は自然現象なので、その自然現象によって発生する上音列にその秩序を支配されてしまう。上音列は上の方へいくと音程が詰まってきてどんな音も発生してくる。これではルールが成り立たない。なので、音楽を組み立てるときには6番目までを基本的には使うという考え方が定着している。でもそれでは音の種類が足りなくて豊かな和声が得られない。そのときの考え方として上音列の上へ上へ行くのではなくて使うことが許されてしる上音の上音を使うのだ。3度の5度上、5度の5度上という具合だ。倍音(上音)の聞こえる量は楽器によって違う。もっと細かく言うと奏者によって違う。どちらが音楽として良いか?という問題ではない。だから和音の「豊かさ」や「濁り度」を決めつけることは現実的にはできないのだ。その意味では音楽のルールは緩い。でもこの「緩さ」が音楽の多様性を生んでいるのだから、「緩さ」の原因や症状を細かく理解してそれを利用しないとレベルの高い音楽には到達しない。優れた音楽には必ずそういう微妙な駆け引きの部分がある。和声の世界は近代音楽が作り出した奥の深い世界なのだ。