【注意事項】
1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書
細川家文書中世編」を参照しています。
2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
07織田信長黒印状 天正二年八月三日
<本文>
折帋(お手紙)拝見した。河内の三ケ城へ
去る晦日敵が軍働きをかけてきて一戦に及び、
(敵の)首を少々討ち取り追い散らしたとの
ことであるがこれはもっともなことであった。
なおもって油断ないよう心掛けられるように
願う。
一方こちらの方面のことについてだが、端
の一揆勢が立て籠もる場所を攻め崩したとこ
ろ、追い討ちに数多くの首を討ち取ったのだ
が、(伊勢)長嶋一か所に(彼らが)集結し
たため矢詰めの陣(の設営を)申し付けた。
近日落居するであろう。なかでも津田(信澄
=信長の舎弟信行の子)のことについては粗々
承った。(今度)上洛した時に相談させてい
ただきたい。委細は(この書状を携えた)塙
(直政)が申し上げるだろう。恐々謹言。
天正二年八月三日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正二年=1574年
**純野のつぶやき**
天正元年(1573年)の前回の書状(十一
月十六日)から今回の書状(天正二年八月三
日)までの信長・藤孝の周辺状況(トピック
ス)を振り返ってみましょう。この期間、信長
公はとても忙しいです。
*天正元年12月 信長の軍は多門城の松永久
通を攻陥。
*天正二年正月 岐阜城での酒宴が開催され
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、朝
倉義景・浅井久政・浅井長政の頸に薄濃を
施したものを肴にした。
*天正二年正月 松永久秀が岐阜へ参上し、
昨年末子息久通が赦免されたお礼を述べ
「不動国行」を進上。以前にも「薬研藤四
郎」を献上したことがあった。
*天正二年正月 越前守護代前波長俊が越前
の諸侍に追い込まれ自害する。信長は、羽
柴秀吉・武藤舜秀・丹羽長秀・不破光治・
不破直光・丸茂長照・丸茂兼利・若狭衆を
敦賀まで差し向けた。
*天正二年正月~二月 岩村へ進軍し明智城
を攻囲した武田勝頼に対し、信長・信忠父
子で出陣したのち岐阜へ帰陣した。
*天正二年三月 信長、正四位下弾正忠から
従三位参議へ昇進する。
*天正二年三月 信長、東大寺の名香「蘭麝
待」の切り取りを朝廷に具申し、許しを得
たうえで先例・作法にのっとり切り取る。
*天正二年四月 大坂(石山本願寺)方が再
度敵対の意思を表したため、信長軍は作物
を薙ぎ捨て近辺に放火。
*天正二年五月 賀茂の祭に請われて馬20匹
を供出し、競馬(くらべうま)をおこなう。
*天正二年六月 信長は上杉謙信に「洛中洛
外図」(狩野永徳筆)を与える。
*天正二年六月 武田勝頼が高天神城を攻囲
した旨注進が入り、信長父子は一度は岐阜
を出陣したが、途中で落城したことが分か
ったため吉田城で徳川家康を慰労して岐阜
へ帰陣した。
そして天正二年七月十三日、信長父子は河内
長嶋成敗の為岐阜を出立しましたので、この
手紙は長嶋方面の本陣から藤孝宛てに出した
ものと推定されます。
なお、文中にある「津田(信澄)の件」という
のは、おそらく明智光秀の女(むすめ)に信澄
を婿入りさせることだと考えられます。信長
から見れば長岡藤孝と明智光秀は上洛戦前
からのチームですから、明智に関する相談も
長岡藤孝経由にしたものと思われます。また
信長の方から「承った」と書いているところ
から見て、長岡・明智側からアプローチのあっ
た話かもしれません。
以上
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2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳
し間違いがあるかもしれません。
3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が
通じない可能性のある部分に純野が追記した
文言です。
4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合
はなるべく原文のままとしました。
07織田信長黒印状 天正二年八月三日
<本文>
折帋(お手紙)拝見した。河内の三ケ城へ
去る晦日敵が軍働きをかけてきて一戦に及び、
(敵の)首を少々討ち取り追い散らしたとの
ことであるがこれはもっともなことであった。
なおもって油断ないよう心掛けられるように
願う。
一方こちらの方面のことについてだが、端
の一揆勢が立て籠もる場所を攻め崩したとこ
ろ、追い討ちに数多くの首を討ち取ったのだ
が、(伊勢)長嶋一か所に(彼らが)集結し
たため矢詰めの陣(の設営を)申し付けた。
近日落居するであろう。なかでも津田(信澄
=信長の舎弟信行の子)のことについては粗々
承った。(今度)上洛した時に相談させてい
ただきたい。委細は(この書状を携えた)塙
(直政)が申し上げるだろう。恐々謹言。
天正二年八月三日 信長(黒印)
長岡兵部太輔(藤孝)殿
※天正二年=1574年
**純野のつぶやき**
天正元年(1573年)の前回の書状(十一
月十六日)から今回の書状(天正二年八月三
日)までの信長・藤孝の周辺状況(トピック
ス)を振り返ってみましょう。この期間、信長
公はとても忙しいです。
*天正元年12月 信長の軍は多門城の松永久
通を攻陥。
*天正二年正月 岐阜城での酒宴が開催され
他国衆が退出し馬廻りだけになった時、朝
倉義景・浅井久政・浅井長政の頸に薄濃を
施したものを肴にした。
*天正二年正月 松永久秀が岐阜へ参上し、
昨年末子息久通が赦免されたお礼を述べ
「不動国行」を進上。以前にも「薬研藤四
郎」を献上したことがあった。
*天正二年正月 越前守護代前波長俊が越前
の諸侍に追い込まれ自害する。信長は、羽
柴秀吉・武藤舜秀・丹羽長秀・不破光治・
不破直光・丸茂長照・丸茂兼利・若狭衆を
敦賀まで差し向けた。
*天正二年正月~二月 岩村へ進軍し明智城
を攻囲した武田勝頼に対し、信長・信忠父
子で出陣したのち岐阜へ帰陣した。
*天正二年三月 信長、正四位下弾正忠から
従三位参議へ昇進する。
*天正二年三月 信長、東大寺の名香「蘭麝
待」の切り取りを朝廷に具申し、許しを得
たうえで先例・作法にのっとり切り取る。
*天正二年四月 大坂(石山本願寺)方が再
度敵対の意思を表したため、信長軍は作物
を薙ぎ捨て近辺に放火。
*天正二年五月 賀茂の祭に請われて馬20匹
を供出し、競馬(くらべうま)をおこなう。
*天正二年六月 信長は上杉謙信に「洛中洛
外図」(狩野永徳筆)を与える。
*天正二年六月 武田勝頼が高天神城を攻囲
した旨注進が入り、信長父子は一度は岐阜
を出陣したが、途中で落城したことが分か
ったため吉田城で徳川家康を慰労して岐阜
へ帰陣した。
そして天正二年七月十三日、信長父子は河内
長嶋成敗の為岐阜を出立しましたので、この
手紙は長嶋方面の本陣から藤孝宛てに出した
ものと推定されます。
なお、文中にある「津田(信澄)の件」という
のは、おそらく明智光秀の女(むすめ)に信澄
を婿入りさせることだと考えられます。信長
から見れば長岡藤孝と明智光秀は上洛戦前
からのチームですから、明智に関する相談も
長岡藤孝経由にしたものと思われます。また
信長の方から「承った」と書いているところ
から見て、長岡・明智側からアプローチのあっ
た話かもしれません。
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