『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

近藤(こんどう)

2017-03-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近藤(こんどう)

〔現代仮名遣い〕こんどう


伊勢深谷部城主。

1573年10月柴田勝家・滝川一益に攻められ、

    降参退城。


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小森与三左衛門(こもりよさうざゑもん)

2017-03-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小森与三左衛門(こもりよさうざゑもん)

〔現代仮名遣い〕こもりよそうざえもん


不詳。別所重宗の家臣。

1580年1月秀吉の与力別所重宗が小森与三

    左衛門を使いとして「三人腹を切り

    諸卒の命を助けるべし」と伝えると、

    そのとおりの返答を書状(浅野長吉・

    別所重宗あて)で秀吉に送る。


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小真木源太(こまきげんた)

2017-03-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小真木源太(こまきげんた)

〔現代仮名遣い〕こまきげんた


名は不明。

1556年4月の斎藤道三対新九郎義竜の戦い

    の時義竜方として戦い、道三を生け

    捕りにしようとした長井忠左衛門の

    横から、道三の脛を切り討ち取った。


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小林端周軒(こばやしはしうけん)

2017-03-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小林端周軒(こばやしはしうけん)

〔現代仮名遣い〕こばやしはしゅうけん


不詳。

1570年6月姉川の合戦で、朝倉・浅井方と

    して戦い、討ち死に。


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小林(こばやし)

2017-03-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小林(こばやし)

〔現代仮名遣い〕こばやし


不詳。

1573年8月大づく山に篭もっていたが、

    信長方の進軍を見て降参退城。


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小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]

2017-03-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小早川隆景(こばやかはたかかげ)[2/2]

〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年5月羽柴秀吉が宿面塚城を攻略し、

    並びのゑつたの城を攻めると、

    敵は降参退城し高松城に立てこもる。

    秀吉が高松城に詰め寄り水攻めに

    すると、毛利輝元・吉川元春・小早川

    隆景が出陣してきて、高松で退陣する。

1582年6月本能寺の変のとき、清水宗治自刃

を条件に秀吉と講和を結ぶと、以後秀吉の勢力

下に入る。

1582年本拠を沼田の新高山城から三原城に移す。

1585年秀吉の四国征伐の戦功により、伊予一国

を与えられた。

1587年秀吉は九州征伐後、隆景に筑前・筑後

両国と肥前一郡半を与えた。

1592年朝鮮の役に参戦。

1593年碧蹄館の戦いで明の大軍を撃破した。

帰国後はいわゆる豊臣五大老の一人として

中央政治に参画した。また秀吉の外甥の秀秋

を養子に迎え、小早川氏を継がせた。

1597年死去。


 ※毛利元就の三男として秀吉五大老まで

  上り詰めましたが、養子に取った秀秋

  は関ケ原の戦いのあと(名を秀詮と改め

  た後)21歳で急死。秀詮の死後、小早川

  家は無嗣断絶となりましたが、これが

  徳川政権初の無嗣改易だったという・・

  諸行無常でございます。


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小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]

2017-03-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小早川隆景(こばやかはたかかげ)[1/2]

〔現代仮名遣い〕こばやかわたかかげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


毛利元就の三男。

1544年安芸の豪族竹原小早川氏の養子となる。

1550年に小早川氏の総領家である沼田小早川

家を相続し、ここに小早川氏は統一された。

隆景は兄の吉川元春とともに「毛利両川」と

称され、父の元就、兄の隆元、甥の輝元を助け

て中国及び四国・九州の一部を平定した。

1555年の厳島の戦いで毛利元就は陶晴賢を

破ったが、このとき隆景の率いる小早川水軍

が活躍している。毛利氏は1557年大内義長を

討滅し防長両国を掌握した。その間およびその

後において吉川元春が山陰地域を担当したのに

対し、隆景は水軍の力も活用して主として

山陽地域の軍事と統治を担当し毛利氏の発展に

尽力した。また安国寺恵瓊とともに毛利氏の

対外担当者として活躍し、織田信長・羽柴秀吉

などとの折衝にも当たっている。


1578年4月信長方についた上月城山中幸盛を

    攻囲。

1581年8月「毛利輝元・吉川元春・小早川隆景

    が鳥取城の後巻きに出陣する」との風説

    が流れる。


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近衛信尹(このゑのぶただ)

2017-03-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近衛信尹(このゑのぶただ)

〔現代仮名遣い〕このえのぶただ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


信基とも。前久の子。

1577年7月信長の手配で元服式を行なう。

    正五位下に叙せられる。

1578年従三位。


1579年11月誠仁親王の二条御新造への

    移徙(わたまし)で近衛前久の

    次に輿で参る。

1580年従二位内大臣。

1585年従一位・左大臣。

1592年辞職。

朝鮮の役が起きると豊臣秀吉に渡海を強いて

希望したため後陽成天皇の怒りに触れ薩摩国

に流された。

1596年許されて帰京し左大臣に還任。

1605年関白・氏の長者となったが、

1606年辞職した。

晩年の父前久とは所領問題で不和となる。

1614年死去。

歌道・茶道に達し書にもすぐれ、寛永の

三筆-本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗-

の一人。


 ※信尹君も、信長公に一生懸命尽くして

  藤原家再興に人生を賭けた父前久の

  気持ちも知らないで仲違いし、自分は

  天孫降臨以来天皇家の支えとして

  代を重ねてきた歴史をわきまえず

  朝鮮戦役に参戦しようとして主上の

  勘気を蒙る。父上殿が泣いていますよ!


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陶磁器の世界:ハウステンボス内の『ポルセレインミュージアム』で有田焼の逸品を堪能しました!

2017-03-21 00:00:00 | 陶磁器の世界
3月13日(月)は家内・娘と一緒

にハウステンボス内を散策して

おります。ハーバータウンの中に

“海鮮と陶器の城”がありまして、

その中に『ポルセレインミュージアム』

があります。「写真撮影はご自由に

どうぞ!」とありがたいお言葉。



鏡の間やら、



陶製人形のコーナーやら、




大花瓶のコーナーやら、



中花瓶と皿のコーナーやら、

いろいろと楽しめました。今度

ハウステンボスに来ることが

あったらまたこちらにお邪魔したい

と思います。


**純野のつぶやき**

ミュージアムのパンフレットを

以下アップしますのでご参照ください。






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近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]

2017-03-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
近衛前久(このゑさきひさ)[3/3]

〔現代仮名遣い〕このえさきひさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1581年1月安土での馬場入りに馬に乗り参加。

1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として

    参加。

1582年2月太政大臣となる。

1582年5月信長は上国した徳川家康一行の

    苦労をねぎらうため、安土城惣見寺

    で舞と能を興行する。近衛前久・

    信長・徳川家康・穴山信君・楠正虎・

    長雲・宮内卿法印・二位法印らが見学。

    幸若義重が舞をつとめよいできで

    あったが、丹波猿楽の梅若家久の能は

    出来が悪く信長から折檻を受ける。

    信長の要望により幸若義重は再度舞を

    舞い、信長から黄金十枚を下され、

    梅若家久も世間体を気にした信長から

    金子十枚を下される。

1582年5月に太政大臣を辞職。

1582年6月本能寺に織田信長を亡ぼした光秀

    の軍勢は、織田信忠の籠もる二条新御所

    を襲撃。猛烈な反撃にあった明智の軍

    は近くの近衛前久の家の屋根から弓・

    鉄炮を打ち込み、御殿に火を懸ける。

    信忠は神妙に軍働きをつとめた後切腹。

    介錯は鎌田新介がつとめ、指示通り亡骸

    を隠しておいた。

本能寺の変後出家して「竜山」と号し嵯峨に

隠棲したが、羽柴秀吉から疎まれ浜松の徳川

家康のもとに身を寄せた。晩年は子の信尹と

所領問題で不和となり、東山慈照寺東求堂に

隠棲した。1612年死去。父稙家から古今伝授

を受け歌道に通じ、青蓮院流の書家であり、

有職故実・暦学に造詣が深く、馬術・放鷹にも

精通した。地方流寓の間に地方文化の興隆に

尽くした功績は大きい。


 ※信長公の近衛前久への厚遇度合から見て、

  信長は天皇家を天孫降臨の時から補佐して

  来た藤原家を尊重しているように見えます。

  その前久が豊臣秀吉に疎まれ子供の時から

  信長の大ファンである徳川家康の庇護を

  受けたという事実は、本能寺の変の本当の

  仕掛け人を探る大きなカギになるかもしれ

  ません。


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