『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐久間盛重(さくまもりしげ)

2017-05-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間盛重(さくまもりしげ)

〔現代仮名遣い〕さくまもりしげ

大学。

1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の

    家臣。

1556年8月の名塚の戦いでは、信長側の将と

    して名塚の取手に入る。

1560年初春義元の東尾張進出に対抗して、

    丸根山の取手に入る。

その後信長公記に出てこないところを見ると

この戦いで討ち死にしたものか?


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佐久間盛明(さくまもりあき)

2017-05-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間盛明(さくまもりあき)

〔現代仮名遣い〕さくまもりあき


与六郎。尾張五器所城主。近江安土の城番を

つとめる。

1577年8月松永久秀・久通父子が叛心し信貴山

    城に篭もった時、佐久間盛明のところ

    に預けられていた人質の男子二名を矢部

    家定・福富秀勝が京へ連行した。二人は

    「内裏に逃げ込み命を助けよ」との村井

    貞勝の進言を断り盛明だけに遺言を書き

    潔く殺害された。

1582年5月信長上洛のとき、安土二の丸の留守番

    をつとめる。


 ※信長公から安土城の城番を任されると

  いう重要人物にもかかわらず、これまで

  の歴史小説家の先生からほぼ無視されて

  いる、かわいそうな人物です。少し掘り

  下げて研究したいと思っています。


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信長から細川藤孝への手紙:06 織田信長黒印状 天正元年十一月十六日

2017-05-23 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


06織田信長黒印状 天正元年十一月十六日

<本文>

淀(川の)鯉五(匹)が(我々の二条妙覚寺

の陣に)到着した。取(り)乱(れている)

時節にもかかわらず、(これらの)懇情は喜悦

(至極)である。お会いした時に改めて(感謝

の意を)伝えたいと思う。

 天正元年十一月十六日 信長(黒印)

 長岡兵部大輔(藤孝)殿

 ※天正元年=1573年


**純野のつぶやき**

元亀四年(1573年)の前回の書状(七月十日)

から今回の書状(天正元年十一月十六日)

までの信長・藤孝の周辺状況(トピックス)を

振り返ってみましょう。


*七月末~八月頭ごろ、岩成友通が淀城に

篭もっていましたが木下藤吉郎の調略により

番頭大炊頭・諏訪飛騨守が内応を約束します。

長岡藤孝が淀城を攻めようとし、岩成が出城

してきたところで両名が謀叛を起こし、岩成

を下津権内が討ち取りました。岩成の首は

五~六千人乗りの大船で高島に移動していた

信長の本陣へ届けられました。

*八月~九月、信長の軍は越前朝倉氏を攻め

滅ぼし、江北浅井氏をも攻め滅ぼしました。

*十月、北伊勢に軍勢を出し、一定の成果を

上げたのち岐阜へ帰陣。

となっていまして、この十一月十六日付けの

書状は、信長が若江城の三好義継攻めを見守

るため十一月四日に上洛し二条妙覚寺に陣取

っていたことから考えて、その本陣でのやり

取りと思われます。しかし、こんな簡単な届け

物にこのように丁寧な書状を送りますかね・・

相変わらず、いくさで忙しい時でも贈り物を

忘れない長岡藤孝、それに対する返書を忘れ

ない信長公、どちらもマメですね!



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佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]

2017-05-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[6/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。

    一行は織田信忠にお礼を述べたが、

    信長は会わなかった。信長は門跡・

    北の方・下間頼竜・下間頼兼・下間

    仲之に黄金を与える注文を下し、使い

    の衆にも黄金を与える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田

    重保およびその下使い荒屋善左衛門、

    信長方の使いは宮内卿法印・佐久間

    信盛、大坂受け取りの検使を矢部家貞

    がつとめた。

1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、

    大坂で十九条にわたる折檻状を書き上げ、

    楠木正虎・宮内卿法印・中野重吉を使い

    として送り、国外退去を命ずる。始め

    高野山まで下るも許されず、熊野の奥に

    逐電する。

1581年7月病死。


 ※1573年8月江北攻めの時には信長に

  対する舌禍事件、1578年4月の上月城

  攻めの時には信長の作戦への口返駁

  (言い返し)事件を起こすなど、どうやら

  佐久間信盛殿は口さえ開かなければ

  もっと著名な戦国人として人々の記憶

  に残れたような気がします。1580年

  8月の“十九条の折檻状”についても

  「本願寺派の大坂退城は自分の活動

  の賜物」とかなにか、相当信長を怒ら

  せることを言ってしまったと推測します。

  現代でも結構いそうなタイプの人ですね。


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佐久間信盛(さくまのぶもり)[5/6]

2017-05-21 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり


1580年3月北条氏政が本能寺の信長へ、

    鷹13足・馬5疋進上。取次ぎは滝川

    一益。お礼の品々を氏政の使い笠原

    康明、氏照の使い間宮綱信・原和泉守

    が進上。取次ぎは佐久間信盛。

1580年3月北条氏政の使いが上洛し本能寺で

    土産を進上したとき、使いは二位法印・

    滝川左近・佐久間信盛がつとめ、関東

    衆は「関東八州を信長の分国に」と申上

    する。本願寺顕如光佐・北の方・家老

    衆が下問した所、下間頼総・平井越後・

    矢木駿河・井上・藤井藤左衛門らが

    評定を行い、勅定を受けることを決める。

    顕如光佐は、7月20日までに大坂を退出

    する旨告げ、下間仲之・下間頼兼・下間

    頼竜・北の方・門跡の連名で誓紙を提出。

    信長方青山虎が検使をつとめる。


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佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]

2017-05-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり


1578年5月信忠の播州出馬に参戦。

1578年6月神吉城攻撃の為東の山に布陣。

1578年7月荒木村重が西丸を攻めると神吉

    藤大夫は降参。荒木・佐久間は侘び

    事を信忠に取次ぎ神吉を志方に追い

    出す。

1578年9月信長は九鬼の大船を見に行く途中

    で、天王寺の佐久間の所で休憩。

1578年11月信長の荒木成敗に出陣したとき、

    高槻の高山重友を伴天連(オルガン

    ティーノ)に説得させる時に同行。

1578年12月秀吉は佐久間信盛・惟任光秀・

    筒井順慶を率い、三田城に対抗して

    道場河原・三本松に足がかりとなる

    要害を築く。羽柴の軍勢をこの二箇

    所にいれた後、佐久間信盛・惟任光秀・

    筒井順慶は三木城に向けた取手に兵粮・

    鉄炮・玉薬を入れ普請を命じ帰陣する。

1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺

    晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺

    へ送り、信長方との講和を命ずる。信長

    方からは宮内卿法印・佐久間信盛が

    目付けとして添えられた。


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佐久間信盛(さくまのぶもり)[3/6]

2017-05-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[3/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり


1574年4月雨夜にまぎれ佐々木六角義賢が

    石部城から退散すると、石部城に

    佐久間とその軍勢が入る。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、

    西の香取口を攻撃。坂手に防御線を

    はる。

1575年4月信長父子の南方攻略戦に参戦。

    三好康長の籠る高屋城周辺に放火、

    麦苗薙ぎ。

1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。

1575年11月信長は家督を信忠に譲ると、

    信盛のところに御座する。

1576年5月大坂方に攻囲された天王寺を救う

    為、先手一段目をつとめる。戦後

    天王寺の城番をつとめる。

1577年2月信長雑賀攻めに参戦し、雑賀に

    向けて山方を進軍。

1577年3月雑賀戦後佐野の要害造営を任される。

1577年10月織田信忠の信貴山松永攻めに参戦。

1578年4月山中幸盛の籠る上月城を毛利軍が

    攻囲すると、信長は「全軍で攻めかかり

    追い返せ」と言い出すが、佐久間信盛・

    滝川一益・蜂屋頼隆・惟任光秀・惟住

    長秀らは全員同じく「現地情勢を調べて

    くるので早急な行動は遠慮されたし」

    とたしなめた。


 ※1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉

  を攻める先手を命じられたのに、信長に遅れ

  をとってしまった面々が厳しく叱責された時、

  信盛は「そうは言っても我々のようないい

  家臣はなかなかもてるものではない」と弁解

  した為、信長の激怒を買ってしまいましたが、

  ほとぼりの冷めた5年後信長公に対して上記

  のような“言い返し”をしてしまいます。

  大丈夫でしょうか・・


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佐久間信盛(さくまのぶもり)[2/6]

2017-05-18 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[2/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり


1572年12月武田信玄が駿河に侵入すると、

    佐久間信盛・平手汎秀・水野信元

    は家康の援軍として駿河へ向かう。

1573年4月信長・義昭の和議の後、鯰江の

    佐々木六角義治攻撃の為付城を造営

    し百済寺を焼く。

1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。

1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を

    攻める先手を命じられたのに、信長

    に遅れをとってしまい、厳しく叱責

    される。他のものは素直に「面目ない」

    と謝ったのに対し、信盛は「そうは

    言っても我々のようないい家臣はなか

    なかもてるものではない」と弁解した

    為、信長の激怒を買う。

1573年9月北伊勢に出陣し西別所の一揆を切り

    崩す。その後白山の中嶋将監を降参さす。

1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式

    の奉行をつとめる。


 ※いくら買われているからと言って、信盛

  も信長公の前で自信過剰なことを言って

  はいけませんね。


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佐久間信盛(さくまのぶもり)[1/6]

2017-05-17 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[1/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり

※信長公の重臣で記事量多いので

 6回に分けて投稿します。


右衛門尉。

1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の家臣。

    のち信長の重臣。

1560年初春義元の東尾張進出に対抗して、

    善照寺の要害に入る。

1568年9~10月義昭入洛の為の戦いの時箕作山

    攻略。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。

1570年4月信長北陸朝倉攻めの後、永原城を守備。

1570年6月佐々木六角父子の起こした一揆を、

    落窪で切り崩す。

1570年6月の浅井攻めに参戦。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、

    穴太の在所を守備。

1571年5月長島攻めに参戦。

1571年9月志村攻めに参戦。

1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通が畠山

    昭高に反発し、昭高の臣安見新七郎の

    守る交野城に向けて取手を築いたとき、

    信長軍として取手を攻撃。

1572年7月浅井攻めに参戦し、まずひばり山・

    虎御前山を攻め落とす。


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佐久間信栄(さくまのぶひで)

2017-05-16 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信栄(さくまのぶひで)

〔現代仮名遣い〕さくまのぶひで

※下線部は信長公記以外の記事によります。


甚九郎・正勝。1556年生れ。信盛の子。

1574年7月信長父子の河内長島成敗に参戦し、

    父信盛と共に坂手で防御線をはる。

1576年4月大坂攻めに参戦し、天王寺の取手

    に入る。戦後天王寺の城番をつとめる。

1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、

    大坂で十九条にわたる折檻状を書き

    上げ、楠木正虎・宮内卿法印・中野

    重吉を使いとして送り、国外退去を

    命ずる。始め高野山まで下るも許さ

    れず、熊野の奥に逐電する。

1581年7月佐久間信栄の父信盛が死亡。

1582年1月信長から本領安堵と赦免を受け、

    岐阜城に出仕の上織田信忠にお礼を

    述べる。


この後正勝と名乗る。のち織田信雄に仕える。

1584年の小牧の戦いで秀吉方の滝川一益と

戦った。信雄の没落後は秀吉に仕え、御咄衆

となる。のち徳川氏に仕えた。茶人としても

有名。号「不干斎」


 ※信長の舎弟勘十郎信行の家臣から信長公

  の家臣として活動し、清須城のころから

  長い間「忠臣」の扱いを受けていたのに、

  朝倉攻めの時の父信盛の舌禍事件が尾を

  ひいたのでしょうか、熊野の奥に逐電

  したあと父を亡くし、あまりぱっとしな

  くなったその後の佐久間信栄でした。


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