『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

柴田勝家(しばたかついへ)[5/5]

2017-07-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[5/5]

〔現代仮名遣い〕しばたかついえ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年6月の本能寺の変後、越前から戻ろう

としたが、山崎の戦い・明智光秀生害のとき

まで間に合わなかった。

1582年6月の清洲会議では、信忠の遺児

三法師(秀信)を推す羽柴秀吉に対し、信長

三男信孝を推したが、秀吉に主導権を奪われ

北近江三郡を入手したにとどまる。この後

信長の妹お市を娶る。秀吉は羽柴秀勝を喪主

として信長百ヶ日法要を開催。対して勝家・

お市は妙心寺で百ヶ日法要を開催。

1583年4月勝家は信孝・滝川一益らと結び、

秀吉打倒のために北近江へ侵攻したが、岐阜

城の信孝攻めから急遽引き返した秀吉と賤ヶ

岳で戦い敗れる。北庄城で自害。お市もあと

を追い自害したが、三人の女(茶々・初・江)

は秀吉の元にかくまわれた。



 ※美濃国を勢力下に入れるところまでは

  織田信長・丹羽長秀・柴田勝家の三巨頭

  体制がうまくいっていたように見えまし

  たが、本能寺変後の清洲会議の様子から

  見て、

  ・織田信忠の嫡子三法師(秀信)

   ⇔羽柴秀吉・丹羽長秀

  ・織田信長の次男信雄⇔??

  ・織田信長の三男信孝⇔柴田勝家

  となっています。あまりにも秀吉・長秀

  の準備がよすぎる気がします。


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柴田勝家(しばたかついへ)[4/5]

2017-07-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[4/5]

〔現代仮名遣い〕しばたかついえ


1580年11月一向一揆の首領若林長門以下

    十九名を調略により討ち取り、頸を

    安土に送る。これで5年間にわたる

    加賀一向一揆平定をほぼ完成させる。

1581年2月越前の柴田勝家・柴田勝豊・柴田

    三左衛門尉が京都の信長のもとへ参上

    し、珍奇のものを進上しお礼を申上。

1581年2月京都の馬揃えで、越前衆として参加。

1581年3月安土の信長に、「上杉景勝が越中へ

    進軍し小井出の城を攻囲した」と告げ

    られると、信長の命により不破光治・

    前田利家・原政茂・金森長近及び柴田

    勝家の軍勢が現地へ向かう。

1581年7月柴田勝家は安土の信長へ、黄鷹六連

    と切石数百を進上する。

1582年3月「信長父子の軍勢は武田勝頼の防戦

    により悉く討ち取られた」との偽情報

    により、小嶋六郎左衛門・加老戸式部

    両人が富山城を居取りにし神保長住を

    取り籠める。柴田勝家・佐々成政・前田

    利家・不破直光らがすぐ城を攻囲し、

    このことを信長に伝えると、信長は駿河・

    甲州・信州を平定したことを伝え書状に

    より越前の彼らを激励する。

 ※信長父子は信濃征伐に、柴田勝家は越中

  鎮圧に動いています。いったん軍勢を

  おさめた瞬間に事件が発生します。


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柴田勝家(しばたかついへ)[3/5]

2017-07-18 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[3/5]

〔現代仮名遣い〕しばたかついえ


1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。

    ついで鳥羽の城を攻撃。

1575年9月戦後越前八郡の経営を任される。

    「越前国掟条々」を信長から下さ

    れる。また不破光治・佐々成政・

    前田利家を目付けにつけられる。

1577年8月北国攻めの大将をつとめる。この

    時羽柴秀吉参戦するも、勝家に反抗

    して途中で帰陣。

1577年10月賀州から引き上げ、御幸塚・

    大聖寺を普請し軍勢を入れる。

1579年8月賀州に出働。

1580年3月賀州に出働。宮の腰→野々市で一揆

    を追い払う→安養寺→木越で光徳寺代

    坊主を打ち破る→末盛の土肥親真を打ち

    破る。ここで飯山の長連竜と合流し方々

    に放火。

1580年4月信長は北国の柴田勝家の長陣を心

    もとなく思い、木下祐久・魚住隼人の

    二人を様子を見に行かせる。二人が戻

    り能登・加賀が平定された様子を伝え

    ると、信長は喜び服・帷子をくだす。

    勝家のほうからも信長の使いという

    ことで馬が下された。

 ※さすが信長公、これまでの越前を含めた

  応仁の乱から加賀一向一揆の歴史(一揆

  で武家が打ち倒されてきた)を頭に入れ、

  織田家筆頭の武闘派である柴田勝家に

  目付まで付けて、「越前国掟条々」を下す

  ほど心配しています。しかし、秀吉も

  いくら増長したとはいえ、織田家三巨頭

  の一人柴田勝家に楯突いてはいけませ

  んね。

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信長から細川藤孝への手紙:07織田信長黒印状 天正二年八月三日

2017-07-17 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。


07織田信長黒印状 天正二年八月三日

<本文>

 折帋(お手紙)拝見した。河内の三ケ城へ

去る晦日敵が軍働きをかけてきて一戦に及び、

(敵の)首を少々討ち取り追い散らしたとの

ことであるがこれはもっともなことであった。

なおもって油断ないよう心掛けられるように

願う。

 一方こちらの方面のことについてだが、端

の一揆勢が立て籠もる場所を攻め崩したとこ

ろ、追い討ちに数多くの首を討ち取ったのだ

が、(伊勢)長嶋一か所に(彼らが)集結し

たため矢詰めの陣(の設営を)申し付けた。

近日落居するであろう。なかでも津田(信澄

=信長の舎弟信行の子)のことについては粗々

承った。(今度)上洛した時に相談させてい

ただきたい。委細は(この書状を携えた)塙

(直政)が申し上げるだろう。恐々謹言。

 天正二年八月三日 信長(黒印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

 ※天正二年=1574年


**純野のつぶやき**

天正元年(1573年)の前回の書状(十一

月十六日)から今回の書状(天正二年八月三

日)までの信長・藤孝の周辺状況(トピック

ス)を振り返ってみましょう。この期間、信長

公はとても忙しいです。

*天正元年12月 信長の軍は多門城の松永久

 通を攻陥。

*天正二年正月 岐阜城での酒宴が開催され

 他国衆が退出し馬廻りだけになった時、朝

 倉義景・浅井久政・浅井長政の頸に薄濃を

 施したものを肴にした。

*天正二年正月 松永久秀が岐阜へ参上し、

 昨年末子息久通が赦免されたお礼を述べ

 「不動国行」を進上。以前にも「薬研藤四

 郎」を献上したことがあった。

*天正二年正月 越前守護代前波長俊が越前

 の諸侍に追い込まれ自害する。信長は、羽

 柴秀吉・武藤舜秀・丹羽長秀・不破光治・

 不破直光・丸茂長照・丸茂兼利・若狭衆を

 敦賀まで差し向けた。

*天正二年正月~二月 岩村へ進軍し明智城

 を攻囲した武田勝頼に対し、信長・信忠父

 子で出陣したのち岐阜へ帰陣した。

*天正二年三月 信長、正四位下弾正忠から

 従三位参議へ昇進する。

*天正二年三月 信長、東大寺の名香「蘭麝

 待」の切り取りを朝廷に具申し、許しを得

 たうえで先例・作法にのっとり切り取る。

*天正二年四月 大坂(石山本願寺)方が再

 度敵対の意思を表したため、信長軍は作物

 を薙ぎ捨て近辺に放火。

*天正二年五月 賀茂の祭に請われて馬20匹

 を供出し、競馬(くらべうま)をおこなう。

*天正二年六月 信長は上杉謙信に「洛中洛

 外図」(狩野永徳筆)を与える。

*天正二年六月 武田勝頼が高天神城を攻囲

 した旨注進が入り、信長父子は一度は岐阜

 を出陣したが、途中で落城したことが分か

 ったため吉田城で徳川家康を慰労して岐阜

 へ帰陣した。

そして天正二年七月十三日、信長父子は河内

長嶋成敗の為岐阜を出立しましたので、この

手紙は長嶋方面の本陣から藤孝宛てに出した

ものと推定されます。

 なお、文中にある「津田(信澄)の件」という

のは、おそらく明智光秀の女(むすめ)に信澄

を婿入りさせることだと考えられます。信長

から見れば長岡藤孝と明智光秀は上洛戦前

からのチームですから、明智に関する相談も

長岡藤孝経由にしたものと思われます。また

信長の方から「承った」と書いているところ

から見て、長岡・明智側からアプローチのあっ

た話かもしれません。

以上


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柴田勝家(しばたかついへ)[2/5]

2017-07-16 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[2/5]

[現代仮名遣い]しばたかついえ


1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通が

    畠山昭高に反発し、昭高の臣安見

    新七郎の守る交野城に向けて取手を

    築いたとき、信長軍として取手を攻撃。

1572年7月浅井攻めに参戦し、まずひばり山・

    虎御前山を攻め落とす。その後小谷に

    向けた先手として布陣。

1573年2月石山・今堅田の義昭方を攻撃する為

    出陣。

1573年4月信長・義昭の和議の後、鯰江の佐々木

    六角義治攻撃の為付城を造営し百済寺を

    焼く。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。

1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻め

    る先手を命じられたのに、信長遅れを

    とってしまい、厳しく叱責される。

1573年10月北伊勢攻めに参戦し、伊勢坂井の城

    を攻陥。

1573年10月次に伊勢深谷部の城を攻陥。

1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式の奉行

    をつとめる。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、西

    の香取口を攻撃。ついで大鳥居攻撃をつと

    める。

1575年4月信長父子の南方攻略戦に参戦。三好康長

    の籠る高屋城周辺に放火、麦苗薙ぎ。


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柴田勝家(しばたかついへ)[1/5]

2017-07-15 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[1/5]

〔現代仮名遣い〕しばたかついえ

※戦国期の主要人物で記事多いため

 5回に分けての投稿です。


権六・修理亮。

1552年3月信秀葬儀の時は、勘十郎信行の

    家臣。

1553年8月松葉・深田の戦いでは、信長・

    信光連合軍の将として活躍。

1556年8月信長の御台所入(篠木三郷)の

    押領では、勘十郎信行につき信長

    に敵対。8月名塚取手の軍の後、

    那古野・末盛にこもるも謝罪。

    信長も赦免する。

1557年には勘十郎から離反しほぼ信長方

    となる。

1557年秋頃勝家は再度にわたる信行の叛心

    を信長に通報、信長は仮病を使い

    信行を清洲に呼び寄せて1557年11月

    殺害する。

1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。信長

    公記ではこのころから「修理亮」。

1570年4月信長北陸朝倉攻めの後、長光寺を

    守備。

1570年6月佐々木六角父子の起こした一揆を、

    落窪で切り崩す。

1570年6月の浅井攻めに参戦。

1570年8~9月野田・福島の戦いから信長が

    撤退するとき殿を務める。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、

    田中を守備。

1571年5月長島攻めに参戦、殿一番手を務め

    軽い手傷を負い引き退く。

1571年9月志村攻めに参戦。


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柴田角内(しばたかくない)

2017-07-14 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田角内(しばたかくない)

〔現代仮名遣い〕しばたかくない


名は不明。清洲衆。

1554年7月武衛公弑逆事件の時、反乱軍側

    につき森刑部丞兄弟の頸をとる。

1556年4月の斎藤道三対新九郎義竜の戦い

    の時は道三の手勢として戦い、義竜

    方の長屋甚右衛門を討ち取る。いつ

    のまに清洲から美濃に移動した?


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柴崎孫三(しばさきまござう)

2017-07-13 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴崎孫三(しばさきまござう)

〔現代仮名遣い〕しばさきまごぞう


名は不明。

1554年7月柴田権六勝家清洲攻めのときの

    信長方あしがる。


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篠原右京亮長房(しのはらうきゃうのすけながふさ)

2017-07-12 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
篠原右京亮長房(しのはらうきゃうのすけながふさ)

〔現代仮名遣い〕しのはらうきょうのすけながふさ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


阿波の衆。三好義賢の臣。阿波国篠原郷の

出身。

1562年三好義賢とともに畠山高政・根来寺

衆徒らと和泉国久米田寺に戦って敗れ、義賢

討ち死にの後逃走した。

1566年三好三人衆に呼応して足利義栄・細川

真之(持隆の遺児)・三好長治(義賢の遺児)

を擁して摂津国越水城を攻略し、1568年2月

義栄を将軍に擁立。


1568年9~10月信長の義昭入洛の為の戦いの時、

    越水・滝山城を明け渡す。

その後細川真之・三好長治を擁して阿波へ逃れる。

1570年6月姉川の合戦の最中、野田・福島に篭城

    し信長に反抗。

まもなく和議を結び1571年には備前に渡って

毛利氏と戦う。

1573年5月真之・長治によって阿波国河島で

攻め亡ぼされる。



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篠川兵庫(しのかはひゃうご)

2017-07-11 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
篠川兵庫(しのかはひゃうご)

〔現代仮名遣い〕しのかわひょうご


不詳。

1582年6月二条新御所で織田信忠切腹の後、

    攻めかかってきた明智光秀の軍と

    戦い討ち死に。


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