『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]

2017-05-20 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
佐久間信盛(さくまのぶもり)[4/6]

〔現代仮名遣い〕さくまのぶもり


1578年5月信忠の播州出馬に参戦。

1578年6月神吉城攻撃の為東の山に布陣。

1578年7月荒木村重が西丸を攻めると神吉

    藤大夫は降参。荒木・佐久間は侘び

    事を信忠に取次ぎ神吉を志方に追い

    出す。

1578年9月信長は九鬼の大船を見に行く途中

    で、天王寺の佐久間の所で休憩。

1578年11月信長の荒木成敗に出陣したとき、

    高槻の高山重友を伴天連(オルガン

    ティーノ)に説得させる時に同行。

1578年12月秀吉は佐久間信盛・惟任光秀・

    筒井順慶を率い、三田城に対抗して

    道場河原・三本松に足がかりとなる

    要害を築く。羽柴の軍勢をこの二箇

    所にいれた後、佐久間信盛・惟任光秀・

    筒井順慶は三木城に向けた取手に兵粮・

    鉄炮・玉薬を入れ普請を命じ帰陣する。

1580年3月頃正親町天皇は近衛前久・勧修寺

    晴豊・庭田重保を勅使として石山本願寺

    へ送り、信長方との講和を命ずる。信長

    方からは宮内卿法印・佐久間信盛が

    目付けとして添えられた。


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