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劇場映画やDVDの感傷的シネマ・レビュー

リーピング◆斬新さに欠ける聖書的謎解き

2007-05-31 12:22:01 | <ラ行>
  

「リーピング」 (2006年・アメリカ)
 監督:スティーブン・ホプキンス
 出演:ヒラリー・スワンク/デビッド・モリッシー/イドリス・エルバ

暇つぶしに入った平日の映画館は閑散としていて、わたしを含めてほんの数人の観客しかいなかった。いくら上映館が駅から遠いとはいっても、週末の公開から3日目にして劇場が閑散としているのはおかしい。なにか来てはいけない場所に身を置いているような気がしてきて落ち着かない。もし後ろのドアから、ポケットに刃物を忍ばせたお客が入ってきたら・・・・・・と、めずらしくおかしな妄想に悩まされた。

落ち着かない気分は映画が始まっても続いた。上映前の妄想を差し引いたとしても、この映画の何かがわたしに居心地の悪さを感じさせている。それは血に染まった川でもなければ、少女を取り巻くイナゴの大群でもない。冒頭で感じた失望感がそのまま持続しているにもかかわらず、シートに座り続けていることから来る居心地の悪さ、とでもいうのだろうか・・・・・・。

ヒラリー・スワンクは、ある種の重力を感じさせる女優だ。この映画でも彼女の存在感はひときわ光輝を放っている。神に離反した元牧師で、なおかつ超常現象にメスを入れる科学者としての「確かさ」の裏には、家族を襲ったすさまじい悲劇があり、そこに悲壮な決意が宿っていることが見てとれる。しかし物語の展開は、科学者としての彼女のスタンスを真っ向から否定する方向へと進んでいく。ヒロインの進む方向を物語自体が否定していくという展開は、この映画の場合、いかにもあざとく感じられて好感がもてなかった。

さらに、次々と描かれるオカルト現象が旧約聖書の十の災厄というのも、ありきたりで興味を削がれる。少なくとも日本の観客には、原理主義者の信じる奇跡や天使の降臨や悪魔崇拝の狂信集団というのはピンと来ないのではないだろうか。リアリティのある恐怖とそうでない恐怖があるとすれば、ここで描かれている現象には現実感をともなう怖さが少しも感じられない。恐怖は見えないことから発するのであって、一連の謎がこうも説明的に描かれてしまうと、ほんとうに見も蓋もない作品になってしまう。

悪魔と噂される少女の不気味さが、ラストであっけなく一転してしまうのはいかがなものか。それまでの布石がすべて観客を騙すための演出だったとわかったときの気分は、あまりいいとはいえない。安っぽい手品を見せられたようで、少しムッとした。来てはいけない場所に身を置いたような気分になったのには、やはり理由があったようだ。



満足度:★★★★☆☆☆☆☆☆ 


<参考URL>
■映画公式サイト「リーピング」

バベル◆コミュニケーションの本質に迫る力作

2007-05-02 16:28:01 | <ハ行>
  

 「バベル」 (2006年・メキシコ)
  監督・製作・原案:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
  脚本・原案:ギジェルモ・アリアガ
  出演:ブラッド・ピット/ケイト・ブランシェット/アドリアナ・バラッサ
     ガエル・ガルシア・ベルナル/役所広司/菊地凛子

深いところに響く映画だった。心を鷲づかみにされたというより、ずっしりと重いものがみぞおちあたりに下りてきて、それはこれから長い時間をかけて反芻されるべきものだという気がする。モロッコ、メキシコ、日本という異なる3つの舞台で進行する物語は、それぞれがただならぬ緊張を孕みながら、同じひとつの主題へ向かって撚り合わされていく。「バベル」というタイトルが示すとおり、この映画はコミュニケーションあるいは絆の断絶を描いているが、それぞれの物語が終盤でひとまず収束に向かうところに、ささやかな救いが見てとれる。

モロッコの山間部に住む少年が戯れに撃った弾が、夫とともにツアーに参加していたアメリカ人女性スーザン(ケイト・ブランシェット)を撃ち抜く。重傷を負った妻を夫リチャード(ブラッド・ピット)は必死で助けようとするが、辺境の地であるため救援の手はなかなか届かない。一方アメリカの自宅では、メキシコ人の乳母アメリア(アドリアナ・バラッサ)が夫妻の子どもたちの面倒をみていた。アメリアは息子の結婚式のために帰郷する予定だったが、夫妻が戻らないのでやむなく子どもを連れてメキシコへ向かう。やがてモロッコ警察の捜査の過程で、使われたライフルの元所有者として、東京に住む会社員ヤスジロウ(役所広司)の名前が上がる。ヤスジローは妻を自殺で亡くし、いまは聾唖の女子高生チエコ(菊地凛子)と二人暮らしだった・・・・・・。

一挺のライフルが引き起こす事件と、その周辺で生きる人々の物語が微妙に前後しながら、ほぼ同時進行で展開する。それぞれの物語は、地域に特有の問題に大胆に踏み込みながら、散逸することなくひとつの主題に収斂していく。モロッコでは、観光バスめがけてライフルを撃つ羊飼いの兄弟の挿話を通して、ヘリコプターから携帯電話に至る文明の利器と無縁の生活を送る人々を描き出し、子どもの人権すらないがしろにされる日常があることを思い起こさせる。

乗り越えられた言葉の壁

メキシコの物語では、アメリカに不法滞在するメキシコ人労働者の問題が、メキシコ人監督ならではの鋭い視点で描かれる。アメリカの不法滞在移民、およそ1200万人のうち大半がメキシコ人といわれ、カリフォルニアではメキシコ人が労働力の3分の1を担うという現実さえある。国境を超えてアメリカ国内で就労するメキシコ人は後を絶たず、両国国境ではアメリアの甥サンチャゴ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が引き起こしたようなトラブルが続発する。映画で描かれる、国境警備員の偏見に満ちた応対に感情を爆発させるサンチャゴの姿には、国境を行き来するたびにメキシコ人が噛みしめる苦渋の思いが重なっているのだろう。

そして東京の物語では、母親を亡くした聾唖の女子高生チエコがいだく底知れぬ孤独と、愛を求める痛切な思いが奏でる不協和音を、ひときわ鮮烈なエピソードで描きだす。チエコにとって、健常者との親密な関係を望めば望むほど、聾唖という障害は決定的な障壁になってしまう。彼女が壁を乗り越えるには、気持ちを伝えるための、言葉に代わるコミュニケーションの手段と、それをまるごと受け入れる他者の寛容と理解が必要だった。チエコが若い刑事に裸体をさらすエピソードは一見痛々しく見えるものの、チエコの捨て身のコミュニケーションが功を奏したことを思わせて、どこかほっとする。同じように、スーザンとリチャードが険悪になっていた夫婦関係をモロッコの地で修復していく過程も、ひとときの安堵感をもたらす。

ひとつだけ失望を味わうのが、アメリアとサンチャゴの行く末だ。アメリアはメキシコに強制送還されて、彼女がアメリカで半生をかけて築き上げたすべてを失う。サンチャゴにいたっては、あの逃走劇を境にどうなったのかさえ語られない。母国の不幸については、まだまだ安堵感は得られないというのがイニャリトゥ監督の本意なのだろう。

言葉を尽くしても伝わらない思いがあり、言葉を使わずして伝わる思いがある。コミュニケーションの成否は、単なる言語の理解とは別の次元にあるように思える。それは伝える側の意志の強さと、受け手のやさしさや思いやりに帰結するのかもしれない。



満足度:★★★★★★★★★☆
 


<参考URL>
 ■映画公式サイト「バベル」