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邪馬台国(1)

2018-01-11 08:16:59 | 古代と中世

前回『ミナンカバウの伝統住居:ルマ・ガダンを見て』と題して、伝統住居の屋根は、舟形屋根であろうと見解を紹介した。古代に南海から海洋民が渡来したであろうとも紹介した。

最近は静かな古代史ブームとのこと。邪馬台国に関する出版も続いている。過日『邪馬台国・邪馬台国論争のいまがわかる』との刊行物を読んだ。若いころ邪馬台国に関する図書を渉猟した思い出が蘇ってきた。

当該ブロガーの世代では、松本清張氏の古代史疑に始まり、古田武彦氏の一連の邪馬台国関連図書、安本美典氏の邪馬台国関連図書を中心に読んだ覚えがある。再び古田武彦氏の一連の図書を読み返した。若いころに読んだ印象は、緻密に三國志や漢書地理志等を読破し、論証を重ねたものと感心した印象があったが、今般読み返すと、緻密に論証している事柄自体が、それがどうした?との印象が強く、何を云いたいのか首を傾げることがしばしばであった。

要約するのが下手であるが、主要な論点は以下であろう。

1.記紀の『国ゆずり神話』は出雲中心の時代から筑紫中心の時代に移ったことを語る神話である。

2.魏志倭人伝にある国名を邪馬台国とはせず、南宋紹熙本記載の『邪馬壹国』の表記が正しく、それは博多湾岸に存在した。

3.魏志倭人伝のみならず魏晋朝では、1里75~90mの単里が用いられた。

4.三角縁神獣鏡について、通説の魏鏡説を批判し、国産であるとする。

5.九州王朝をはじめ、日本列島各地に王権が存在したとする。稲荷山古墳金錯銘鉄剣銘文の分析から、関東に大王が存在した。

このなかで、1.と5.は何となく理解の範囲内であるが、2.と3.4.は些末な議論の感じが拭えない。以下見ていくこととする。

先ず2.である。陳寿の原本か南宋までの写本か知らないが、古田氏は手本から南宋紹熙本へ筆写する際、誤記をすることは有得ないとする。有得るとか有得ないとかは、どーでもよい。邪馬壹国とするならば、後世その残滓というか残影が残るはずであるが、後世『ヤマイチ』なる国名、郡名などの地名は聞いた覚えがない。一方『ヤマタイ』であれば『ヤマト』につながる。古田氏に比較し、実にラフな検証であるが、やはり邪馬台国であろう。そして邪馬台国、いや邪馬壹国の比定地は博多湾岸としている。湾岸か大宰府付近かは別として、佐賀平野を含むその地域であろうことに異存はない。

3.についてみてみたい。古田氏によると倭人伝は短里で記述され、1里は約77mとしている。更に曰く、「同一人物(陳寿)が二通りの里度(長里、短里)を用いて正史たるべき三國志を書くはずがない」、「一つの本の中に二種類の『里』単位が同居していたら奇々怪々だ」とする。古田氏が例に掲げるのは、赤壁の川幅である。曰く“「北軍を去る二里余」に来た時、隠していた魚油のかかった枯草に、いっせいに火を放った。そして兵士たちは十隻の船に用意していた小舟にいっせいに乗り移って南岸へ逃げ帰った。この二里余は短里で云うと約180m、長里では約1km(古田氏一流の誇張が含まれている。正確には短里で154m、長里で870mである)。とすると長里の場合、この赤壁付近の川幅自体は3kmほどないと話が成立しない。それが私(古田氏)の計算だと大体500mぐらいあればよいことになる(3kmも500mも計算根拠は示されていない)。人民日報に問い合わせると、川幅は400-500mとの回答であった。”従って倭人伝以外の三國志全てに短里が採用されているとの結論である。

以下グーグルアースを示す。曹操は赤壁の対岸烏林に布陣し、劉備と周瑜は赤壁に布陣した。その間の長江の川幅は940mである。しかし両岸に河岸段丘のように見える堤防が存在する。現在でこそ上流に三峡ダムができ、河岸段丘に見える堤防は用なしであろうが、当時は氾濫防護として必要であったと考える。その堤防間の川幅は1.6kmとなる。赤壁の戦いは建安十三年(208)の冬である。

冬季に水量が減ったとしても、川幅が400-500mであったとは考えにくい。

古田氏の短里説に対して山尾幸久、安本美典、白崎昭一の各氏は以下のように反論している。“揚子江中流の『赤壁の戦い(208年)』で呉・蜀連合軍が魏の大軍を、撃破する直前のことだが、魏の曹操は「長坂の戦」で精鋭の騎馬軍5000騎で敗走する劉備軍を急追した。この時騎馬軍は「一日一夜」で300里走破している。この300里を短里で計算すると22~23km、長里では130~140kmとなる。マラソン選手は2時間で40km走る。戦場で精鋭の騎馬軍が一昼夜駆け抜けてたったの22~23kmとは考えられず、300里は長里であろう”・・・としている。全く同感である。つまり三國志は、陳寿による創作活動と、古文献と情報をミックスして編集されたものと考えられる。

                         <続く>


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