白鷺だより

50年近く過ごした演劇界の思い出話をお聞かせします
     吉村正人

白鷺だより(465)さいなら、朝やん

2024-08-22 10:58:10 | 近況


昨、8月21日サンケイホールブリーゼにおいて桂ざこばのお別れ会が催された



トップホット時代の仲間たちにも会えたのも
ざこばこと朝丸のお陰である

芦屋凡凡

いま寛大


池乃めだか(海原めぐる)

前川美智子(コマ新喜劇ヒロイン)



あと「なんでも言って委員会NP 」から竹田恒泰さん、門田隆将さんがきてその人脈の広さには驚く

なるみが引き出す形で池乃めだか師匠が語る思い出話は我々をトップホット時代にひきもどしてくれ泣き笑いの連続だった


ざこばとは昨年そうそう動楽亭にお見舞いに行ったのが最期となった






さいなら朝やん







白鷺だより(464)再び紅萬子のこと

2024-08-12 14:46:14 | 近況


南条好輝さんのゼミナールの生徒さんがあつまって出来た劇団、「劇団てんこもり」かある
年に一度ゲストを入れて前は道頓堀ZAZAで公演を演っていたが今年はZAZAが新世界に移転したので一心寺シアター倶楽にての公演となった この「クソ暑い」最中はるか一心寺まであるいて「下町情話」なる芝居を観にいったのはわれらが友人紅萬ちゃんがゲストで出ていたのと91歳とご高齢の楠年明さんが急遽代演で出ていると聞いたからである

前日に観劇したSさんのFBによると91歳の楠さんをはじめ多賀勝一(81)大竹修三(78)という老優三人が揃って元気に舞台を勤めていたのを見所に挙げていたが もっと重大な「事件」が起きていたのである
但し少なくとも僕にとっては

それは芝居が終わって南条さんがゲストを紹介したときに起こった 「紅萬子さん」、一瞬間違いか 南条のシャレかとおもった が、つづいて紅がこともげもなく「こんかいから名前昔の名前に戻しました」あわてて手元にあるチラシを見てみると、果して「紅萬子」になっている
紅の言い訳によると「壱子」はゲンの悪い名前だった、悪いことばかり起りええことは何にもなかった と 壱子時代の無駄な十年を悔いていた しかしチラシを何回も見ていたにも関わらずその間違いを気付けなかったのはその「紅萬子」があまりにも違和感なく見れたのであり 壱子なる名前が馴染みがなかった証拠であった

げんに我々は名前が「壱子」と変わっでも「萬さん」もしくは「萬ちゃん」と呼んでいた

僕の「紅萬子」という名前への思いは
白鷺だより(345)紅「萬が壱」子のこと
を読んで戴くとして
こうなったら本気で「紅萬子再襲名記念公演」を考えなくっちゃあ

落ち着いて彼女が所属するMC 企画のホームページを見てみると2024年4月16日付で次のような報告があったのだ

紅壱子改名のお知らせ
平素よりMC企画のタレントを応援いただき誠にありがとうございます
弊社所属の「紅壱子」は紅萬子と改名することになりました
今後ともにご指導を賜わりますようよろしくお願い申し上げます

とある

知らなんだ 今年は前半は舞台がなかったからだろうか
しかし撮り終わったNHKの「雲切仁左衛門」はどんな名前でCreditされるか心配だが

ここで僕と紅萬子さん、南条好輝さんとの仕事(演出)を記録しておく
但し日本香堂やどんちょう会などのお付き合いの公演は除く

平成3年(サンケイホール)「忠臣蔵外伝 大阪昆布屋物語」(綾羽一紀作
平成18年(わっはホール)
「ええお湯でっせ」(菱田信也作)
平成19年(わっはホール
「負けてもイギョラ」(菱田信也作
平成20年(わっはホール)
「蝶子」(吉村作)

平成13年(ヘッブホール)
「かんにんしてや」(南条作)
南条好輝、永田カツコ
平成13年(ヘッブホール
「バラードはお好き」(南条作)
平成19年(吹田メイシアター)
「かんにんしてや」(南条作)
南条好輝、永田カツコ

とんちょう会 木村信介名義 作 吉村演出
「天神橋」「大阪の夢ここにあり」「なくて七癖」「情・かんにん」「親子色好み」



白鷺だより(463)こんぴら歌舞伎の沼津を観て考えたこと

2024-08-04 17:11:25 | 思い出

コロナでしばらく中止していた四国こんぴら大歌舞伎が再開してNHK「芸能への招待」でその中継が放送されたのを観た

昼の部の出し物は「伊賀越え道中双六・沼津」で幸四郎の十兵衛、鴈治郎の平作、壱太郎のおよね、染五郎の安兵衛といった配役でさしずめ高麗屋と成駒屋の親子共演となった

しかし我々の世代は8代目幸四郎の松竹脱退(1961)も知っているし、その約6年前の扇雀(二代目)松竹離脱(1955)も知っているので複雑だ そして息子の離脱に殉じて鴈治郎が松竹を辞め大映映画などで大活躍しているのをリアルタイムでこの目で観ている

幸四郎の場合は息子染五郎、吉右衛門(萬之助)もおなじく東宝専属となった

染五郎が何年か後(1967)「野バラ咲く路」なるヒット曲をだして一躍スターダムに乗り東宝ミュージカルの牽引車にまつりあげられたのも知っている

作詞作曲歌 市川染五郎

野ばら咲いてる山路を
二人で歩いてた
夏の太陽 耀いて
二つの影うつしてた
今はない君の面影求め
ひとりぼくは行く
野バラ咲いてる 山路を
ただひとり行く

その人気はすさまじく ちょうど今の染五郎の年齢だ

染五郎のミュージカル
王様と私
ラ・マンチャの男
屋根の上のヴァイオリン弾き(モーテル)
アマデウス(ストレート)

吉右衛門の東宝時代
さぶ(萬之助)
雪国
赤と黒
TV 鬼平犯科帳

そして幸四郎は「花の生涯」や東宝オールスターで「忠臣蔵 花の巻、雪の巻」(最後の討入の立ち回りのBGMはゴジラのテーマ曲)などの映画や日生劇場で「オセロ」の上演、三島由紀夫と組んて「椿説弓張月」TV「鬼平犯科帳」など活躍するが結局東宝重役菊田一夫とうまくいかず 10年後松竹に復興
この10年のことは歌舞伎評論家千谷道雄さんの「幸四郎三国志」に詳しくかかれている

歌舞伎評論家武智鉄二の指導で当り役「曽根崎心中」のお初で人気絶頂となった扇雀もまた宝塚映画の専属となり梅田コマの「コマ歌舞伎」などで活躍するが1963年松竹に復帰

鴈治郎も「炎上」「鍵」「浮草」などの映画出演の傍ら凋落した上方歌舞伎を復興すべく片岡仁左衛門らと自主公演「七人の会」をたちあげる

たまたま沼津を観ていたら昔一度は松竹と袂を分かった「高麗屋」と「成駒屋」が出ていたので昔を懐かしんでしまった

たかが 5、60年ほど前の話だが




白鷺だより(462)札幌刑務所の歌

2024-07-25 16:28:29 | うた物語
盛り場のスナックあたりでいきがったお兄ちゃんが好んて歌う曲がある
「484のブルース」という曲である
484とは何か、これは札幌刑務所の旧住所が札幌市苗穂町484だったからであり現在は札幌市東区東苗穂2の1の5の1となっている
この曲のモデルは札幌で暴力団同志の抗争で31歳で死んだ伝説の無頼、「雁木のバラ」こと荏原哲夫である こんな歌だ

歌 木立じゅん、松方弘樹、清水節子
作詞・作曲 平田満(松方版は幸斉たかし名義だが同一人物である)

義理や人情にあこがれた
19,20か花だった
ここはその名も雁木町
いきつくところは覺悟のウエで
ままよこの道 おれは行く

すがりつく手を 押し退けて
行かなならない 時もある
男のこの胸 だれが知る
うらんでくれるな かわいい人よ
今宵別れの 苗穂町

石狩平野の 片隅に
こんな男の いたことを
せめて忘れず いて欲しい
世間の奴らに 背中を向けて
俺は一人で 生きていく

B面「情熱の薔薇」の歌詞に

薔薇のイレズミ寂しく撫でて〜とか
あぁバラのイレズミ左の肩に〜

とあるので彼は仇名にちなんでバラの
イレズミをいれていたのがわかる

彼は岡晴夫の「男のエレジー」という歌が
すきでいつもうたっていたという
こんな歌だ

街の灯影に背中を向けて
一人ふかした タバコの苦さ
渡る世間をせばめてすねて
生きる男の身のつらさ
こんなやくざにだれがした

義理や人情の渡世に生きて
酒 とケンカにやつれた命
ほほのキズ跡さびしくなでて
月に語ろうか身の上を
こんなやくざにだれがした

さて東北から北海道にかけて春 の彼岸がくる前に吹く雨嵐のことを『彼岸じゃらく』といってそれがすぎればやっと春 の到来という寒さにたえてきた北国の人々得の表現がある

待ちに待った春の到来を知らせる
彼岸じゃらくの雨に自らをたくす歌、
「じゃらくの雨」もこの札幌刑務所で生まれた
この札幌刑務所は珍らしく男女の 刑務所がある
まずは男 囚版から

すがりつく
親の意見に背を向けて
今日は東に明日は西に
妻の便りもぷっつり途絶え
彼岸じゃらくの
彼岸じゃらくの
雨かふる

いくとせを
すぎて淋しい鉄格子
辛い別れに泣き伏す妻 の
胸の痛みを朱肉に詫し
別離の印
別離の印
指 で押す

想い出は妻に空似のグラビアの
写真みつめて泣きたい夜は
罪をわびつつ瞼の裏に
彼岸じゃらくの
彼岸じゃらくの
雨がふる

もう一つ男囚版

いくとせを いくとせを
過ぎて寂しい待合所
涙に濡れて 向き合う妻と
胸の痛みを 朱肉に染めて
別れの印 指で押す

帰り行く 帰り行く
人の流れに 背を向けて
夜が呼んでる ネオンの街へ
妻の便りも ぷっつり絶えりゃ
彼岸じゃらくの 雨が降る

思い出は 思い出は
妻に空似の グラビアの
写真見つめて 泣きたい夜は
罪を詫びつつ 瞼の裏に
彼岸じゃらくの 雨が降る

次は女囚版だ 北原ミレイが歌っている 彼女が船村徹らと一緒に札幌刑務所に慰問に行って持ち帰ったものだ

ゆうべもあなたの夢を見て
涙で目醒めた寒い朝
会いに戻れぬ 我が身の辛さ
せめて一言詫びる心を
伝えて欲しい じゃらくの雨よ

あなたに残した かわいい子
きっとあなたに似てるでしょう
縞の小窓に 名前を呼べば
せめて冷たい後ろ指から
守って欲しい じゃらくの雨よ

再び笑顔で 会える日を
指折数えて 励みます
生まれ変わった 女になって
あなたの愛に答えてみたい
せめて小さな幸せひとつ
叶えて欲しい じゃらくの雨よ

この曲はYouTube「北原ミレイ じゃらくの雨」で聞けます ぜひ













































白鷺だより(455) 団鬼六「美少年」のモデル

2024-07-18 18:38:41 | 梅沢劇団

団鬼六「美少年」のモデル

大学に入ったら演劇をやろうと思っていた僕は関学に入ってまず訪ねたのは「劇研」だった その頃「劇研」は三田和代がいてフランス・ナンシーで行なわれた世界学生演劇祭で「夕鶴」を演じ優勝したばかりであって人気だった

 へそ曲がりの僕はもう一つあった創作劇団「エチュード」にもぐり込んだ その汚い部室にあったOBたちの現状報告の小冊子に映画脚本を書くかたわらオール読物の新人杯を「浪花に死す」で取り教師をしながら時期を待つという自虐的な文章が何故かひっかかり、その黒岩松次郎という名前と共に記憶に残った

3年後 全共闘運動の挫折で中退も考えたがゼミの教授のアドバイスを得て1年留年していた僕はー下鉄梅田駅の掃除の仕事(終電までに駅に入り水洗の仕事、ゴミ箱の整理) をしていた時ゴミ箱に捨てられた山ほどのSM雑誌(その頃ブームだった、家に持って帰れずゴミ箱に捨てたのだろう、中には精液がついた本もあった) の中に黒岩松次郎の名前を何度か見た そのライバルとして台頭してきた花巻京太郎と同一人物だと判って驚いていたら 名作「花と蛇」の作者団鬼六も同一人物と知って驚いた 僕がSM小説を一番読んだ時代であった

さて久しぶりに団鬼六を読んだ この「美少年」は団には珍しい自伝的小説で( ( SMは実際経験はなかった営業用) 関学在学中の話である 実際団は劇団エチュードと同時に軽音楽部のスターでもあった 同じ軽音には高島忠夫がいた、

軽音楽部の隣の部室は邦楽研究部であった 「私」はそこで気品溢れる美少年菊雄と出会い倒錯の世界にのめり込んでいく やがて応援団の学生ヤクザ山田に知られ、その愛人マリーや「私」の恋人久美子を巻き込みクライマックスの「私」の目の前で3人の男女に菊雄がレイプされるシーンで終わる

「私」がセックスの相談する東郷健は実際関学の先輩で「おかま」を公言していた 某大銀行の重役木村某と恋仲でその相手は宝塚スター扇千景の父親という両党使いであった

菊雄は関西有数の舞踊家元、若松流の御曹司で若松菊雄を名乗った 家のしきたりからか小学生まで女の着物を着せられて躾された いよいよその着物を脱ぐ日は悲しくなって泣いたという そして17歳の時義理の叔父さんに犯され、色々仕込まれたという この流派は花柳流だ 小説では事件の2年後 ヨーロッパ巡業を終えた菊雄は服毒自殺してしまう しかし実際は僕もコマ時代振付でお世話になった花柳雅人さんがそうだ その後日本舞踊飛鳥流を起こし初代家元飛鳥峯王を名乗った 今年6月亡くなった、その死亡記事

飛鳥峯王(あすかみねお 日本舞踊飛鳥流初代家元 本名武田欣治郎 94歳)    喪主は3代目家元飛鳥左近(長女)

65年.日本舞踊アカデミーASUkAを創立、80年に飛鳥流を創設し宝塚、OSK日本歌劇団 コマ、新歌舞伎座などの振付、演出を手掛けた 桂米朝さんら関西の多ジャンルの若手が芸を語り合うグループ「上方風流ぶり」のメンバーだった 歌舞伎俳優で売り出し中の市川右團次は長男