まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

新電電メモランダム(リライト)4 真藤氏 NTT初代社長就任と辞任

2012-10-23 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

<国会でボランティア資金が追及されるが>

1989年までNTTに在職したが、気になっていた事がある。1985年当時管理職の末端につらなったが、その年の暮れ、冬のボーナスが出たころ、よくわからない金を拠出した。会ったこともない人から電話があり、管理職は任意で金を拠出することになっている。職場に集金に周るから準備しておいてほしい。その趣旨の説明もなく、拠出を断る管理職はいない、と面倒くさそうに高圧的にしゃべり、その電話だけでは金を拠出する目的などは皆目わからなかった。管理職の親睦会のようなものかと理解したが釈然としなかった。そのうち見知らぬ人が職場に現れ、集金にきたのでたしか5000円程度だったか手渡したが、領収書もなければ、趣意書もない。新米の課長で、言われるままにしていたがなにやら胡散臭い気がしたものだった。

 そのころから既に30年近く経つた数年前に色々調べたいことがあり、国会会議録をネットで渉猟していると、1989年当時の議事録にボランティア基金という言葉を発見した。リクルート事件と共に議論されていて、その中の質疑で質問者の発言に「3年で8億円を集めた」とある。当時のNTT管理職は3万人だったので、一人あたり平均1万円弱ということになり、ランクの高い管理職は高額を、私のような末端の管理職は5000円とするとなるほど計算は合う。

 国会審議の中でもこの金の拠出はボランティアということで結局、この資金の解明は不問に付されたようだ。当時は真藤NTT社長が政界工作に使ったのかとぼんやりと考えていたが、出納帳など仮にあったとしても闇に葬られてしまっているだろう。誰かが集金の途中で抜いても追及のしようがない。NTT2代社長・山口開生氏の国会答弁はボランティアで誰かがやったことであずかり知らぬということで押し通している。8億円は政界資金としては大きな金だろうが全く足のつかない金として重宝されたことだろう。私の経験上の実感と山口開生氏の回答にはずれを感じる。

 国会速記録1 (参 - 逓信委員会 - 3号 平成01年03月28日)

 ○山中郁子君 電通協ないしはボランティア基金から一億円のお金が出されたと 。亡くなられた参議院議員に対する献金として自民党の福田幸弘さんをめぐるNTTのいわゆる企業ぐるみ選挙 でNTTが電通協に対して賛助団体として年間二千万円のお金を出しているということを児島副社長が答弁の中で認めていらっしゃるわけです。

 国会速記録2 (参 - 法務委員会 - 2号 平成01年03月28日)

 ○橋本敦君  NTTが幹部職員からボランティア基金と称して八億円の政界工作資金、これをつくっていた。

 国会速記録3 (参 - 予算委員会 - 5号 平成01年03月31日)

 ○参考人(山口開生君) 一般の世の中のおつき合いの一つとしまして、政治方面との儀礼的なおつき合いとか、あるいはボランティアの有志の諸君が自分たちの仲間意識から身内の者を支援したい、こういった考えから相談し合いまして、ボランティア活動として資金カンパをしたものだというふうに聞いております。

ボランティア資金の流れは結局闇のなかに埋もれることになった。山岸氏が委員長時代に全電通の事務局が起こし、津田委員長のときに発覚した生命保険会社事件がある。これも巨額の金が闇に消えている。新進党の政治資金になったとかのうわさもあるが闇のなかである。電電公社民営化の流れには政治と金の裏舞台がありそうだが果たして開明される日がくるのかどうか。

 <北原安定氏の脱税からロッキード、近畿不正経理と一連の事件が>

 ロッキード事件は1976年(昭和51年)2月に明るみに出た。田中角栄首相が戦闘機の機種選定にからんで数億円を受け取ったとする汚職事件で、次期総裁に北原安定氏を押す田中首相の失脚で一気に外部から総裁を招き入れる声が強くなる。さらに1985年の民営化の際にも田中角栄氏は初代社長に北原安定氏を推すが、その田中角栄氏も中曽根氏と財界が強く推す真藤氏の初代社長就任を興銀の中山素平氏を訪れて応諾したと中曽根氏の回顧録にある。北原氏と全電通の山岸委員長は民営化に反対で、山岸氏は民営化では折れたが分割には断固反対だったとある。結局最後まで民営化反対の北原氏は中曽根総理大臣の時代が到来し、角栄氏の闇将軍の戦いで敗れたということになる。

『自省録・歴史法廷の被告として』 中曽根康弘 新潮社

 電電を分割する必要はないと全電通委員長・山岸章氏は主張したが真藤恒氏が山岸氏にとにかく民営化だけは認めろと説得して山岸氏が折れ、次いで田中角栄氏が初代社長に真藤氏が就任することを承知することで副総裁の北原安定氏が孤立し民営化と真藤社長が実現した。(ブログの記事より孫引きの上で抜粋)

土光氏の第二臨調が始まり電電公社の民営化が議論されだした頃だったから1980年代の初めのある日の朝、朝日新聞に北原安定氏の脱税問題が一面トップの記事になっていた。北原安定氏のうっかりミスに近い新居建築に伴う納税問題がかなり大きく取り上げられていた。私の頭の中ではこの些細な記事が後の近畿電気通信局不正事件、真藤総裁を外部から受けいれ、NTT民営化と真藤初代社長の就任と続く大変革のプロローグのような気がしてならない。メディア工作の一端を垣間見た気がするが、根拠はない。

後年、石原慎太郎氏が月刊誌「文藝春秋」へ寄稿し、その記事の中でロッキード事件と田中角栄氏に触れ、その事件の背後にある米国の陰謀を匂わせる内容を書いていた。CIAから対日本工作にかなりの金が出ていたとも記していた。田中角栄氏は死ぬまで「自分は(対米追随派に)はめられた」と考えていたらしい。私はこの記事の影響を相当受けているが確かなことは不明である。

北原安定氏は日本の巨大な通信産業を電電ファミリーとして完全に抑えていた。NTT調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手も一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリーと呼ばれるメーカーが占有していた。北原安定氏はこの巨大電電ファミリーのトップに君臨し、電電ファミリーの名のもとに国産メーカーを擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止していたと思う。

NTTのネットワーク部長などを歴任した石川宏氏が情報通信学会発行のマガジンで、氏が入社当時に日本には軍産複合体が無いので電電公社がその任を負うのだと先輩から言って聞かされる逸話が紹介されていた。私がNTTデータ通信本部で働き始めた1970年代の初め頃、当時の上役も同じことを常日頃から部下に言っていた。この上役は北原安定氏のもとにふろしきに説明資料を包み、よく日比谷の本社まで近況などの説明に伺う姿が脳裏に残っている。

この上役もまた開発するデータ通信システムの機種選定には国産コンピュータそれも富士通のみを使う生粋の国産派であった。機種選定の候補にIBMでも提案しようものなら徹底的に絞り上げられた。(もっともこの上司は特別な例かもしれないが)IBM当時の都市銀行が盛んにIBMを使ってシステム開発を行っていたがNTTデータ通信本部でIBMを使った開発を行うことは少なかったのではないか。当時のNTTデータ通信本部は赤字続きであったが電話部門からの潤沢な金が使えたので御三家の国産コンピュータの発展には相当寄与したことになる。富士通がスーパーコンピュータで世界一の座をとれたのもその基礎はこの当時の金の使い方にあったのかもしれない。

この上司から北原安定氏が1960年代の終わり頃に千葉の電電公社保養所にこもってデータ通信本部設立の起草を練った話を何度も聞かされた。この時に北原氏の頭には国策として国産コンピュータの発展を願っていたことは間違いない。(この国策には国防と言う意味合いが非常に強いのだが)

この国産コンピュータ開発の例からもNTTの研究開発力というとき、単にNTTの通信研究所だけではなく巨大な電電ファミリー全体が米国の軍産複合体に性格の似通った研究開発機構として機能していたということになる。従ってNTT通信研究所自体も世界的レベルであるが、電電ファミリーの研究開発力も合わせたものがNTTの研究開発力とみなされ、実態よりも一層巨大に映り、又重要性の認識も実態以上に大きなものに世間には映ったものと思われる。(通研の実力を否定しているわけではない)NTTの研究開発力を冷静に議論するときは電電ファミリーの開発力を分けて考える必要がある。

通研は中曽根氏も全国的ネットワークと同様に保存する必要を感じていたと回顧録で述べている。つまり彼は民営化賛成、分割反対であり、工事部門やデータ通信部門を切り離せといっていた。工事部門の切り離しは昨今のラストワンマイル会社切り離しとは似て非なるものである。この工事会社切り離しはNTT系列会社として行われたがもっと徹底した分離が為されていれば地域独占の弊害をなくすことができた可能性がある。中曽根氏の先見性は工事部門の子会社化という中途半端な形でお茶を濁されたが、このアイデアをもっと徹底して地域独占の弊害打破にいたるまで形を追求していればと思うと残念であるが、当時はだれもこのアイデアの素晴らしさに着目をしていなかったし、現時点でもそうである。

 これに対して中曽根氏や真藤氏は米国からの製品導入で貿易摩擦を解消し米国との蜜月をつくり出そうとした。真藤氏と北原氏の初代社長争いは電電ファミリーと米国と日本の新たに参入したい企業群の戦いの様相を呈してくる。財界主流は電電ファミリー以外の声が強く後者を支援したと推測している。北原氏は日本の電気通信産業界を当時としては最大効果のあるやりかたで牽引してきたが、時代の潮目を読めなかったと言うべきだろう。

その後しばらくして、1978年から1979年にかけてカラ会議やカラ出張あるいは一般人にはなじみのない特別調査費という勘定科目で十二億余万円もの裏金をねん出した金を組織的に金をプールして全電通への接待や部内外幹部への飲み食いに使っていたという大事件で、南町奉行と称する社内の人物なども紹介され、連日賑やかに報道されていた。実際にはこの事件が電電公社の総裁を外部から迎え入れる世間の空気を一気に盛りあげる役目を果たした。真藤氏は1981年に同社出身の土光敏夫名誉会長(当時)に請われ、北原氏を押さえて旧日本電信電話公社総裁に就任が決定した。

1982年1月26日朝日新聞朝刊13版23面 電電不正 部長級は不起訴 大阪地検 41人、裏付け取れず 五十三、五十四年度にカラ会議やカラ出張で、十二億余万円もの裏金をねん出、流用していた日本電信電話公社(真藤恒総裁)の不正経理事件で、大阪地検特捜部は二十五日、背任、虚偽公文書作成など五つの罪名で告発されていた近畿電気通信局などの当時の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴ににする処分を発表した。

北原氏追い落としのために暴かれた事件だとすると、既に真藤氏が総裁に就任していたために近畿電気通信局の部長級四十一人全員を、「嫌疑不十分」として不起訴ににする珍しい決着となったのだろうかとも勘繰れるがどうなんだろうか。

<真藤氏が重用した幹部たち>

 真藤氏に重用され最年少で役員になった長谷川取締役が1985年頃だろうか、当時のNTTデータ通信本部長として着任してきた。堂島センターの入り口ロビーに職員を全員集めてのあいさつを私も聞いた。週刊誌でうどん屋を経営する女将との女性問題を叩かれ、リクルートで有罪になり完全に失脚する。

 同様に真藤氏に重用された企業通信本部長の式場取締役もリクルート事件で失脚する。日経コミュニケーションズなどの業界雑誌に式場氏の名前が載らないことはなかったくらいで、NTTの企業向け営業の顔として活躍していた。後年私が新電電に移り、式場氏がリクルート事件で有罪判決を受けた後に何かの折に上司のGさんの縁で式場氏の事務所を訪れたことがある。新橋の煉瓦通り沿いにあるビルの一室にひっそりとした事務所を構えていた。長谷川氏、式場氏とも失脚後リクルートが面倒を見ていた。長谷川氏はリクルートアメリカで、式場氏はコンサルタントを開業されていたが、リクルートがバックアップをしていたのだろう。

<日米貿易摩擦の解消圧力>

 田中角栄氏の後を継いだ中曽根首相と米国レーガン大統領はロン、ヤスと呼び合う蜜月関係を作り出した。米国のシンシナティーベルから電話会社運営の基幹システムソフトの導入を決めたのもこの頃で、同様に米国からスーパーコンピュータをリクルート社が購入して、横浜西電話局と大阪のNTT堂島センターに設置した。いずれも勤務地であった関係で記憶している。特に横浜西電話局の廊下で一度真藤氏ととりまきの一団を見かけたことがある。ひょっとしてスーパーコンピュータ設置センターの視察に来られていたのだろうか。

 NTTの資材調達については随意契約を原則廃止して必ず入札を行うように法制化したのもこの頃か。1973年(昭和48年)GATT・東京ラウンドがスタートし、GATT協定が採択される。、1981年(昭和56年)1月より、GATT協定に基づく調達方式をトラックⅠ、日米取り決めに基づく市販品ベースの電気通信設備の調達をトラックⅡ、開発が必要な電気通信設備の調達をトラックⅢとし、「オープン」「公正」「内外無差別」をうたった調達手続きがスタートした。真藤氏が総裁に就任した時期と符合する。(2001年(平成13年)7月をもって完全に失効した。)

< リクルート事件が発生し真藤氏は逮捕される>

1988年6月18日の川崎市小松助役に対するコスモス株譲渡のスクープを朝日新聞が報じたことをきっかけに発覚したリクルート事件で、1989年に逮捕、1990年10月23日には真藤NTT前会長の判決があり、懲役2年・執行猶予3年が確定した。真藤氏は年齢的な点も考慮してこの判決をうけいれたとあった。他に長谷川寿彦元NTT取締役は一審で懲役2年・執行猶予3年、式場英元NTT取締役は一審で懲役1年・6ヶ月執行猶予3年が確定した。これにより真藤氏は逮捕され失脚する。これによってNTTは再び生え抜きの社長人事に戻ることになる。その頃私は新電電の一つ日本高速通信に転職してNTTとの接続問題を担当することになったが、真藤氏が失脚して接続問題の態度が変化したことを感じた。一言でいえばしわくなった。

 1985年に真藤氏がNTT初代社長になって全社員に一斉放送で挨拶と訓辞をおこなった。自席でその声を聞いたのだが、しわがれ声でとても小さい声で内容が聞き取れないときもあった。その話の中で妙に印象に残った話がある。「NTTが民営化されたがNTT法は残った。このNTT法が残ったことの意味の大きさを殆どの社員は気づいていない。しかしやがてこのNTT法の存在が大きな意味を持ってくることを諸君はしることになるだろう」といった一種の予言めいた話だった。

 真藤氏はリクルート事件で逮捕され有罪判決が下ったが、これはNTT法違反によるものだ。言い換えればNTTが他の民間会社と同じでNTT法がなかりせば、逮捕されなかったことになる。そう考えるとこのときの挨拶はすごみを持ってくる。

このあたりの話は米国政府と日本経済界主流派の暗闘にも見えあるいはそうでないかもしれない。米国政府の規制緩和を推進するパワーで通信業界が競争状況になり、料金が引き下げられたことも事実である。しかし日本メーカーの凋落を促したとの考え方も出来ないことはない。真相はもっと時間がたたないと見えてこないのかもしれない。

 <余話1>

1984年(昭和59年)11月、世田谷電話局のすぐ前の地下のケーブルを入れるトン ネル(とう道)内のケーブルが 全焼するという大事故があり、都内の電話に大きな影響を与えた。この事故対策の責任者として腕を振るったのが長谷川氏で真藤氏の目に留まり、以降徴用されるきっかけとなった。虎ノ門17森ビルのオフィスで火災の続く状況にやきもきしたときの記憶は鮮明だ。

<余話2>

真藤氏は石川島播磨から1981年に電電公社総裁に就任したときに電電語を話すなと訓示したことはつとに知られている。総裁就任直後に社内略語でそのままレポートされてイライラしたことで発したものだろう。100万円を「1円」と呼びならわす習慣は同じ社宅に住む知人の口からよく聞かれた。(なんだか得意げな感じも受けた)戒名というのは電電公社が建設勘定でおこす建設工事のすでに完成した工事名の事を指す。おもわずぶっ飛ぶようなネーミングだが1986年当時データ通信本部でこの工事管理システムを担当した時にもまだ残っていた。

<余話3>

おなじく真藤氏が総裁に就任した頃、電柱工事やとう道(通信ケーブル用のトンネル)の工事でよく気の毒な死亡事故があった。記憶は薄らいでおぼろだが線路工事部門の職員のあいだでは今日は「何人ころした」といった表現がまかり通っていた。つまり本日の死亡事故数を言っているのだが、この表現を聞いた真藤氏は怒り、厳しく禁止した記憶がある。電電公社でとう道工事のロボット化を進めたのも真藤氏だと電電公社社内誌「施設」か同「技術ジャーナル」で読んだ記憶がある。

 

「リクルート事件・江副浩正の真実」と見聞

 

NTTデータ草創期メモランダム6 リクルート事件

 

 

 

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。