昭和9年(1934)大宮鳥瞰図を見ると、左よりに新国道(国道17号)と高沼用水路が交差しているところ(赤丸)がある。
その場所を昭和22年の空中写真で見るとここ(赤丸)だと思う。
そして現在の地図ではここ(赤丸)だと思う。
現在は暗渠になっているが、かつては橋が架かっており、現在も暗渠出口にコンクリートの欄干が残っている。落合橋(2010年6月撮影)である。
大宮鳥瞰図にはその場所の下に跨線橋(赤矢印)が描かれている。
現在の新都心大橋のところである。
2015年08月14日ブログで私は新都心大橋の横で大原橋の遺構を見た。
傍らの案内板には、大原橋は昭和37年に開通したとあるから、大宮鳥瞰図に描かれた橋ではない。
昭和22年の空中写真に見えるこの橋(赤矢印)が大宮鳥瞰図に描かれた橋だと思う。
昭和30年浦和市編集発行『浦和市制二十年史』の(第三編 一般市制)(第二章 土木)(第三節 橋梁)に “ 本市は地勢上河川の大なるものがないので、与野駅北方の上木崎字大原地内に架る鋼橋(東北線跨線橋)一ヵ所、長さ七三米を除き、総て木、石橋及びコンクリート橋等の小橋で、その最も長いものでも三〇米未満であり大部分が長さ一〇米未満である。” という記述ある。ここに記述の「与野駅北方の上木崎字大原地内に架る鋼橋(東北線跨線橋)」というのが私は大原橋が架かる前の橋、おそらく大宮鳥瞰図に描かれた橋だと思う。
大宮鳥瞰図で新国道・高沼用水路交差地点の右を見る。
渡辺組大宮製糸工場とエタニットパイプ工場が描かれており、その左にも新国道の両脇に工場らしきところが見える(①と②)。
与野市史通史編下巻に掲載の昭和9年の与野町案内図を拡大して見ると、①は難波工場、②は松本工場ではないかと思う。
難波工場というのは、与野市史によれば、昭和9年操業を始めた「難波鉄工所大宮工場」で、工作機械・歯車・自動車部品を製作する工場だった。昭和10年頃の鳥瞰写真。
松本工場というのは、松本産業与野工場のことで、昭和9年当時は「松本鉄治郎商店」で昭和15年に「松本産業」に社名変更した。昭和9年の写真。
現在の地図にそれら工場があった場所を表示するとこのようになると思う。エタニットパイプ工場のところを除いてマンションになっている。
その場所を昭和22年の空中写真で見るとここ(赤丸)だと思う。
そして現在の地図ではここ(赤丸)だと思う。
現在は暗渠になっているが、かつては橋が架かっており、現在も暗渠出口にコンクリートの欄干が残っている。落合橋(2010年6月撮影)である。
大宮鳥瞰図にはその場所の下に跨線橋(赤矢印)が描かれている。
現在の新都心大橋のところである。
2015年08月14日ブログで私は新都心大橋の横で大原橋の遺構を見た。
傍らの案内板には、大原橋は昭和37年に開通したとあるから、大宮鳥瞰図に描かれた橋ではない。
昭和22年の空中写真に見えるこの橋(赤矢印)が大宮鳥瞰図に描かれた橋だと思う。
昭和30年浦和市編集発行『浦和市制二十年史』の(第三編 一般市制)(第二章 土木)(第三節 橋梁)に “ 本市は地勢上河川の大なるものがないので、与野駅北方の上木崎字大原地内に架る鋼橋(東北線跨線橋)一ヵ所、長さ七三米を除き、総て木、石橋及びコンクリート橋等の小橋で、その最も長いものでも三〇米未満であり大部分が長さ一〇米未満である。” という記述ある。ここに記述の「与野駅北方の上木崎字大原地内に架る鋼橋(東北線跨線橋)」というのが私は大原橋が架かる前の橋、おそらく大宮鳥瞰図に描かれた橋だと思う。
大宮鳥瞰図で新国道・高沼用水路交差地点の右を見る。
渡辺組大宮製糸工場とエタニットパイプ工場が描かれており、その左にも新国道の両脇に工場らしきところが見える(①と②)。
与野市史通史編下巻に掲載の昭和9年の与野町案内図を拡大して見ると、①は難波工場、②は松本工場ではないかと思う。
難波工場というのは、与野市史によれば、昭和9年操業を始めた「難波鉄工所大宮工場」で、工作機械・歯車・自動車部品を製作する工場だった。昭和10年頃の鳥瞰写真。
松本工場というのは、松本産業与野工場のことで、昭和9年当時は「松本鉄治郎商店」で昭和15年に「松本産業」に社名変更した。昭和9年の写真。
現在の地図にそれら工場があった場所を表示するとこのようになると思う。エタニットパイプ工場のところを除いてマンションになっている。
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