2017年10月26日ブログで私は高沼用水路に架かる高谷橋を渡って振り返った。
昭和44年3月竣功の高谷橋である。
グッドデザイン賞サイトのけやきひろばを見ると、“ 受賞対象名 けやきひろば[与野市大字上落合字高谷橋2-40] ” とあって、高谷橋は橋名であると同時に地名(上落合の字)でもあったことがわかる。
(旧)与野市大字上落合字高谷橋2-40は現在さいたま市中央区新都心になっている。
高沼用水路をヤフー地図に青で示す。暗渠の区間が多く、水面はあまり見えない。
明治13年の迅速測図に青で示す。中山道と赤山街道が高沼用水路と交差するところを赤で示す。
現在の中山道と赤山通りを赤で示す。2015年6月撮影の赤山通り標示板。
現在の高谷橋を赤丸で示す。
中山道の橋は高台橋という。高台橋は秋山喜久夫著『大宮の地名』(昭和50年発行)には「たの部」の冒頭に出てくるから「たかだいはし」と読むのだと思う。
では、高谷橋はどのように読むのだろうか。
2016年03月17日ブログで私は高沼用水路沿いのさいたま市立与野東中学校正門の北側で石橋供養塔を見た。
下の案内板は表題が「高谷橋の石橋供養塔」で、「高谷橋」は「こうやばし」と振り仮名が振ってある。
「高谷橋の石橋供養塔」は中央区下落合にある。
昭和56年与野市長発行『与野市史 近代史料編』には、明治初めに埼玉県が編纂した地誌「武蔵国郡村誌」の与野地域の記述が収録してある。そこの上落合村にある字地の項を見ると、高谷橋は上落合村の東に位置する字地であったことがわかる。高谷橋は「かうやばし」とふりがなが振ってある。今なら「こうやばし」となる。
「武蔵国郡村誌」の上落合村にある川堀の項を見ると、橋がある。高沼用水に架かる石造りとある。
「武蔵国郡村誌」が書かれたころの高谷橋は現在のところではなく、石橋供養塔の近くだったと思う。とは言っても石橋供養塔の台座には “ この石橋供養塔はもと高沼用水路高谷橋の傍に立っていたものですが、護岸工事のため本位置に移建されました このたび文化財保護の立場から特に台座を新設し再建立しました 昭和六十一年七月吉日 与野市教育委員会 下落合有志 ” と刻まれているから、移建される前の位置が高谷橋の傍だったということになる。それにしても現在地(中央区上落合)とは離れすぎていると思う。
平成7年発行『与野の歴史散歩』によれば、高谷橋の石橋供養塔表面には、上落合村願主明誉了善(長伝寺第十五世)と刻まれているという。
2017年12月07日ブログで私は与野本町通りの三差路から長伝寺方面を見た。角に「史蹟 西澤曠野先生墓所」と彫られた石碑が建っている。
さいたま市サイトの文化財紹介。
埼玉県の教員であった深井春麗が昭和5年自費出版した『與野木崎の草分』は名士伝で西澤曠野を紹介している。この紹介文には岩槻藩の兒玉南阿に学んだとある。兒玉南阿とは岩槻藩遷喬館を創立した児玉南柯のことではないかと思う。そうだとすれば西沢曠野は寛保3年(1743)の生まれで児玉南柯は延享3年(1746年)の生まれだから後から生まれて「先生」になったわけである。
埼玉ゆかりの偉人西沢曠野の参考文献に “ 『西沢曠野と其子孫』(渡辺刀水著・昭和8年) ” がある。この文献の著者である渡辺刀水が、昭和8年与野円乗院で西沢曠野について講演した時の聴き書きに「与野町の東、赤山街道の小さい川に架けた橋を廣野(かうや)橋と申します。今は鉄筋混凝土に架けかへられましたが、近年迄は大きな自然石の長い石を並べて架けた堅固なものでありました。是は曠野が自費で諸人の通行に便せんが為に、非常に丈夫な石橋を作ったのであります。廣野橋とは自分がつけた名では無く、多くの人がいつしか左様に呼びならはしたのであります」というのがある。
廣野橋は「こうやはし」で「高谷橋」と同じ発音である。
与野東中学校正門脇の石橋供養塔は宝暦6年(1756)建立である。
『日本石仏事典』によれば、石橋供養塔は “ 洪水のとき、人の生死、村の存否にかかわる橋の存在は、橋に霊魂が宿るとみられ、その新設や修復の普請に際して、永久に破損することなく、かつ安全を願って供養されるものである ” と記述されている。
西沢曠野は1743年の生まれであり、宝暦6年(1756)に石橋が新設あるいは修復されたとすれば13歳である。この石橋は曠野が自費で作った石橋ではないと思う。
深井春麗の『与野木崎の草分』は名勝古蹟として曠野橋を紹介している。
文面を見ると、この原稿を執筆当時、曠野が作った曠野橋は存在していたのではないかと思う。
昭和8年の渡辺刀水の講演では、近年まで曠野が作った曠野橋があったようである。
そうだとすれば、曠野が作った曠野橋は昭和5年から8年の間に鉄筋コンクリート橋に架け替えられたということになるのではないだろうか。
西沢曠野の没年は文政4年(1821)とある。昭和5年は1930年だから、少なくとも110年は経過していたということになる。
昭和22年の空中写真を見る。赤山街道を赤で示す。
拡大する。高谷橋を赤丸で示す。昭和5年から8年の間に架け替えられたと思われる鉄筋コンクリート橋はこれかも知れない。
昭和44年3月竣功の高谷橋である。
グッドデザイン賞サイトのけやきひろばを見ると、“ 受賞対象名 けやきひろば[与野市大字上落合字高谷橋2-40] ” とあって、高谷橋は橋名であると同時に地名(上落合の字)でもあったことがわかる。
(旧)与野市大字上落合字高谷橋2-40は現在さいたま市中央区新都心になっている。
高沼用水路をヤフー地図に青で示す。暗渠の区間が多く、水面はあまり見えない。
明治13年の迅速測図に青で示す。中山道と赤山街道が高沼用水路と交差するところを赤で示す。
現在の中山道と赤山通りを赤で示す。2015年6月撮影の赤山通り標示板。
現在の高谷橋を赤丸で示す。
中山道の橋は高台橋という。高台橋は秋山喜久夫著『大宮の地名』(昭和50年発行)には「たの部」の冒頭に出てくるから「たかだいはし」と読むのだと思う。
では、高谷橋はどのように読むのだろうか。
2016年03月17日ブログで私は高沼用水路沿いのさいたま市立与野東中学校正門の北側で石橋供養塔を見た。
下の案内板は表題が「高谷橋の石橋供養塔」で、「高谷橋」は「こうやばし」と振り仮名が振ってある。
「高谷橋の石橋供養塔」は中央区下落合にある。
昭和56年与野市長発行『与野市史 近代史料編』には、明治初めに埼玉県が編纂した地誌「武蔵国郡村誌」の与野地域の記述が収録してある。そこの上落合村にある字地の項を見ると、高谷橋は上落合村の東に位置する字地であったことがわかる。高谷橋は「かうやばし」とふりがなが振ってある。今なら「こうやばし」となる。
「武蔵国郡村誌」の上落合村にある川堀の項を見ると、橋がある。高沼用水に架かる石造りとある。
「武蔵国郡村誌」が書かれたころの高谷橋は現在のところではなく、石橋供養塔の近くだったと思う。とは言っても石橋供養塔の台座には “ この石橋供養塔はもと高沼用水路高谷橋の傍に立っていたものですが、護岸工事のため本位置に移建されました このたび文化財保護の立場から特に台座を新設し再建立しました 昭和六十一年七月吉日 与野市教育委員会 下落合有志 ” と刻まれているから、移建される前の位置が高谷橋の傍だったということになる。それにしても現在地(中央区上落合)とは離れすぎていると思う。
平成7年発行『与野の歴史散歩』によれば、高谷橋の石橋供養塔表面には、上落合村願主明誉了善(長伝寺第十五世)と刻まれているという。
2017年12月07日ブログで私は与野本町通りの三差路から長伝寺方面を見た。角に「史蹟 西澤曠野先生墓所」と彫られた石碑が建っている。
さいたま市サイトの文化財紹介。
埼玉県の教員であった深井春麗が昭和5年自費出版した『與野木崎の草分』は名士伝で西澤曠野を紹介している。この紹介文には岩槻藩の兒玉南阿に学んだとある。兒玉南阿とは岩槻藩遷喬館を創立した児玉南柯のことではないかと思う。そうだとすれば西沢曠野は寛保3年(1743)の生まれで児玉南柯は延享3年(1746年)の生まれだから後から生まれて「先生」になったわけである。
埼玉ゆかりの偉人西沢曠野の参考文献に “ 『西沢曠野と其子孫』(渡辺刀水著・昭和8年) ” がある。この文献の著者である渡辺刀水が、昭和8年与野円乗院で西沢曠野について講演した時の聴き書きに「与野町の東、赤山街道の小さい川に架けた橋を廣野(かうや)橋と申します。今は鉄筋混凝土に架けかへられましたが、近年迄は大きな自然石の長い石を並べて架けた堅固なものでありました。是は曠野が自費で諸人の通行に便せんが為に、非常に丈夫な石橋を作ったのであります。廣野橋とは自分がつけた名では無く、多くの人がいつしか左様に呼びならはしたのであります」というのがある。
廣野橋は「こうやはし」で「高谷橋」と同じ発音である。
与野東中学校正門脇の石橋供養塔は宝暦6年(1756)建立である。
『日本石仏事典』によれば、石橋供養塔は “ 洪水のとき、人の生死、村の存否にかかわる橋の存在は、橋に霊魂が宿るとみられ、その新設や修復の普請に際して、永久に破損することなく、かつ安全を願って供養されるものである ” と記述されている。
西沢曠野は1743年の生まれであり、宝暦6年(1756)に石橋が新設あるいは修復されたとすれば13歳である。この石橋は曠野が自費で作った石橋ではないと思う。
深井春麗の『与野木崎の草分』は名勝古蹟として曠野橋を紹介している。
文面を見ると、この原稿を執筆当時、曠野が作った曠野橋は存在していたのではないかと思う。
昭和8年の渡辺刀水の講演では、近年まで曠野が作った曠野橋があったようである。
そうだとすれば、曠野が作った曠野橋は昭和5年から8年の間に鉄筋コンクリート橋に架け替えられたということになるのではないだろうか。
西沢曠野の没年は文政4年(1821)とある。昭和5年は1930年だから、少なくとも110年は経過していたということになる。
昭和22年の空中写真を見る。赤山街道を赤で示す。
拡大する。高谷橋を赤丸で示す。昭和5年から8年の間に架け替えられたと思われる鉄筋コンクリート橋はこれかも知れない。
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