2016年01月30日ブログで私はJR線路に架かる浦和橋を歩いた。地図で位置をみる。
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には、“ 浦和橋(一里塚跡) 京浜東北線と旧中山道を立体交差するためにつくった陸橋で、当初はもう少し北側で平面交差しており大踏切と呼ばれていた。列車の通過が増加したため、昭和の初めごろ鉄道の路面を掘り下げ、旧中山道を土盛りして今の形に改めた。江戸時代の一里塚は、この浦和橋より少し南のあたりにあったが今は跡らしいものは全く無くなっている ” と案内されている。
ウィキペディア浦和橋によれば、1931年(昭和6年)7月20日開通で、現在の橋は1967年(昭和42年)3月竣工の2代目である。
大正11年の地図を見る。浦和橋はなく踏切の時代である。
昭和9年の地図を見る。昭和6年開通の浦和橋が架かっている。踏切時代の中山道は緑のようだったと思う。
現在の地図に描くとこのような感じになるのではないかと思う。黄で示した道は昭和9年の黄の道と同じ道だと思う。
2016年01月30日ブログで私は笹岡稲荷神社を訪れた。
旧中山道の浦和橋からこのように見えた。『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 昭和の初めごろ鉄道の路面を掘り下げ、旧中山道を土盛りして ” と記述されていたが、鉄道建設前は中山道と笹岡稲荷神社は平坦な地面上にあったと思われる。とすれば中山道からこの方向に真っ直ぐ参道が延びていたのかも知れない。
先ほどの大正11年の地図と昭和9年の地図には神社の地図記号が二つある。
首都圏の寺社情報サイト猫の足あとで笹岡大稲荷社・笹岡小稲荷社を拝見すると、“ 一つの鳥居をくぐって左右に鎮座する別宗教法人の二社です ” と案内されている。
2016年01月30日ブログの北側の社殿は笹岡大稲荷社、南側の社殿は笹岡小稲荷社であるという。
先ほどの猫の足あと「埼玉の神社」による笹岡大稲荷社・笹岡小稲荷社の由緒には、“ 『中山道分間延絵図』によると、浦和宿の宿並みを過ぎて針ケ谷村に向かって街道を北に進むと一里塚があり、当社はその先のすぐ東側の高台に「字笹塚 稲荷」とある ” との記述がある。
中山道分間延絵図を見る。現在の鉄道と浦和橋はこのような感じになると思う。
黄色で示した道は川越道だと思う。
明治13年の地図に川越道を黄で示す。
平成11年浦和市立郷土博物館発行『特別展 中山道浦和宿』には一里塚についてこのような解説がある。
左の挿入写真は浦和宿絵図に描かれた一里塚とある。
平成5年浦和市発行『図説 浦和のあゆみ』は表紙カバー背景(壁紙)が浦和宿絵図になっている。
その浦和宿絵図で笹岡稲荷神社と一里塚はここだと思う。
私はこの道(赤)が川越道ではないかと思う。
そうだとすれば、一里塚は川越道が大きくカーブするところの東側にあったということになる。
川越道が大きくカーブするところは現在のここだと思う。
そうすると中山道西側の一里塚は現在のこのマンションのあたりにあったのではないかと思うのである。
ところで一里塚は小山が築かれていたというのだが、この小山はいつ平地にされたのだろうか?
浦和橋建設にあたって中山道を土盛りしたというのだか、その土盛りに一里塚の土が利用されたということはなかったのだろうか?
平成4年浦和市発行『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には、“ 浦和橋(一里塚跡) 京浜東北線と旧中山道を立体交差するためにつくった陸橋で、当初はもう少し北側で平面交差しており大踏切と呼ばれていた。列車の通過が増加したため、昭和の初めごろ鉄道の路面を掘り下げ、旧中山道を土盛りして今の形に改めた。江戸時代の一里塚は、この浦和橋より少し南のあたりにあったが今は跡らしいものは全く無くなっている ” と案内されている。
ウィキペディア浦和橋によれば、1931年(昭和6年)7月20日開通で、現在の橋は1967年(昭和42年)3月竣工の2代目である。
大正11年の地図を見る。浦和橋はなく踏切の時代である。
昭和9年の地図を見る。昭和6年開通の浦和橋が架かっている。踏切時代の中山道は緑のようだったと思う。
現在の地図に描くとこのような感じになるのではないかと思う。黄で示した道は昭和9年の黄の道と同じ道だと思う。
2016年01月30日ブログで私は笹岡稲荷神社を訪れた。
旧中山道の浦和橋からこのように見えた。『わがまち浦和 地域別案内(改訂版)』には “ 昭和の初めごろ鉄道の路面を掘り下げ、旧中山道を土盛りして ” と記述されていたが、鉄道建設前は中山道と笹岡稲荷神社は平坦な地面上にあったと思われる。とすれば中山道からこの方向に真っ直ぐ参道が延びていたのかも知れない。
先ほどの大正11年の地図と昭和9年の地図には神社の地図記号が二つある。
首都圏の寺社情報サイト猫の足あとで笹岡大稲荷社・笹岡小稲荷社を拝見すると、“ 一つの鳥居をくぐって左右に鎮座する別宗教法人の二社です ” と案内されている。
2016年01月30日ブログの北側の社殿は笹岡大稲荷社、南側の社殿は笹岡小稲荷社であるという。
先ほどの猫の足あと「埼玉の神社」による笹岡大稲荷社・笹岡小稲荷社の由緒には、“ 『中山道分間延絵図』によると、浦和宿の宿並みを過ぎて針ケ谷村に向かって街道を北に進むと一里塚があり、当社はその先のすぐ東側の高台に「字笹塚 稲荷」とある ” との記述がある。
中山道分間延絵図を見る。現在の鉄道と浦和橋はこのような感じになると思う。
黄色で示した道は川越道だと思う。
明治13年の地図に川越道を黄で示す。
平成11年浦和市立郷土博物館発行『特別展 中山道浦和宿』には一里塚についてこのような解説がある。
左の挿入写真は浦和宿絵図に描かれた一里塚とある。
平成5年浦和市発行『図説 浦和のあゆみ』は表紙カバー背景(壁紙)が浦和宿絵図になっている。
その浦和宿絵図で笹岡稲荷神社と一里塚はここだと思う。
私はこの道(赤)が川越道ではないかと思う。
そうだとすれば、一里塚は川越道が大きくカーブするところの東側にあったということになる。
川越道が大きくカーブするところは現在のここだと思う。
そうすると中山道西側の一里塚は現在のこのマンションのあたりにあったのではないかと思うのである。
ところで一里塚は小山が築かれていたというのだが、この小山はいつ平地にされたのだろうか?
浦和橋建設にあたって中山道を土盛りしたというのだか、その土盛りに一里塚の土が利用されたということはなかったのだろうか?
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