2017年11月17日ブログで私はこのような道筋を歩いた。
道路が密集している一帯を緑丸で囲む。
ヤフーの空中写真で見る。密集した道路を黄で示す。
ちなみに赤で示した道は赤山街道で文政年間与野町並絵図に描かれている道だと思う。その道を赤で示す。
昭和24年の地図を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。住宅が密集している。
ちなみに赤矢印は与野町役場で現在の保健センターの場所だと思う。
昭和21年の空中写真を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。同じような住宅が整然と並んでいる。
平成4年与野市発行『朝まんじゅうに昼うどん -與野ちょっと昔案内-』に<碁盤の目の町 大和町>というタイトルでこの地区の案内がされている。挿入図。以下に要約する。
①大和町(やまとちょう)は碁盤の目のようになっていて、与野としては大変珍しい町並みである。
②昭和18、19年に造幣省(被服省)の官舎として建築された。
③昭和27年、個人に払い下げられた。
④ここは霧敷川に向かって緩やかに傾斜しているが、官舎が造られる前は、傾斜は今より急で林や畑があった。
⑤官舎だったため、家の間取りは同じだった。だから一斉に玄関と北側の窓を開けると、直線的にずっと向こうまで見通すことができた。
⑥何故「大和町」という町名になったのか、はわからない。
平成17年発行『武州与野町物語(福田英夫著)』には大和町についてこのように記述されている。
町名については、 “ 当時大きな造成住宅地だったので、巨大戦艦大和にちなんで大和町としたといわれている ” とのことである。
2017年11月17日撮影の大和町自治会館と掲示板。
『武州与野町物語』には “ 赤羽の陸軍被服廠、十条の陸軍造兵廠の疎開住宅官舎として ” 大和町の住宅が建設されたとある。
日文研サイトデーターベース所蔵地図の大東京全圖北部方面(昭和7年10月発行)で赤羽・十条方面を見る。
赤羽駅の西に被服本廠がある。黄色の範囲を現在の地図に描くと概ねこのようになると思う。
次に十条駅付近を見ると造兵廠と表示されたところはないようである。
ところで下十条駅と十条駅を緑で囲む。「十条」は「じふでう」と書かれていると思う。
現在「下十条」という駅はないが、ウィキペディア東十条駅によれば、1931年(昭和6年)8月1日 下十条駅として開業し、1957年(昭和32年)4月1日 町名変更により東十条駅に改称した。
十条駅(じふでう)の下(南)に兵器製造所が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。陸上自衛隊十条駐屯地、学校がある。
十条駅(じふでう)の左上には兵器支廠が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。
道路が密集している一帯を緑丸で囲む。
ヤフーの空中写真で見る。密集した道路を黄で示す。
ちなみに赤で示した道は赤山街道で文政年間与野町並絵図に描かれている道だと思う。その道を赤で示す。
昭和24年の地図を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。住宅が密集している。
ちなみに赤矢印は与野町役場で現在の保健センターの場所だと思う。
昭和21年の空中写真を見る。緑丸で示したところはこのあたりになると思う。同じような住宅が整然と並んでいる。
平成4年与野市発行『朝まんじゅうに昼うどん -與野ちょっと昔案内-』に<碁盤の目の町 大和町>というタイトルでこの地区の案内がされている。挿入図。以下に要約する。
①大和町(やまとちょう)は碁盤の目のようになっていて、与野としては大変珍しい町並みである。
②昭和18、19年に造幣省(被服省)の官舎として建築された。
③昭和27年、個人に払い下げられた。
④ここは霧敷川に向かって緩やかに傾斜しているが、官舎が造られる前は、傾斜は今より急で林や畑があった。
⑤官舎だったため、家の間取りは同じだった。だから一斉に玄関と北側の窓を開けると、直線的にずっと向こうまで見通すことができた。
⑥何故「大和町」という町名になったのか、はわからない。
平成17年発行『武州与野町物語(福田英夫著)』には大和町についてこのように記述されている。
町名については、 “ 当時大きな造成住宅地だったので、巨大戦艦大和にちなんで大和町としたといわれている ” とのことである。
2017年11月17日撮影の大和町自治会館と掲示板。
『武州与野町物語』には “ 赤羽の陸軍被服廠、十条の陸軍造兵廠の疎開住宅官舎として ” 大和町の住宅が建設されたとある。
日文研サイトデーターベース所蔵地図の大東京全圖北部方面(昭和7年10月発行)で赤羽・十条方面を見る。
赤羽駅の西に被服本廠がある。黄色の範囲を現在の地図に描くと概ねこのようになると思う。
次に十条駅付近を見ると造兵廠と表示されたところはないようである。
ところで下十条駅と十条駅を緑で囲む。「十条」は「じふでう」と書かれていると思う。
現在「下十条」という駅はないが、ウィキペディア東十条駅によれば、1931年(昭和6年)8月1日 下十条駅として開業し、1957年(昭和32年)4月1日 町名変更により東十条駅に改称した。
十条駅(じふでう)の下(南)に兵器製造所が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。陸上自衛隊十条駐屯地、学校がある。
十条駅(じふでう)の左上には兵器支廠が黄色で示されている。
現在の地図ではこのあたりになると思う。
「大和町」と聞くと、埼玉県下では東武電車東上本線と、東京メトロ有楽町・副都心の両線が分岐してる和光市の町制時代の北足立郡大和町を、メジャーなら神奈川県下の大和市の町制(高座郡に属してた)時代を連想してしまいます。
かつて武州・大宮にある桜木町の一部地域に於いて、「旭町」が存在してた事しかり、記事中の「大和町」と、かつて存在してたけども、その後の町名整理や新しい住居表示による整理などによって、篩にかけられて消えた町名は、帝都・東京や上方・大阪などみたく旧町名継承碑を設置するなどして、後世に伝えてゆくなどすれば、町名の由来を調べるのに適切ではないかと、当方はその様に感じております。
さいたま市を例にとると、「与野」「下木崎」「加茂宮」など、随分消えた町名が幾つもあるため、継承碑でもあれば関連資料だけでなく、目でもしっかりと確認できるよう、散逸防止にも繋がるので整備が必要だと、埼玉県やさいたま市に税を納め、いち市民である当方は、市民および訪問される方々に対し、税金を地域振興と観光の為に使うべきではないかと、その様に思う次第であります。
以上をもちまして、当方は失礼します。
消えた地名は全国に数えきれないほどあると思います。
全国各地で継承碑を設置するようになれば、郷土を知る契機になって素晴らしいと思います。
それと学校教育でも子供たちに郷土の歴史をきちんと教えていただきたいですね。
では、失礼します。